「おっす」

 始業時刻ギリギリになってようやく出勤してきた雅人は隣の席に腰を下ろすやいなや、自らのスーツにシワがついていないかを入念に確認し始めた。

 きっと昨夜も仕事終わりに女の子と飲んでいたのだろう。その後に何が行われていたのかは言われなくともなんとなく想像がついた。タバコやアルコールの匂いこそしないが、普段することのないシトラス系の匂いがふわっと僕の鼻をかすめると、その爽やかな香りで昨夜のことを誤魔化そうとしている雅人のずるさが窺えたような気がした。しかし、そこに嫌らしさは一切感じなかった。そもそもスーツは昨日と全く同じものを着ていたのだ。ハナから昨夜のことを誤魔化そうとしているつもりなんて彼にはなかったのかもしれない。基本的に雅人は普段から小さいことを気にしない性分だった。

「昨日、仕事終わりに取引先の人たちと飲んでたんだけどさ」と何の前触れもなく話し出した雅人はお馴染みの黒いナイロン製の3WAYリュックサックから社用パソコンを取り出し、専用の充電器を足元の延長コードに繋いで起動させた。「そこの課長だか部長だかよくわからない女の人にえらい口説かれちまったんだよ」

「もはや毎度お決まりになってるな、それ」と僕は言う。

「そうなんだよ。いやあ、参った参った」

 ニヤついた顔で頭の後ろを掻く雅人がこちらをチラチラと見てくるのが横目でわかったので、僕はメールの確認作業を一旦やめて彼の肩を軽く小突いた。

「はははっ。わりいわりい」

「人生楽しそうだな、相変わらず」僕はふんっと鼻を鳴らした。

「まあ、こんなことできるのも完全に今だけの期間限定だけどな」と雅人は言う。「翔も遊ぶなら今のうちだぞ?」

「余計なお世話だっつの」

 僕は笑いながらもう一度雅人の肩を小突き、再びメールの確認作業に戻った。

「そういえば元気は? まだ出社してない?」雅人は亀のように首を伸ばして社内を見渡し始めた。

「昼前くらいに来るって言ってたよ」

「そっかそっか。もしかしてまた昨日も徹夜してたのかな?」

「たぶんね。どうせまたゲームでも作ってたんだろ」

「いいよなあ、エンジニアの連中は」雅人はそう言って椅子の背もたれに身体を預ける。「俺ら営業にもフレックス導入してくれないかな」

「そしたら時間なんて気にせず夜遊びできるもんな」

「まあな…………って、ちげえよ」

 雅人は自然なノリツッコミを入れた。それからしばらく経ってようやく仕事のスイッチに切り替わったのか、彼は隣で「っし。そろそろやるか」と独り言を呟き、背筋を伸ばしてもたれていた身体を起こした。入口横の壁に掛けられている時計の針はすでに始業時刻の八時半を回っていた。

 やがて十時を過ぎた頃にいつも見慣れたヤクルトのおばちゃんがワゴンを押しながら社内に入ってくると、「おはようございますっ」という溌剌とした声が社内に響いた。黙々と各々の作業をしていた社員たちのほとんどは一度そちらに顔を向けるが、誰も挨拶を返そうとはしなかった。

 僕は席を立ってキョロキョロと辺りを見渡しているヤクルトのおばちゃんに近づき、『本日のヤクルトセット』を一つ頼んだ。ブルーベリー味のジョアとミルミルとプレーンヨーグルトが一つずつ入った透明な小袋と千円札を交換し、ウエストポーチから手際よく小銭を取り出した彼女からお釣りを受け取る。「今日もお仕事頑張ってくださいねっ」と満面の笑みを浮かべた彼女につい顔が綻び、「ありがとうございます」と会釈をして席に戻った。

 パソコンの画面に目を凝らしながらプレゼン資料の見直しを行っていた雅人の手元に袋から取り出したミルミルを置いてあげると、「さっすがぁ」と言ってこちらを振り向いた彼はくしゃっとした笑みを作った。

「今日はどこの営業?」

「ん? ああ、昼の三時から竹内商事と」雅人はさらっとそう口にすると、作業していた手をキーボードから離してその場で大きく背伸びをした。「先方がわざわざウチまで来てくれるんだってさ」

