シアター快適鑑賞システム

結騎 了

#365日ショートショート 299

 銀幕への映写が始まった。

 駆動音がしないエアコン。澄んだ空気。シートの匂い。整えられた音響は自宅のそれとは全く異なる。どうしてこんなにも大きな画面なのに、が粗くないのだろう。どうして手を触れたくなるような質感の豊かさが、この平面に映っているのだろう。これから約2時間は、椅子に座って前を向くだけの時間。その他一切の行動を忘れ、禁じられ、物語だけを飲み込む時間。大人は、それに1,800円を支払う。行動を制限してくれる環境のためなら、決して高い投資ではない。

 上映中、とっくに辺りが暗くなった頃。ある男が遅れて入場してきた。特に屈む様子を見せず、スマートフォンのライトを照らし、座席の位置を確認し始めた。ちら、ちら、と。スマートフォンが手元で動く度に、光の線が座席を通り過ぎる。その後、H-3の席にどかっと腰を落ち着かせる。ある客が、その様子を遠目に手すりを握りしめた。

 物語はまだ序盤。主人公がトラブルに巻き込まれ始めた頃、H-3の男はリュックの口を開いた。取り出したのは、コンビニのおにぎり、及びお茶のペットボトル。音も気にせずビニールを剥ぎ、食事を始めた。むしゃ、むしゃ。ごきゅ、ごきゅ。よりにもよって、食事の際に口を閉じない人間であった。隣のH-4に座る女性は、手すりをきゅっと掴んだ。

 中盤、銀幕において見せ場のアクションシーンが展開された。暗いシアター内に響き渡るのは、爆音と光の洪水。隅々まで設計された、画角や立体音響。作り手の細部へのこだわりが観客を襲う。H-3の男は、つい興奮が高まったのか、前の座席を執拗に蹴り上げた。かと思えば、スマートフォンの画面を点灯し、何やら時刻を確認している。背中を蹴られたG-3の老人、そして眩しさを覚えたI-3の少年は、手すりに指を這わせた。

 座席の手すりに備え付けられている、迷惑行為通報ボタン。複数人からの通報が、この瞬間、規定数に達した。

 H-3の座席は音もなく消えた。否、正確には椅子が一瞬で変形し、穴となり、座っていた男を奈落へ突き落したのである。男は数十メートルを一瞬で落下し、コンクリートの固い床に叩きつけられた。骨や関節の異常を知らせる鈍い音が響く。しかし、あまりの深さと防音加工の壁に囲まれ、男のくぐもった悲鳴は決してに届くことはない。続けて、壁の隙間から数えきれないほどの刃物がせり出した。超技術により、チェンソーのように回転する刃音はこれまたには届かない。逃げ場のない男の体は十七の部位に切り裂かれ、その断末魔はH-3の座席の変形と共に蓋をされた。

 観客らは、環境を満喫した。

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