偽りの踊り子

植原翠/『おまわりさんと招き猫4』発売

偽りの踊り子

 某県の山岳地帯に位置する秘境、三渓原みたにはら村。

 そこに伝わる「夜桜舞姫」は、知る人ぞ知る傑作の舞踊といわれている。

 毎年三月の末に行われる夜桜祭りで、村で生まれた六歳から十五歳までの少女がその舞踊を舞う。繊細な絹の衣を纏い、夜桜化粧と呼ばれる妖艶な化粧を施し、村の住民の無病息災、五穀豊穣を祈るのだ。

 日本でいちばん美しい舞と評する専門家もいるほどの舞踊であり、その美しさに魅せられた人々が祭りに合わせて観光に訪れる。


 私、高宮律子は、そんな観光客向けの旅雑誌「さと旅」に夜桜舞姫の記事を載せるため、この三渓原に取材にやってきたトラベルライターである。

 今日の夜、夜桜舞姫が見られる夜桜祭りが行われるのだ。


 三渓原は同県の市街地からレンタカーを借りて三時間、山道をひたすら登った先にある。まともに整備されていないボコボコの山道を進んでいると、道を間違えていないか不安になってくる。せめてバスがあればいいのに、恐ろしいことに一日二本しかないという。人里があるとは考えられないほどの山奥だ。

 携帯はとっくに圏外。コンビニなんかずっと見ていない。それでも、さわさわと静かに揺れる緑の木々や高く晴れた空は、私の心を穏やかにしていた。

 助手席に置いた鞄から、市役所で貰った村のパンフレットがはみ出している。この三渓原のシンボル、大桜が表紙を彩っていた。

 大桜とは、名前のとおり桜の巨木である。大きな池のほとりに立ち、花を咲かせるとその池が鏡になってより幻想的な空間を描き出す。花が散れば池の水面に絨毯のように広がり、その姿もまた呼吸を忘れるほどに美しいといわれている。ほんのり赤みの強い桜で、品種がはっきりしていない不思議な桜なんだとか。

 夜桜祭りは、この桜の前で行われる。桜には守り神が宿っていて、その神様に祈りを捧げる祭りなのだ。

 ようやく目的の村に着いた。私はあらかじめ連絡していた公民館を訪ねた。今日の祭りに向けて、夜桜舞姫のリハーサルが行われるのだ。

 耳を澄ますと、中から音が洩れているのが外からでも聞こえた。琴の音色だ。どうやら夜桜舞姫の練習が始まっているらしい。

 私はそろりと引き戸を開けた。

「こんにちは、ご連絡していた高宮です」

 踊りの練習の邪魔をしないよう、静かに中に入る。琴の音色がはっきりと耳に入ってくる。そして入口からすぐの広間に広がっていた光景を見て、私は息を呑んだ。

 淡い桜色の絹の衣装に、真珠のような羽衣を纏う、少女。長い睫毛に覆われた黒い瞳は、どこか未来でも見ているかのように遠く、憂いを帯びていた。

 すっと高く上げられた腕が宙に弧を描く。段階的に開いていく指先で爪がキラリと光る。踊り子が軽やかに一回転した。羽衣が宙で膨らみ、足元のひらひらした裾が遅れて風を孕む。

 心臓が鷲掴みにされる。まるであの踊り子の周りだけが異世界みたいだ。幻想の世界の一部を見せられているような、感じたことのない感動が胸に染み渡っていく。

 琴の音が止まった。舞い踊っていた踊り子も、高く指を伸ばした姿勢で静止した。

 ぱちぱちぱち、と広間の袖から聞こえた拍手で私は我に返った。

「いいよ! 流石だよ、美桜」

 拍手していたのは初老の男性だった。美桜と呼ばれた少女は上げていた手を下ろし、彼の方に向き直った。男が拍手を続ける。

「今夜も頼んだぞ」

「うん、分かった」

 初老の男と話す彼女は、どこにでもいる普通の女の子と変わらない幼い話し方をした。先程までの艶っぽい色気は薄れ、ごく自然な少女になっている。幻でも見ていたかのような気分だ。

