眼鏡、愛情、いたずらと

植原翠/『おまわりさんと招き猫4』発売

眼鏡、愛情、いたずらと

「お父さんの貧乏性は百も承知だけど、流石にこのぶっ壊れた眼鏡を捨てないのはどうかと思うよ」

 高校生になった娘の陽世は、大人になったせいか父親の僕に対し何かと物申してくることが多くなってきた。

「ていうかどういう扱い方したらこんな壊れ方するの?」

 娘の手の中でぶら下がっている古い眼鏡は、レンズにヒビが入って弦がぐにゃぐにゃに湾曲している。

「どういう扱いって、それ壊したの陽世だぞ」

「私が?」

「覚えてないかあ。仕方ないな、まだ陽世が四歳の頃のことだし」

「私が四歳って……じゃあこれ十一年も前に壊れた眼鏡なの?捨ててないのが尚更不思議だよ」

 首を捻る娘に、僕はそうだねと苦笑した。

「僕はその眼鏡は捨てられないほど大事だけど、君のお母さんはその眼鏡が嫌いでね」

 そう前置きし、僕は十一年前のあの日を振り返った。



「陽子、僕の眼鏡知らない?」

 よく晴れた土曜日の朝、洗面台に置いたはずの眼鏡がなくて僕は妻に声をかけた。

「え?知っらなあい」

 妻があからさまにわざとらしい返事をする。眼鏡がないせいで顔はよく見えないが、その口ぶりだけで大体察しがついた。

「……そういえば陽子、僕の眼鏡が嫌いだったね」

 初めてデートに誘ったとき「そのダサい眼鏡を何とかしてから言え」と冷たく言われたのをはじめ、それでも眼鏡を変えなかった僕に彼女は度々文句を言ってきていた。

 デザインが時代遅れだから気に入らないというが、殊更貧乏性の僕はたとえレンズの度を変えたとしてもいちいちフレームまでは変えない。そうして時を重ねて更に時代遅れを増していくから、陽子もどんどんあの眼鏡が嫌いになっていた。

「もしかして陽子、僕の眼鏡、隠した?」

 眼鏡がないからよく見えなくて目を細めた。睨まれたと思ったのか、陽子は黙って顔を背けた。

「返事をしないということは隠したんだな?」

「……隠しておけば、かけないかな、と」

「なんでそんな子供じみたことするんだよ」

 あまりにも単純すぎる上に目先のことしか考えていない発想だ。怒るどころか呆れる。

「どこに隠した?」

「隠したんだから言うわけないでしょ」

 いたずらっ子な妻にため息を洩らし、仕方なく僕は家中を捜索しはじめた。

 洗面台はまずない。取り付けられた戸棚にもない。いたずら好きな妻のことだ、普通なら思いもしないようなところに隠したのかもしれない。冷蔵庫の中や電子レンジ、掃除機の塵溜めまで確認したが見つからない。そもそも眼鏡がないから、視界がぼんやりして捜し物もままならないのだ。困った。これでは文字どおり見つかるものも見つからない。

 ここで僕は、助っ人を召喚した。

「陽世、お手伝いできるかな?」

 四歳になったばかりの娘、陽世だ。

「お父さんの眼鏡を一緒に捜してくれ」

「おとうしゃんのめがね」

「そうだよ。見つけてくれた人には報酬があるよ。お父さんが肩車でダッシュしてあげる」

 娘の好きな遊びを餌にして協力を促してみる。

 考えてみたら妻は背が低いから僕の目線より低いところに物を隠すだろうし、発想が子供並に突飛なので幼い子供である陽世の方が彼女の感覚に近いのかもしれない。

 そんな期待をしたのが分かったのか、彼女も同じことを思ったのか。陽世が返事をする前に、妻がそっと陽世に耳打ちした。

「お父さんの眼鏡を見つけてバキバキに壊した人が優勝。おやつが二倍になります」

 その耳打ちは僕にも丸聞こえだ。僕が青ざめるのも気にせず、幼い陽世は無邪気にはしゃいだ。

「やったー!さがすさがす!」

 やばい!陽世に先を越されたら眼鏡がお釈迦になる!