「まじか」僕は目を丸くして驚いた。

 竹内商事といえば、時価総額三兆円を超えるほどの国内を代表する大手企業だった。まだ設立して間もないベンチャー企業なんかがまともに相手できる企業でないことくらいは理解していた。

「なんかさ、近頃、向こうの会社が情報セキュリティー部門に力を入れ始めてるみたいで」と雅人は小声で話し始めた。「それでウチの社長が先方にダメもとで営業をかけてみたんだって。そしたら向こうも『じゃあ一度話を聞いてみましょう』ってなったらしくて」

 顎をしゃくって事務所の北側にある会議室を指した雅人に釣られ、僕もそちらに視線を動かした。大きなFIX窓から差し込んでくる陽の光が、ドアノブに『使用中』記された札が掛かっている会議室の赤い扉とグレーのカーペットを斜めに照らしていた。どうやら雅人はあの中で竹内商事を相手にプレゼンするらしい。

「だから今日は今朝から役職持ちが勢ぞろいだったんだな」

 僕はそう言って事務所の中を軽く見渡した。最近ではリモートワークが普及し始めたせいか、社内ではほとんど目にすることのなくなった営業部長やエンジニア部門の最高責任者を兼任している副社長、そして社長までもが一般社員たちに混じってフリーデスクで黙々と仕事をしていた。

 今でこそ新宿のオフィスビルの七階に事務所を構えていた株式会社サイバーセキュアは、五年前に副社長と社長のたった二人で立ち上げた会社だった。設立して六年目を迎えた現在の社員数は四十人弱。そのほとんどが僕や雅人のような中途採用で入社した社員だった。会社の評判は上々。最近ではたびたびメディアで社長の名前が紹介されるほど、世間から注目され始めているベンチャー企業だった。

「竹内商事と業務提携でも結べればウチみたいな駆け出しの会社にも箔がつくってわけか」僕はそう言ってジョアにストローを挿した。「でもさすがだよな。そんな大事なプレゼンにまだ入社して二年しか経ってない雅人を起用するんだからさ」

「それな」雅人はまるで他人事のように隣でふんっと鼻息を吹いた。「どんだけウチの会社は人手不足なんだって感じだよ」

「いや、純粋に雅人が期待されてるだけだろ」

「どうだか……」雅人は苦笑いを浮かべて小首を傾げていた。

 そこにはやはりわざとらしい謙遜や、仕事を任されていることを誇示するような嫌らしさは感じられなかった。本当に仕事ができる人は自分の権力や能力を他人にひけらかしたりなんかしない。雅人と一緒に働くようになってからそう思うようになった。

 大事な商談の前夜に女の子と飲みになんて行ってられない。前日と全く同じ服装で挑むなんてまずありえない。雅人は、昔から何事に関しても目の下に隈ができるほど入念な準備をしておかないと気が収まらない僕とは明らかに異なる人種だった。大仕事を前にしても緊張感のかけらも全く感じさせないその姿が僕の目には心に余裕のある大人なビジネスマンに映り、結局はいつも当然のように契約を勝ち取ってくる彼のその仕事ぶりが羨ましくて仕方がなかった。

「それよりさ、翔は今日なんかあんの?」

「えっ、ああ、うん。午後から一件営業が入ってる」慌てて咥えていたストローから口を離すと、ジョアの容器がブクブクと音を立てて膨らんだ。「この前、雅人が回してくれた紹介案件だよ」

「ああ、あのファインバンクってとこだっけ?」

「そうそう」と僕は肯いた。「雅人も面識あるって言ってたよな?」

「うん。一回だけそこの会社の社長と、ウチのこと紹介してくれた取引先の社長と三人でゴルフ行った」雅人はミルミルに挿したストローを口に咥え、二吸いしてから「まあでも」と言葉を続ける。「結構気のいい社長さんだったからたぶん余裕で契約取れると思うよ」

「まじ? それなら安心だわ」と僕は胸を撫で下ろした。「いやさ、ホームページ見てみた感じだと、めちゃくちゃ強面こわもて社長だったからやべえんじゃないかって思ってたから」

「ああ、わかるわかる。でもたぶん翔なら余裕だよ」

 雅人はそう言って一息にミルミルを吸い上げた。

 それから再び資料に目を通し始めた彼に釣られるように、僕も残っていたジョアを一気に飲み干し、午後から使う営業資料の印刷に取り掛かった。

 十一時を回ったあたりでフレックス勤務の元気が「おざーっす」と覇気のない挨拶で事務所に入ってきた。うつむき気味に歩く彼は周りの挨拶をほとんど無視しながら専用のデスクへと向かい、椅子に腰を下ろすと早速ヘッドフォンを装着して外との繋がりを一切遮断していた。