 初老の男が、私の方を振り向いた。

「ご挨拶が遅れました、高宮さん。わたくし、公民館の館長の籠上と申します」

「初めまして、高宮です」

 ぺこりとお辞儀をする。館長とは、電話でやりとりをした。今日のアポイントもこの人を通じている。館長がひらりと手のひらを隣の少女に向けた。

「そしてこの子が、美桜です」

 加瀬沢美桜。「奇跡の踊り子」と呼ばれる、村いちばんの逸材と聞いている。

 夜桜舞姫歴五年の、来年の春で小学六年生になる女の子だ。私はこの子に会うために、この山奥まで車を走らせて来たのだ。

「初めまして、美桜ちゃん。今日はインタビューさせてね。よろしく」

「そう。分かった」

 美桜ちゃんは素っ気なく返した。

 踊っているときはあんなに艶やかだったのに、踊っていないと歳相応の生意気な少女という印象である。小学校高学年という多感な時期なのに加え、「奇跡」なんて呼ばれてプライドが高くなっているのだろう。態度が大きくなるのも無理もない。

「いやあ、美桜がいると毎年美桜で決まっちゃうね。捧げ姫の役目」

 館長が美桜ちゃんの頭をぐりぐり撫でた。

「捧げ姫というと……祭りのときに踊る、センターの務めですよね」

 聞くと、館長は頷いた。

「一応、村の踊り子の女の子全員でオーディションをするんですが、ここのところ毎年、美桜に任せてます」

 夜桜祭りでは、踊り子たちによる夜桜舞姫の披露が最大の目玉となっている。これは村の守り神「大桜之神」に捧げる祈祷の舞だ。複数の踊り子たちの中でも特に踊りの上手い子を選び、その少女に「捧げ姫」という役割を与える。捧げ姫に選ばれた踊り子はセンターを務めさせるのが習わしであり、形式的なものではあるが、意味合いとしては神様に身を捧げるという役回りで、もっとも重要とされているそうだ。

 美桜ちゃんはなんと、その役目を五年連続務め上げている。「奇跡の踊り子」の異名はそこに由来しているのだ。

「毎年。すごいんだね、美桜ちゃん」

「別に。私の他に踊り子二人しかいないし、その二人とも下手くそだし」

 美桜ちゃんは愛想なく下を向いた。館長が苦笑いする。

「そうなんです、田舎なものですから少子化が酷くて」

 その問題も、下調べしてきている。この村にはとにかく子供が少なくて、夜桜舞姫の後継者も年々減ってきている。

「高宮さん。どうか雑誌を通じて移住を促進してくださいませんか。近頃は観光客すらも減ってきてまして」

 館長がため息をついた。実は、この村が私の取材に応じてくれたのは、その目的があったからだそうだ。私のような記者が記事を書いて村の魅力をPRし、読者に旅をさせる。村側の狙いはその先、村の虜になった人に移住を促したい考えなのだ。とはいえ、ここまで山奥だとなかなか移住に踏み切れないのが現状である。私は頑張ります、と笑って濁した。

「じゃ、私、着替えてくる」

 美桜ちゃんがふいっと後ろを向いた。

「記者さん。取材するなら早くして。着替えながらこたえる」

 冷ややかな口調で言い、美桜ちゃんは広間の隣の控え室に入っていく。戸を閉める前に私を一瞥した。

「入ったら?」

「今から着替えるんじゃないの?」

「着替えるよ。言ったじゃん、着替えながらこたえるって」

 てっきり控え室の戸を隔てて、質疑応答を行うつもりなのかと思っていた。歳頃の女の子なのだから、着替えを見られるのは嫌がると思ったのだが。

 促されるまま、控え室に入る。畳が敷かれたその部屋に、女性が一人、座っていた。

「初めまして。加瀬沢敦子です」

 美桜ちゃんの母親だろう。複雑な造りの衣装の着替えを手伝うために来ているようだ。

「お話は伺っています、高宮さん。本日はよろしくお願いします」

 母親の方は丁寧な性格で、深々と頭を下げた。それから美桜ちゃんの顔をちらりと見る。

「高宮さんを驚かせてしまうことは、承知なのですが」

 羽衣を脱ぐ美桜ちゃんに、敦子さんが手を伸ばす。腰の帯をするっと解き、美桜ちゃんの衣装を緩めた。前開きの襟がはらりとはだける。中にインナーは着ていなくて、すぐに肌が露になった。

