「その手紙」その⑧

          8


 景虎がサイトウの元へ働きに行ってから既に半年ほどが経過し、季節は夏になっていた。その夏は特に暑く、連日猛暑が続いていたのだった。

 

 母は明里の学費と生活費を稼ぐため、毎日この猛暑の中で働きに出かけていた。この時から既に運命は決定付けられていたのかもしれない。

 しかし景虎も明里も、その頃に母と関わっていた誰もが母の異変に気がつかなかった。痩せていて、顔色は悪く、どこか覇気がない。昔と比べれば明らかに違うというのに、誰もそれを指摘し、注意する事すら出来なかった。

 それは母が心配させまいと気丈に振る舞っていた事と、旦那に似て我慢強く戦い抜いた為だ。

 

 そんな事を夢にも思っていなかった景虎は、ついに母から金を借りるようになっていた。

 会社を辞めた事で住民税、県民税、国民健康保険などその他税金支払い義務は全て景虎が自分で果たさなければならない。

 

 しかし景虎は、最早かつての志は完全に消え失せ別人の様になっていた。サイトウに貰った日払いの数万円の金はすぐに遊んで使い切り、支払いは全て滞納する始末。家賃も払えなくなっていたので部屋は追い出された。仕方なく景虎はバーやクラブでナンパした少し歳上の「お姉さん」たちの家へ代わる代わる転がり込む事でなんとか生活をしていた。

 

「頼む母さん、金を借してくれ。今月のが払えれば後は何とかなるから」

 

 そんな事をチャットアプリで連絡したり直接会いに戻ったりしながら続けていき、ついに母への借金は二十万円ほどになってしまっていた。

 だが、母はそんな息子を少しも責めなかった。

 

「頑張るのは良いけれど、ちゃんとお金は返してよ」

 

そう言いながら、母は必ず景虎に金を渡した。

 

「挑戦したいんだ」


 そう言って一人、東京へ出て行った息子を信じていたからか、間違いだと気づいていても景虎を助けてやりたかったのか。それは今となっては分からない。だが、とにかく母は景虎に金を貸していた。

 自分だって余裕はない。生活していく金と明里が大学まで進学できるように貯めている資金。それをやりくりしながら、それでも母は景虎に金を渡し続けたのだ。

 景虎はそんな事をやはり夢にも思っていなかった。

 

           

          


          ◯

 夏になると地元にいる知り合いや家族からよく連絡が来る様になった。

 

 明里と母は、どこに二人で遊びに行ったとか、どこに外食に行ったとか、夕飯は何を作っただとかそんな事を写真付きでチャットアプリにメッセージを送ってきた。

 

 竜二からも電話が一回あった。そういえば、この親友とも六本木に来てからの半年間は音信不通だった。

 その電話では仕事はどうだとか、地元はどうなっているかとか、東京はどうかなどと他愛の無い話をした。さらに聞くと、竜二はたまに景虎の実家に行って手伝いをしているらしい。そんな話も知らなかった。

 

「へえ、多分おばさんはトラちゃんに心配かけないようにしたんじゃない?」

 

「それは良いんだけど、手伝いって。母さん体調悪いのか? 何も聞いてないぞ」


「俺だって聞いてないよ。でもおばさんと明里ちゃんの女二人で住んでるわけっしょ? 俺はどうせ銭湯が休みの日は暇だし、買い物とか手伝ってんのよ。

 ……体調の方はどうかなあ、俺はいつも通りに見えたけどなあ」

 

「悪い竜二、今度しっかり手伝い分を支払うよ」

 

景虎がほぼ無意識にそう言うと、竜二は一瞬黙った。そして笑ったかと思うと、景虎に優しく言うのだった。

 

「金なんていらないよお。俺はただガキの頃おばさんに世話になってたから恩返ししたいだけよ。俺たちの間に金がどうとかはナシにしようや。親友ダチだろ?」

 

竜二の友情に景虎は絆された。竜二だけは、景虎がどこに行こうと友達で在り続けている。心から景虎は感謝し、「ありがとう」と久しぶりに感謝の言葉まで口にした。

 それを聞き、竜二は照れた様に「おう」と返すとまた黙り、今度は意を決したように少しだけ真剣な雰囲気で言った。

 

「トラちゃんさ、何を悪さしてるか知らねえけど。俺は馬鹿だからよく分かんねえけどさ、だけど、事だけは絶対にすんなよな」

 

 竜二のその言葉に景虎は何か胸を締め付けられた。


「ダサい事をするな」

 

 今の景虎には痛いほど突き刺さる言葉だった。自分が少しずつ駄目な奴になっていく。かつて父に誓った姿とはどんどん遠ざかっている。そんな事にはとっくに気づいていた。竜二には見抜かれているのか。景虎は途端に不安を覚えた。

 

「俺の言いたい事はそれだけ。じゃあな、トラちゃん。また遊ぼうぜ」

 

竜二は言うだけ言って電話を切ってしまった。

 

 