 営業資料の印刷やその他諸々のタスクを一通り終え、何もすることがなくなっていた僕は隣の席でブツクサ独り言を唱えながらプレゼン資料を頭に叩き込んでいる雅人をよそに、透明な小袋の中に残っていたプレーンヨーグルトを元気のデスクに持って行った。

「ういっ」

 肩を叩かれてこちらを振り向いた元気が僕の姿に気付くと、鼻根にシワが寄るほど強張っていたその顔を緩め、「ああ、なんだ翔か」と笑みを浮かべてヘッドフォンを取った。

「昨日はゲームでも作ってたのか?」僕は元気のデスクにプレーンヨーグルトを置いた。「どうせ朝から何も食べてないんだろ?」

「心の友よ。まじ助かるわ」

 元気は顔の前に手を合わせてそう言うと、すぐにプレーンヨーグルトに手を伸ばして蓋を開けた。

「昼休みになったらパスタでも行かね? 雅人が良い店見つけたらしいんだよ」

「うわ、最高すぎる。ちょうど麺食べたいと思ってたとこなんだよ」

「そんな美味そうにヨーグルトを食べてる奴に言われても説得力ねえな」と僕は笑いながら言った。「とりあえずまた後から声かけるわ」

「おっけい」

 親指を立てて返事をした元気は、僕がデスクから離れようとするとまたもやヘッドフォンを装着し、自分だけの世界に没入していた。その耳元で延々と格闘技の実況中継が流れていることなど、おそらく僕と雅人以外の社員は誰も知らない。メイウェザーとマクレガーの試合なんてもう千回以上は聴いていると言っていた。そのために英語をマスターしたというのだから、彼のそのオタクぶりには小さい頃から格闘技が好きだった僕でも舌を巻いた。

 入社日が近くて偶然同い年だった中途採用の僕ら三人を繋げてくれたのは、格闘技好きだという共通の趣味だった。2003年の大晦日にナゴヤドームで行われた『ボブサップ対曙』を三人とも現地で観戦していたということが明らかになった時点で、僕らは絶対に親友になれると確信した。

 現に、元気なんかは僕と雅人以外に仲良くしている社員なんていない。そのミステリアスな風貌と、よく見ると目・鼻・口のパーツが色白の小顔の中にバランスよく整えられているその容姿を持って生まれたおかげか、女性社員たちの間では密かに『雅人派』と『元気派』に分類されるほど人気があったようだが、彼はそれらをほとんど相手にしていなかった。それに加え、東大の工学部を卒業している彼はエンジニアとしてもかなり優秀で、副社長からもわかりやすく気に入られていた。

「あっ、中町なかまちくん」

 席に戻る途中に僕は課長の田所誠治たどころせいじに呼び止められた。

「はいっ」

「ちょっと来てくれるかな?」

 手招きをする田所課長に僕は嫌な予感しかしなかった。

「どうかされましたか?」

「いやあ、別に何かトラブルがあったわけじゃないんだがね」と田所課長は相変わらず唾液多めでぺちゃくちゃとした粘着質な喋り方で前置きを口にし、その後はこちらも相変わらず皮肉がたっぷりと盛られた小言を続けた。「先週の営業報告書がまだこっちまであがってきてなかったからさ。あれ、これってもしかして僕がわざわざ君に言ってあげないと提出してもらえないんだっけ、って不思議に思っちゃってさ」

「す、すみませんっ」

 僕は慌てて頭を下げた。

 会社員として最も重要なタスクは『ホウレンソウ(報告・連絡・相談)』だと常々口にしている彼のことだ。きっとその不気味な笑みの裏では、はらわたが煮えくり返っているに違いなかった。

「至急、報告書作成に取り掛かります」

 そう言って席に戻ろうとすると、「ちょっとちょっと──」とすかさず後ろから田所課長に呼び止められ、踵を返そうと宙に浮かせていた足は途端に行き場を失ったかのように迷子になってしまった。やがて「中町くんさあ」と今度は明らかに怒気の込もった声で説教を始め出した彼を振り向くと、自然と身体は強張った。

