第一章 隠した箱Ⅲ
「さよならー」
帰りの挨拶を済ませ、みんながたがたと帰りの支度を始める。
「涼香、今日一緒に帰れる?」
梨奈が私にそう声をかける。
「うん。今日浩太部活あるって言ってたから」
「やったね」
「涼香」
リュックにお弁当箱を詰めていた手を止め、声のした方をみる。浩太だ。
「生物、返しに来た」
先生がいないことを確認すると、浩太は教室に入ってきた。
「ありがと」
「助かったよー!また頼むわ」
「もう忘れないでよね」
生物の教科書と資料集を受け取り、時間割表を見て明日は生物の授業があることを確認して、机の中に突っ込んでおく。
「じゃ、俺部活だから。梨奈ちゃんと気をつけて帰ってね」
「うん。部活頑張って」
頷くと浩太は教室から出ていった。
「昨日の浩太くん、かっこよかったよ」
「ん?」
いつのまにか私の後ろにいたまあちゃんが言う。
「昨日、体育館男バレと女バスで分けて使ってたんだけど、浩太くん大活躍だった。動きめっちゃ速いし、ジャンプもすごく高かった」
まあちゃんはバスケ部で、浩太はバレー部だ。
「そうなんだ。私浩太がバレーやってるのみたことない」
「絶対見た方がいいよ!いつもと雰囲気違うから」
「別に見なくてもいい」
「またまたー。涼香はツンデレだな!」
「デレ要素ないから!」
梨奈とまあちゃんはくすくす笑う。
「真彩!部活行こー」
廊下には女バスの子が立っていた。じゃあ行くわ。また明日ね。そうまあちゃんと言葉を交わし、教室を出ていくまあちゃんの背中を見送る。なつめはいつのまにか部活に行ってしまったみたいだ。
「帰ろっか」
私たちも教室を出た。
*
家につき、荷物を片付け、リビングのソファに腰掛ける。リラックスした体制で、ふう、と息を吐く。その瞬間、まるで手足が鉛になったような感じがした。
ラインの通知音がなる。少し手を伸ばせば届くところにスマホはあるのに、それすら億劫に感じて、できない。
緊急の連絡だったらどうしよう、そう思うけれど、どうしても動けない。
今日はママが仕事だから、洗濯物畳まなきゃ。ラインも返さなきゃ。カーテンもしめなきゃ。今日の数学の復習もしなきゃ。
動かなければいけないことはたくさんある。でも動けない。まるで自分の体がソファに瞬間接着剤でくっつけられているようだ。
そんなことを考えて、動こうとする。気持ちは動こうとしているのに、体が追いつかない。いうことをきかない。
ピロン
スマホの通知音で、目を開ける。
ソファで寝たことで痺れた体をゆっくり起こし周りを見ると、開けっぱなしのカーテンから見える空は紺色で、室温も夜になって下がったのだろうか、身震いした。
「はぁ」
また今日もやってしまった、とため息を吐いた。ため息を吐くと幸せが逃げるとかなんとか言うけれど、こんなわたしに幸せなんて贅沢だ、と思う。
さっきわたしを起こしたスマホを開くと、ロック画面にメッセージアプリからの通知が届いていた。
『浩太 部活終わったー!!』
浩太はいつも部活が終わるとわたしにメッセージを送ってくる。浩太は帰りの電車で1人だから、寂しいからだ。
浩太からの連絡は、いつもわたしを笑顔にする。いつもと同じ失敗をしてしまって沈んでいたわたしの心を、地上まで引きずり上げてくれる。
『お疲れ様!今日も寝ちゃった。洗濯物とか早めに済ませてお勉強しようと思ってたのに』
そう送ろうとして、手を止めた。消去のボタンをかたかたと押して、直した文を浩太に送る。
『お疲れ様!いつも浩太は頑張っててすごいね』
アプリを閉じ、立ち上がって洗面所に行く。洗面所の天井につけられた引っ張り棒には服がかけられたハンガーがたくさんかかっている。タイマー設定で夕方に役目を終えた除湿機は赤色に点滅している。
除湿機に溜まった水を捨て、ハンガーから服を取って床に落としていく。全部落とし終わったら、廊下にしゃがんで一枚ずつ丁寧に服を畳んでいく。自分の服を畳もうとしたところで、きていた制服を脱いで、畳もうとした服を着る。
制服のブラウスの腕のところに、赤い点がついているのに気がついた。なんだろう。赤ペンのインクがついてしまったのだろうか。いや、この色はインクじゃない。血だ。さっき来たばかりのロングTシャツの左腕の袖を捲って、傷の出来た腕を見る。昨日の夜にはなかった小さな傷に、ほんの少し血が固まっている。それが固まる前に滲んでしまったのだろう。
リュックの底に沈んでいたお弁当箱を取り出して、キッチンで洗う。長時間放置されていたお弁当箱からは独特な匂いがして、わたしはこの匂いが苦手だ。
お母さんが週末に作り置きしておいてくれた豚肉と大根の煮物と冷凍ご飯を電子レンジで温める。その間にお湯を沸かして、鍋にワカメと玉ねぎとねぎとみそ、顆粒だしを入れて味噌汁を作る。
湯気が上るの今夜のごはんを、コップに注いだお茶と共にお盆に乗せ、ダイニングテーブルに置く。いただきます、と言ったら、ひとりぼっちの晩餐会の始まりだ。
家族といるのに息が詰まるようになったのは、いつからだろう。
くすり、ほうたい、ばんそうこう 雪沢正音 @yyymasa
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