 その体を見て、私は思わず目を剥いた。

「えっ……男の子?」

 美桜ちゃんの胸は、小学生にしたってあまりにも平らだった。美桜ちゃんが自ら衣を広げると、男の子用の下着を穿いているのまで見えた。

 私は驚いて、それ以上言葉が出なかった。

 美桜ちゃんが男の子? なぜ女の子のふりをしている? なぜ、私にその秘密を明かした? 全く意味が分からない。

「しっ。あんまり大きい声で言うな。館長に聞こえたらまずい」

 踊り子だった少年が人差し指を立てた。

「俺の本当の名前は桜真さくま。美桜は、双子の姉。二卵生だけど、たまたま顔がそっくりなんだ」

 美桜ちゃん、いや、桜真くんは、もそもそと私服のジーパンを穿いた。細身のデニムの、女物だと思しきジーパンだった。私は混乱で、思わず直球に尋ねた。

「どういうこと? どうして桜真くんが、双子のお姉さんの名前で女の子のふりをしてるの?」

 母親の敦子さんが、神妙な顔をする。

「踊り子は女の子でなくてはいけない。捧げ姫は、村で生まれた少女と決まっているから」

「それでもどうして、桜真くんが?」

「俺は美桜の代わりなんだ。もう五年も村の住民全員騙してる」

 聞けば聞くほど分からなくなる。

「なんでそこまでするの? ただの村のお祭りよね?」

「村の外ではそう伝わってるそうですね。でも、祭りで神様に夜桜舞姫を捧げる行事は、形式的なものではないのです」

 敦子さんが深くまばたきをした。

「この村では、大桜之神は真剣に信仰されています」

 そんなバカな。いくら山奥の田舎だからって、そんなに古臭い習慣が残っているなんて、信じられない。

「村の外から来る観光客には、観光客向けの祭りのみを見せますから広まらないのでしょう。ですが、その公の舞の後で、本当の儀式が始まります」

「本当の儀式?」

「捧げ姫を大桜之神に捧げる……桜の前の池に戸板を浮かべ、その上で捧げ姫に一晩中、戸板が沈むまで夜桜舞姫を踊らせるのです」

 背筋が凍った。この伝統芸能の起源を調べていて、そんなルーツがあったことは知っていた。踊り子は神様に捧げる生贄。人柱だ。気味の悪い話だが、それは昔のことで今は踊りだけが伝承されているものと思っていた。

「それじゃ……今でもこの村では、女の子たちが池に沈められているんですか?」

「そうです。だから年々子供が減って、担い手がいなくなっていくんです」

 それは、あまりにも恐ろしい話だった。私が言葉をなくしているうちに、敦子さんは更に続けた。

「美桜と桜真が六歳になった年のことです。美桜も踊り子の年齢に達したので、当然、踊り子として祭りに参加しました。美桜はもともとダンスが好きな子でしたので上達が早く、その将来性を買われ、初めての年で捧げ姫に抜擢されたのです」

「えっ、ということは本物の美桜ちゃんはもう……?」

 額に汗が滲む。しかし敦子さんは首を振った。

「それが、美桜は池に立たされることを怯えて、辞退してしまったのです。そして美桜の次の候補だった女の子が代わりに捧げ姫になり、その年の祭りで神に捧げられました」

 桜真くんが、長袖のカットソーに着替えつつ付け足す。

「美桜は助かったけど、代わりに死んだ人がいた。美桜はその罪悪感でうなされて、何も食べられなくなって、寝込んでしまったんだ」

 カットソーの上から、パーカーを羽織る。

「それなのに翌年の祭りの頃になったら、村の人々は、踊り子不足で悩んでいるから美桜を出せと要求してきた。美桜は捧げ姫に選ばれるほどの踊り子だったから、皆、美桜を神様に捧げたくて仕方なかったんだ。美桜が参加しないと家に火を付けるとまで言って脅かしてきた。美桜は怖がって怖がって、踊り子になんてなりたくない、死にたくないって泣いた」

