オルフェウスの花
音村真
第一話「出会いと別れ」
俺は長年愛用してきたアコースティックギターをケースに閉まって、押入れの奥底へと封印した。ずっと憧れてきたミュージシャンの道を諦めた瞬間だった。
俺は死んだような目で、窓から空を眺めて呟く。
「あいつがいない世界なんて……もう生きてる意味もないしな」
辞めていた煙草に火をつけ、思いっきり肺に煙を吸い込む。
十年ぶりの煙草。
俺の口もとから、白い煙が一直線に外へと吐きだされた。
その煙は、わずかな風によって、空気に紛れるように消えて無くなっていく。
「……思ってたよりも、大丈夫なんだな」
さすがに十年ぶりとあって、むせてしまうかと思っていたのだが、案外十年前と変わらない吸い心地で少し複雑な気分になった。
煙草をふかしながら、少し昔を思い返す。
俺が煙草を辞めたのは、あいつがいたから────
俺の最初で最後の女。
当時、まだ若かった俺は周りへの迷惑など考えずに、わがもの顔で路上にツバを吐いたり、煙草の吸殻を地面に投げ捨てたりして、いい気になっていた。それがカッコいいと思い込んでいたのだ。
そんな時、唯一この俺に噛みついてきた女。
当時から俺は音楽で生きていくのが夢だった。
ギターを片手に駅前に向かうと、毎日決まった場所に陣取り、路上で想いのすべてを歌に込めて吐きだしていた。
社会に対する不満。人間関係のしがらみ。
怒りや悲しみ。楽しいことも、つらいことも。
感じたままの感情すべてを、世界に訴えたかったから。
俺はここにいるのだと──
そう誰かに知って欲しかっただけなのかもしれない。
当時はそんなにギターも上手くなくて、何となく覚えたコードをかき鳴らしながら、ただひたすらに歌っていた。
世界じゅうの人間すべてのもとに届け──と、そう心で叫びながら。
あの日も、いつも通りの時間に路上で弾き語りをして、いつも通りの時間に帰るつもりだった。
だが演奏を終えたあと、後片づけをしながらふかしていた煙草を、地面へと投げすてたその時──
「ちょっと! 拾いなさいよ!」
突然、知らない女が説教をしてきたのだ。
黒縁の大きめな眼鏡にボサボサの髪。あまり垢抜けているとは言い難い容姿。
それが日葵との最初の出会いだった。
「……なんだ、てめぇは?」
「あんたこそ何様よ⁉
思えばこの日から、すでに俺は日葵に心を奪われていたのかもしれない。
そしてこの日を境に、日葵は毎日のように路上に出没するようになり、そのたびに俺と彼女は『口論という名の会話』をするようになっていったのだ。
日葵が嫌うから、俺は地面にツバを吐く行為も、吸い殻を捨てる行為も辞めた。
知らずしらずのうちに、俺は『日葵に嫌われたくない』という感情に支配されていったのだ。
そして、いつしか俺は煙草を辞めた。
それからも日葵が嫌いだと言ったことは少しずつ辞めて、代わりに日葵が好きだと言ったことを少しずつ覚えていった。
いつの間にか俺たちは、友達以上の男女関係になっていた。
日葵と出会ってからの俺は、それまでの荒れたような歌ではなく、世界の平和や希望、人々の幸せを歌うようになっていった。
それは日葵との未来。世界がそうあって欲しいと願ったから。
だから歌ったのだ。
精いっぱいの想いを込めて──。
声が枯れるまで、俺は歌いつづけた。
それから十年。
俺と日葵は長い時間をかけて愛を育み、先日ようやく結婚のプロポーズをしたばかりだったというのに────。
日葵は「これまで生きてきて、今が一番しあわせ」と言ってくれた。
その日。
日葵は満面の笑みを俺に向けて、確かにそう言ったのだ。
そして、その翌日────
彼女は交通事故に遭い、帰らぬ人となった。
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