 何が何でも娘より先に眼鏡を見つけなければならない。僕はまた、家中の捜索を再開した。

 キッチンの戸棚に箪笥の引き出し、ゴミ箱、トイレ、靴箱。どこを見ても眼鏡は出てこない。目がよく見えないせいで見逃してしまう可能性があるため、一箇所ごと丁寧にくまなく見て手探りもする。そうやって場所ごとにいちいち時間をかけている隙に、視力の衰えていない娘は飛び回るように新しいところを開けていく。

 変な汗が流れる。このままでは娘が先に見つけてしまう。それどころか、考えてみたら妻が陽世に眼鏡の隠し場所を教えてしまったら一発でアウトだ。幸い妻は今のところは僕らの勝負を楽しんでいるらしく、ヒント一つ与えずに眺めている。だがいつ気が変わるか分からない。

 慌てるから余計に捜索が覚束ない。逆に娘は楽しくなってヒートアップしていく。

 枕カバーのファスナーを開いて中を確認していたそのときだった。

「あったあー!」

 娘の歓声が響き渡り、僕は絶望に堕ちた。

 一瞬目の前が真っ暗になって全身の血が凍ったみたいに動けなくなった。が、固まっている場合ではない。

「陽世!待ってくれ!」

 枕を放り投げ、陽世の声がした方へ走る。陽世がいたのはリビング……妻が購読している雑誌が詰まった本棚の前だった。

 床に散らばった女性向け雑誌を見れば、この本らの奥に眼鏡が隠されていたのだと想像できた。

「陽世、だめ!待って!」

 四歳の娘に向かって本気の懇願だった。だがそんなのは幼い娘には通用しない。

「肩車でダッシュするから!」

 しかしそれよりも陽世はおやつ二倍を選んだ。

 娘の小さな両手は僕の眼鏡の左右の弦を掴み、ぱきっと外側にへし折ったのだ。

 悲鳴をあげそうになったが、声が出なかった。

 茫然自失の僕を見ても、娘の暴走は止まらない。弦を曲げただけではおやつは増えないとでも思ったのか、彼女は眼鏡を持ってトコトコ歩き、あろうことかその眼鏡を窓から放り捨てた。