 頭が痛い。幼い女の子を池に沈めようと躍起になって、子供を差し出さない家を脅す。この村は狂気を起こしている。

「酷い! こんな村、出て行っちゃえばいいじゃないですか!」

「それはかないません。この村で生まれた人間は、村から出てはいけない。一生を大桜之神のお足元で過ごさなくては災いが起こるんです」

 敦子さんが頭を抱えた。桜真くんは、パーカーの中に入り込んだ伸びた髪を引き出した。

「そこで、俺は美桜と入れ替わった。眠っているのが俺で、俺が美桜になった。俺が美桜の代わりに踊り子になることで、村の住民たちを騙して満足させる。それで俺が死ねば美桜が死んだことになって、美桜が死んだとなれば住民たちもうちの家族を脅したりしないからな」

 もう一度驚いた。桜真くんは、怯える美桜ちゃんの代わりに自分が死ぬことを覚悟したというのだ。

「でも、見てのとおり俺は生きてる。ちゃんと池に沈んだのに、朝になったら池の外に放り出されてたんだ」

 桜真くんがひらりと両手を広げた。

「多分、男だったからだ。生贄の条件を満たしてないから神様に返却されたってわけ」

 そう言われて、私はハッとなった。

「男の子だと生きて戻ってこられるの? それじゃ、桜真くんが毎年捧げ姫になってたのって……」

「俺が捧げ姫になり続ければ、他の女の子たちが死ななくて済むからだ。俺も死なないしね。だから一緒に踊り子やってる子たちには、俺より上手く踊るなって釘刺してあるんだよ。あいつらも死にたくないから、わざと下手に踊ってる」

 それから桜真くんは、自嘲的に笑った。

「『奇跡の踊り子』っていうのは、踊りが上手いからついた二つ名じゃない。何度生贄になっても戻ってくるから、そう言われはじめたんだ。もっとも、毎年春先に池に沈められるのは、冷たくて辛いけどね」

 そうだったのか。桜真くんは、双子の姉や家族、他の踊り子たちを守るために、自分を犠牲にして美桜ちゃんと入れ替わっていたのだ。

「ただ、この頃、問題が浮かんできた」

 桜真くんが腕を組んだ。

「美桜を守るためには十五歳まで入れ替わらなきゃならない。でも流石に俺も体格が男っぽくなってきてるし、そのうち声も変わる。いい加減、村の人に誤魔化すのも苦しくなってきてるんだ」

 たしかに、女の子に化けるために髪を伸ばしている彼は、子供故に女の子と見間違える。だが成長期だし、このまま続けるのは難しいかもしれない。

 敦子さんが目を伏せる。

「これを知っているのは私たち家族だけ。この相談をしたのも、高宮さんが初めてです」

「なぜ私に?」

「あなたは村の外の人だからです。あなたに助けてほしかったんです」

 そうか。この村の狂った価値観とは違う頭の私が、村の外へこの現状を伝えて助けを求めれば、これ以上、子供が死ななくて済む。

「高宮さんを利用してしまってすみません。でもあなたが来てくれたことが、私たちのチャンスなんです」

「もちろん協力します。私にできることがあれば何でも」

 私は力強く頷いた。桜真くんが私を一瞥する。

「記事にするためにも、美桜に会ってくれないか。親父が医者だから、美桜の面倒は家で見てるんだ」

 ぜひ会いたい。こんな恐ろしい習慣のせいで少女が心を病み、少年が成り代わっているこの真実を、世に知らしめなくてはならない。


 *


 桜真くんと敦子さんについていって、お宅を訪問した。

 美桜ちゃんは、畳の敷かれた和室で布団に寝ていた。掛け布団の中から顔だけ出して、目を瞑っている。

「このとおり、美桜は眠って起きなくなった。俺が踊り子を代わった年からだよ」

 桜真くんがふうと息をついた。

「記者さん、美桜に触るなよ。親父から、絶対に触るなって言われてるんだ」

 布団の中から点滴の管が伸び出ている。植物状態なのだ。美桜ちゃんの顔は、双子である桜真くんそっくりだったが、青白くて酷くやつれていた。

「こうして美桜の顔を見ると、今年も頑張らなきゃなって思う」

 桜真くんが美桜ちゃんを見つめた。

「戻れると分かっていても、池は冷たいし溺れて意識を失うのも苦しくて怖い。だけど、美桜のためにも俺がやるしかない」

 それから桜真くんは、私の方を見上げてふっと微笑んだ。

「でも今年で終わりだよな。記者さんが助けてくれるんだろ? 俺が踊り子やるのは、これが最後だ」

 小生意気な少年が突然見せた笑顔は、素直で愛らしかった。桜真くんは、長い髪をくしゃくしゃ掻いて部屋を出て行った。

「シャワー浴びてくる。そろそろ祭りの準備始まるから」

 桜真くんは、素っ気なくて生意気なところもあるけれど、お姉さん想いの優しい子だ。こんな酷い境遇の中でも必死に戦っている。それだけ、美桜ちゃんも、守りたくなるような素敵な女の子であるに違いない。