「中町くんさあ、毎回毎回謝ってくれてるけど、いつになったら改善してくれるのかな?」田所課長はまるで見せつけるかのように目の前で深いため息を吐いた。「その歳になってもタスク管理ひとつできないようじゃ、ただの給料泥棒じゃない? 大坪くんや林くんのようになれとは言わないけどさ、せめて、もらってる給料に見合う働きはして欲しいんだけどな」

「……すみません」

「すみませんはいいからさ、とりあえず早く営業報告書ちょうだいよ」

「すみません。今から急いで作ります」と僕は言う。

「いい加減さあ、ほんと頼むよ」

 頭の後ろを乱暴に搔きむしる田所課長の姿を見て、僕はまた萎縮してつい頭を下げてしまう。「すみませんでした」

 それはいつの間にか身体の芯まで染み付いてしまっていた。もちろん大勢の前で怒られるのはいつまで経っても恥ずかしい。しかし、これも仕事のうちなんだと割り切ることしかこの時間を耐え凌ぐ方法はなかった。そしてこの辛い経験がきっとどこかで生きてくるはずだと言い聞かせ、なんとか自分の中で折り合いをつけてようやく席に戻った。

 隣の席でプレゼン資料を見直していた雅人は僕に気を遣ってくれたのか説教されていたことには一切触れず、「元気、昼飯行くって?」と聞いてきた。それに僕はまるで何事もなかったかのように肯き、「ちょうど麺の気分だったんだって」と言って笑いたくもないのに作り笑いを顔に貼り付けた──


 昼食は雅人オススメの会社から徒歩三分ほどの距離にあったイタリアンのお店を三人で訪れ、それぞれが好きなパスタを一品ずつ(僕がカルボナーラで雅人がペペロンチーノ、元気がジェノベーゼ)と三人で食べる用に小さいサイズのマルゲリータを一つ注文した。

 縁の広い皿に盛られた白と黄色と緑のパスタがそれぞれの目の前に運ばれてくると、何も言わずに早速食べ始める雅人と元気をよそに、僕は一人だけ律儀に手を合わせて「いただきます」と声に出した。

「相変わらずそういうとこ真面目だよな、翔は」と雅人はオリーブオイルで唇を湿らせながら言った。「そういや、まだ週三でジムも通ってるんだろ?」

「ああ、うん」僕はパスタを巻いていた手を止め、二人にも見えるように顔を上げて苦笑いを浮かべた。「でもまあ、別に誇れることじゃないけどな」

「なに言ってんだよ。継続できるって十分すごいことだろ」

「そうかな?」と僕は小首を傾げた。「雅人みたいに大手企業と契約を結んだり、元気みたいに新しいものを開発したりする方がよっぽどすごいことだと思うけど」

「別にすごかねえよ。そんなのは時の運だっつうの」と雅人は言った。

 元気はさっきから全く会話に加わろうとせずに黙々とジェノベーゼを口に運んでいた。相当腹を空かせていたのだろう。今朝からプレーンヨーグルトしか口にしていなかったのだから当然といえば当然だった。

 やがてテーブルの真ん中にマルゲリータが運ばれてくると僕は率先してそれを三等分に切り分け、それぞれの取り皿に取り分けた。早速そのピザに手をつけた元気は目を丸めて「う、美味すぎる。なんだよこれ……」と感嘆の声を漏らし、その反応を見て雅人は嬉しそうに「だろ?」と笑っていた。僕もそんな二人のやりとりを見てようやくマルゲリータを口に運んだ。

 甘みと酸味のバランスがほどよいトマトソースが口の中いっぱいに広がり、香ばしいチーズと爽やかなバジルの香りが後追いしてくるように鼻腔を駆け抜けていくと、僕は思わず「たぶん今まで食べたピザの中で一番美味いわ」と安っぽい感想を口にしてしまっていた。

「だろ?」とまた雅人は嬉しそうに笑う。「ほら、元気なんか見てみろよ。一瞬でなくなっちゃってるよ」

 いつの間にか元気は自分の分のマルゲリータをぺろりと平らげ、満足げな表情で口の周りに付着したトマトソースをナプキンで拭っていた。ジェノベーゼはまだ半分ほど残っていたが、彼はそれをたった二、三分の間で難なく胃の中に収めた。僕もそれに負けじと食い意地を張り、カルボナーラとマルゲリータを一気に胃の中へ押し込む。食べ終わった人から食後のホットコーヒーを一つずつ頼み、その後は一息つきながら取り留めのない会話を繰り広げた。