 僕が玄関を飛び出し外に捨てられた眼鏡を回収に向かったときには、眼鏡は既に乗用車にはねられてバキバキのぐにゃぐにゃに変形していた。

 帰らぬ人となった眼鏡を拾ってリビングに戻ると、妻は散らかった雑誌に囲まれて立っていた。

「眼鏡壊れた?」

「お陰様で」

「陽世の勝ちー!優勝おめでとう!おやつ二倍だね」

 妻は僕に やりすぎたと謝るでもなく、陽世を褒めて頭を撫でる。僕はふて腐ってリビングの床に座り込んだ。膝を抱えて、顔を伏せる。眼鏡、作り直さないとな……。

 そんな僕の頭に、ぽんと何かが当たった。顔を上げると、女性向け雑誌で僕の頭を軽く叩くニヤニヤ顔の妻がいた。

「提案があります」

 そう言って彼女はそっと僕に寄り添うように座って、持っていた雑誌を広げた。よく見たら、ページに付箋を貼ってマーキングしてある。

「あなたもうすぐ誕生日でしょ。バースデープレゼントとして、私が新しい眼鏡を買ってあげる」

 ……なるほど。

 眼鏡を隠して今日一日だけかけさせないのが目的というわけではなかったのだ。

「実は結構前から計画してて、どんな眼鏡が似合いそうかなって調べてたの」

「そんなにあの眼鏡が嫌だったのか。買い替えてほしいのは知ってたけど、何も壊すことないのに。陽世が古い眼鏡を壊すことまで想定してたのか?」

「そこまでは思ってなかったよ。ただ、眼鏡が見つからなければ諦めて新しいの買うかなって思って隠した。まあ、結果的に予定どおりだから過程はどっちでもいいや」

 妻が娘の方をちらと見る。事情が分からない娘は、首を傾げて僕たちを眺めていた。

「それにしたって、こんな荒っぽい手段を選ぶなんて」

 僕は壊れた眼鏡を摘んでその哀れな姿を憂いだ。

「そこまでしないと自分のためにお金使わないくせに」

 にやけ顔から一転、妻は唇を尖らせた。

「自然にだめになるのを待とうと思ってたけど、あなたは酷い貧乏性だから物持ちがよすぎて全然壊れない。かといって私がわざと壊したらあなたに嫌われちゃうかもしれない。だけど、四歳の娘がいたずらして壊しちゃったんだとしたら、いい加減諦めがつくでしょ」

 まあ、たしかに。

「終わったことをグダグダ言わない。それより新しい眼鏡を選ぼうよ。これなんかどうかな?」

 妻がぎゅっと肩に寄り添って、雑誌を僕に見せてくる。

 付箋に星印を付けてあるそのページには、今をときめく男性モデルがお洒落な眼鏡をかける姿が載っていた。

「個人的にはこっちのフレームも好きなんだけど、あなたの顔に合うのはこれだと思うの。でもこの縁が細いのも素敵だなあ。これなんか知的な印象あるし、これは個性的でかわいいし……」

 妻はデレデレにやけながら付箋のあるページを行ったり来たりする。僕はまたため息をついた。

「イケメンモデルがかけてるからお洒落に見えるだけだよ」

「いやモデルはあんまり興味なくて。私はどの眼鏡も、あなたがかけてるとこしか想像してないよ」

 サラッと言われたその言葉は、聞き流してしまいそうなくらいあっさりした口調だった。

「私はあなたに常に素敵なあなたでいてほしいから、いつもかけてる眼鏡くらいかっこつけてほしいの。ダサい眼鏡をかけ続けるのがいちばんあなたらしいっていうのは分かってるんだけど、なんていうか、『俺はかっこいいんだぞ』って……もっとプライドを持ってくれてもいいと思うのよね」

 ちょっと照れ笑いをして、妻は娘を抱き寄せた。

「だってあなたは、私の夫であり、この子のお父さんなんだから。かっこよくなくちゃね?」

 眼鏡がなくてもこの距離ならしっかり見える、妻のはにかみ笑いがかわいくて。思わず、目線を外した。逸らした先にあった雑誌のモデルは、シャープな面持ちで洒落た眼鏡を魅せている。見ているとやはり惹かれるデザインだ。妻が推しているだけはある。僕がここまでお洒落に使いこなせるかどうかは別として。



「このバキバキぐにゃぐにゃに壊れた眼鏡を見るとね。僕にはこんなにかわいい自慢の奥さんがいるんだぞって再認識するんだよ」

 十一年経った今でも、あの日のことは鮮明に思い出せる。

「そして、あのお転婆娘がこんなにおねえさんになったんだなあって嬉しくなる」

 ぶっ壊れた眼鏡は、今でも僕の心に色鮮やかな記憶を呼び戻してくれる。

「陽世も知ってるとおり、お父さんは貧乏性だからそういう気持ち一つ一つだって捨てたくないんだ。その眼鏡を捨てたってこの気持ちが消えちゃうわけじゃないんだけど、それでもその眼鏡はあの日の僕にそのまま繋げてくれるような、そんな眼鏡だから捨てたりしない」

 普通の眼鏡としてはまるで使い物にならないけれど、その眼鏡は普段は目に見えないものを見せてくれる。

「僕はこの自慢の妻と娘のために、どんなお願いでもきいてあげようって。何があってもかっこいいパパでいようって。そう思えるんだ」

 そう言って笑ったら、壊れた眼鏡を手に乗せていた陽世も諦めたように苦笑した。

「そのエピソード、お母さんの一人勝ちって感じだね」

「実際そうだからね」


 それは君が僕にくれた、お洒落な新しい眼鏡と、おバカないたずらと、溢れんばかりの愛情だ。

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