「高宮さん」

 黙って立っていた敦子さんが口を開いた。

「高宮さんには、全てお話しするつもりです」

 きょとんとする私に、敦子さんは真剣な目を向けた。


 *


 その日の夕方、夜桜祭りは予定どおり行われた。楽しげな出店が出て、村人たちはわいわい盛り上がりを見せていた。踊り子三名による舞が催されたが、これはあくまで形式的なイベントである。本当の夜桜舞姫は、この後、深夜に行われる。

 私は盛り上がる祭りの間、ずっとぼうっとしていた。頭の中で整理がつかなくて、ただ呆然と池の周りの出た出店を見つめていた。

 巨大な桜が夜の闇に映える。あまりにも大きくて立派で、呑み込まれてしまいそうだ。池にその姿を落とし、月が煌めき、この世のものとは思えないほど美しかった。

 やがて、出店がなくなって人々がはけはじめた。一人減り、二人減り、池の桜の前に残ったのが二十人未満になる頃には、夜中の十一時を回っていた。残っているのは公民館の館長や役場の職員数名、何名かの住民、桜真くん以外の二人の踊り子、桜真くんのお父さんとお母さん。そして、捧げ姫となるために「美桜」を演じる桜真くん。

 桜真くんの肌は漆喰のように白く塗られ、目尻には艶かしい朱を差し入れられている。額や頬に赤い模様を描かれ、独特な艷麗さを引き立てていた。先程も見た桜色の衣装と真珠の艶の羽衣を纏い、小学生とは思えない妖美な魅力を放っていた。

 彼は臆することなく戸板に足を乗せ、広い池の真ん中へと流されていった。

 私は、あの子の家で見た美桜ちゃんを思い出していた。


「高宮さんには、全てお話しするつもりです」

 美桜ちゃんが眠る部屋で、敦子さんは言った。桜真くんがシャワーを浴びに出ていってからのことだ。

「桜真が美桜の代わりに踊り子になると言い出したときは、本当に困りました。無駄だと言ったのに、全然聞かなくて」

「そうですよね。桜真くんだって大事なお子さんなんですから」

 返すと敦子さんは、ふるふると首を振った。

「そうではなくて。桜真じゃ意味がないんです。踊り子は女の子でなくてはいけない。捧げ姫は村で生まれた少女と決まっているから」

 敦子さんが美桜ちゃんの布団を掴む。はらりと捲られて、布団の中が晒された。

「えっ……?」

 間抜けなことに、私はそんな短い声しか出せなかった。

 美桜ちゃんには、首から下がなかったのだ。

「男である桜真では生贄にならない。だからこうして、毎年少しずつ美桜の体を切って、大桜之神に捧げていたんです」

 敦子さんの目線が美桜ちゃんに落ちる。

「踊りを桜真が、体を美桜が。両方を捧げてようやく生贄は成立しました。桜真はそれを知りません。まだ美桜は目を覚ますと信じています」

 戸板の上で、美しい少年が踊る。

 ゆらゆらする不安定な場所でも、その耽美な舞は崩れなかった。軽やかな動きにふわりふわりとついていく、羽衣と長い髪。遠くを見つめる瞳は、大人びて哀愁が漂うのに、胸を抉られるほど酷くあどけない。