 元気が徹夜してまで作っていたゲームの話題や、つい先日雅人が契約を勝ち取ったばかりだった大手IT企業とのやりとりの話題、そしていつかは三人で独立して会社を立ち上げようなんていう夢物語まで、あてもなく、そして目的地や終着点も決めずにただただダラダラと午後の仕事が始まるまでの時間を潰した。

「今度さ、三人で起業セミナーとか行ってみるか?」と突然雅人は言い出した。

「別にどっちでもいいよ。社長の意見に合わせる」

 起業の話になると元気と雅人はいつも決まって僕のことを「社長」と呼ぶ。たしかに二人に起業しようと言い出したのは僕だったが、まだ何の目処も立っていない状況の中でその呼ばれ方をするのは気恥ずかしかった。

「いい加減その社長っていうのはやめてくれよ。だいたい、まだ雅人や元気が社長になる可能性だってあるわけだし」

「ないない、ありえないよ」と雅人は即座にかぶりを振った。

 それに同調するように元気も「そうそう」と肯き、「この三人の中で社長できるのなんて翔しかいないんだって」と言い切った。 

「考えてもみろよ」と雅人は言う。「俺はズボラでロクに時間も守れないし、元気は極度の人見知りと人嫌いで俺らとしか会話しようとしないだろ? だからこの三人の中で唯一まともなのは翔しかいないわけなんだよ。しかも、翔は週三でジムに通う習慣があるし、普段から食生活まで気をつけるほど秩序のある生活をしてる。煙草だって俺なんかと違って一日に二本って決めてるだろ? 上に立つ人間ってたぶんだけど、そういうちゃんとした人間っていうか、自分を律することができる奴でないと長続きしないんだよ。だってほら、仮に俺か元気のどっちかが社長にでもなってみろよ。秩序の存在しない会社なんて大学のヤリサーみたいにめちゃくちゃになって会社自体がなくなっちまうのがオチだぞ」

「……そんなもんなのかなあ」

 僕は小首を傾げながらも、つい口元が綻んでしまっていた。

「満更でもない顔してんじゃねえよ」とすかさず雅人はそれを笑う。

 しばらくしてホットコーヒーを飲み干した元気は何かを思い出したのか「あっ」と声を漏らすと、話の腰を折るように「そういえば翔はこの後すぐに直接営業行く予定なの?」と続けた。

「うん。そのつもりだよ」

「どこにある会社?」

「新橋にあるファインバンクって会社。雅人が回してくれた紹介案件なんだ」

「そっかそっか。じゃあそろそろ出発しないと時間やばくね?」

 そう言って店内の壁掛け時計を見上げる元気の視線に釣られ、僕も顔を上げて時刻を確認した。

「やべっ」

 案外、寛いでいる暇なんてもうなかった。

 僕は慌てて足元に置いていたブリーフケースを持ち上げ、テーブルに自分が食べた分の代金を置き残して店を出た。そのままの足で新宿駅まで走り、昼間だというのにまだサラリーマンと大学生で飽和していた山手線の内回りに乗って新橋駅まで向かう。

 スマホ上のマップで徒歩七分と記されていた道のりを汗をかかない程度に走り、目的地に到着するまでに二分ほど巻いた。決して大きくはない年季の入った雑居ビルの四階に株式会社ファインバンクは事務所を構えているらしい。

 僕は白い石目調のタイルが床に敷き詰められているエントランスを抜け、エレベーターで四階へ上がる。どうやらワンフロア丸ごとファインバンク専用のオフィスになっているらしい。エレベーターの扉が開くとすぐに『株式会社ファインバンク』と黒文字で印字されている磨りガラスの扉が出迎えてくれた。

 僕は扉の前に立ち、短く息を吐いた。

 左腕に巻いていた腕時計の針は予定していた時刻の三分前を指している。ちょうどいい頃合いだろう。ホームページで見た強面の社長の顔をふと頭の中に思い浮かべていた僕は、若干緊張しながら『御用のある方はこちらを押してください』と記されていたインターフォンを押した。

 応答が聞こえてきたのは、それから二、三秒が経った後のことだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る