「夫が医者なので、特殊な薬を作って、生きているように見える保存状態をここまで保てました」

 敦子さんは、美桜ちゃんの顔を無感情に眺めていた。

「桜真が踊り子になった最初の年は、美桜の脚を。その次は両腕を捧げました。次に腰から下を、その次は残りの首から下を」

 生首だけになっている美桜ちゃんに、私は震えが止まらなかった。

「桜真の体が限界なのもそうですが、このとおり、美桜の肉体ももう頭しかないんです」

 いや、美桜ちゃんよりも、この母親に震えが起こる。

「頭は今年の祭りで捧げます。今までは布団で隠していましたが、頭までなくなれば桜真も気がつくでしょう」


 少年の舞は続く。

 風で水面が揺れ、板も揺れた。神の宿る桜が花びらを散らす。高く伸びる細く白い腕に、花吹雪が降り注ぐ。

 桜真くんは美桜ちゃんを守りたくて、全てを投げ打ってここまで生きてきたのに。そのために今、こんなに美しく舞い踊っているのに。


「ねえ高宮さん。お願いです。どうか記事を書いてたくさんの移住を促してください。そしてこの村に、踊り子になる子供を増やしてください」

 敦子さんはじっと私の目を見てそう言った。

「私ももっと子供を産みます。この村で生まれ踊り子を経験したのに、捧げ姫になれなかった不束者の私は、そうして神に供物を捧げるのが精一杯」

 おかしいと思ったのだ。我が子が正体を偽って生活し、毎年池に沈められていると分かっていながら、それをよしとしている母親。


 池の上を舞台に、淑やかに舞う少年から、目が離せない。涙が出そうで出ない。

 そんな私の横を、敦子さんが通り過ぎた。腕の中に丸くなった風呂敷を抱いている。すぐに分かった。中身は美桜ちゃんの頭だ。

 腕を引っ掴んで止めようかとも思った。しかし、私の体は透明な糸に縛られているかのように動かなくて、敦子さんが風呂敷を開いて中身を池の中にそっと放とうとした姿を眺めているしかできなかった。

 そのとき、板の上の踊り子がぴたりと止まった。

「……美桜?」

 静かな夜だったから、池が広いにも拘らず、彼の声は岸まで聞こえた。

「母さん! それ美桜? 美桜じゃないか!? 顔が見えた!」

 叫ぶ桜真くんを前に、敦子さんの手が止まった。毎年、桜真くんにも他の村人にも見つかることなく美桜ちゃんを池に落としていたのに、今日はついに桜真くんの目に入ってしまったのだ。

「どういうことだよ! ねえ、嘘だろ、美桜は生きてるよな? それ何なんだよ!」

 桜真くんが、がくんと板に膝をつく。板がぐらっと揺れて、落ちそうになった。桜真くんの夜桜舞姫は、完全に止まっていた。公民館の館長が震える声で言う。

「まずいぞ……捧げ姫が踊りを止めた。儀式が途中で止まるなんて最悪の事態だ」

 あの昼に会った穏やかな館長が、まるで別人のようだ。

「大桜之神に失礼だ。あれを生かしておくわけにはいかない。神の怒りを鎮めるためにも、美桜を処分せねば!」

「殺せ!」

 役場の職員が、石を拾って桜真くんに向かって投げた。それに倣って他の職員や住民らも石を投げ出した。美しく化けた少年に、心ない石が命中する。それでも少年は叫び続けた。

「美桜、美桜!」

「家に猟銃がある者は持ってこい! 殺せ!」

 村人たちが錯乱する。真っ青な顔で立ち尽くす他の踊り子の少女を、役場の人が捕まえた。

「捧げ姫の代理は君でいい」

「いやあ!」

 降り注ぐ桜の雨と、人々の怒声。ついに銃声が響くようになる。

 そして耳を劈く、少年の悲鳴。

「美桜ー!」

 私は何もできなかった。ただその凄惨な光景の前に、佇むしかできなかった。

 そして、茫然自失のままに、敦子さんが美桜ちゃんの布団の横で言った言葉を思い出していた。


「ねえ、高宮さん。あなたも移住してきてくださいよ。そして子供を産んでください。女の子を」


 そこからは、あまり覚えていない。

 私は何もかもを放棄して、レンタカーを飛ばして村から逃げた。目の前で殺される少年を助けることもできずに、あのおどろおどろしい村から全力で逃げ出したのだ。

 市街地まで出る頃には朝になっていて、自宅まで電車で帰った。そして帰りついてすぐ、休む間もなくペンを取って狂ったように紙の上を滑らせた。

 記事を書いたのではない。退職願を書いたのだ。

 もう無理だ。私にライターなんてできない。記事なんて書けない。書こうとしたら、あのあどけない笑顔を思い出してしまう。


 それからというもの、桜の花を見ると何度でも頭の中に蘇る。

 全てを捨ててお互いを守った、悲しい双子の物語が。

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