 その電話を境に、景虎は今の生活とサイトウに疑問を持つ様になった。厳密には最初からおかしいと思っていたが見ないフリをしていたのだ。なぜなら実際に報酬で金を受け取ってしまっている。誰かを騙し、借金をさせてサイトウが儲けた金。その一部を自分が貰い遊ぶために使ってしまっている。

 やっと景虎はその事実に少しずつ向き合うようになった。

 

「ダサい事をするな」

 

親友のその言葉は景虎の頭から離れず大きくなり続け、いつしか心の奥に仕舞われていた父の意志を呼び起こしていた。

 

 そう思って行動すると物事の見え方も大きく変化し始めた。景虎は新たにニュージャパンオンラインサロンに入ったメンバーや、古参なのに未だにサイトウから金の稼ぎ方を教わっておらず飼い殺しにされている会員たちと交流してみた。

 彼らは口々に言う。

 

「ここで理想や夢を叶えるんだ!」

 

それは一種の洗脳なのか、それとも借金をした事で後に引けなくなっているのか。またはその両方か。彼らは目先の「楽して金を稼げる」という話に騙されて集まった“被害者”に過ぎなかった。

 きっと彼らはこれからも搾取され続ける。思い描く大金持ちにはきっとなれない。サイトウは気に入った人間だけを側に置き、それ以外は放ったらかしか排除にかかる。そして一人去る度にメンバーを集めて言うのだ。

 

「辞めたアイツは夢を諦めた」

 

あたかも辞めた奴のせい。そしてそれが悪かの様に吹聴する。サイトウの常套手段だった。

 

 ここにいたら人間が腐ってしまう。いや、もう自分は腐っていただろう。目先の金に目が眩んで忘れていた。本当に大事だったのは『金』じゃない。それは手段でしかないはずだろう。

 帰ろう、景虎は思った。どうしてこんな所に半年間もいたんだ。俺は母と妹の側にいないといけなかったんじゃないのか。それにやっと気がついた。景虎は目が覚めたのだった。そして死んだ父が勉強しろ本を読めと、そう言った意味が少し分かった気がした。

 

 しっかり学び、本を読み、戦わず、守る。

 

父はきっと見抜いていたんだ。知らない事は危険だ。学が無い事を日頃から悔やんでいた父は、きっと若い頃に何度も騙された経験があったのかも知れない。まさか自分も身をもってそれを学ぶとは思わなかった。

 

 景虎はようやくかつての『心』を取り戻した。母に借りた金を返そう。そしてしっかりと転職し、家族と共にまた暮らすのだ。旅行に行く約束だってしている。竜二だって待っている。もう迷いは晴れ、景虎の長いようで短かった半年間は夏の始まりと共に終わった。

 

          


        


          ◯

 景虎はオフィスに行き、ソファで寝そべっているサイトウに「俺、ここを辞めたいんですけど」と単刀直入にはっきり伝えた。正直これを言うのには少し構えていた。もしサイトウが自分が辞めるのを無理やり止め、刺客を差し向けて来たら本気で抵抗するつもりだった。

 しかし現実にはそんな事は起こらず、サイトウは「あ、そう。寂しくなるね」と興味も無さそうに答えた。

 

 これには理由がある。前のサイトウなら景虎をこんなに簡単に手放さなかっただろう。

 一つめは、景虎で味を占めたサイトウは景虎と同じ腕っ節の強い付き人を何人も抱えていた事だ。実は朝の迎えも夜の送りも最近は景虎を使わない事も増えていた。サイトウはガラの悪い人種を連れ歩いていい気になっていたのだ。もう景虎にはあまり興味が無かった。

 

 二つめは、サイトウとサイトウの会社、さらには会社の運営するこのニュージャパンオンラインサロンにまで警察の捜査の手が迫っていた事だった。

 前にいた会員の中に百万円のコースで入会したものの、サイトウに気に入られず冷遇された後、追い出された人物がいたらしい。その人が警察に匿名で垂れ込んだのだ。

 

 いわゆる、マルチ商法というものはらしい。ここニュージャパンオンラインサロンは、サイトウが「コンサルティング」を商品にしている。だが、そのコンサルティングが果たされなければそれは料金を払ったのにサービスが行われなかった「詐欺」という事になる。

 

 サイトウは追い詰められていた。いつかは刃向かってくる奴がいるとは思っていたがまさかこれほど早いとは。もはや、サイトウに景虎を気にしている暇は無かった。海外逃亡を本気で考えているほどだ。

 

「じゃあ、景虎くん。今までありがとね。ここ出て夢、叶えられそう?」

 

 サイトウは相変わらずだ。だが、景虎はこのサイトウの言い草に腹も立たなかった。景虎の方も興味がなくなっていたからだ。

 

「ええ、俺は自分の力で夢を叶えますよ」

 

 

 

 晴れて景虎はサイトウの元を離れた。オフィスを出ると、とても爽やかで肩の荷が降りたような錯覚を感じた。やっぱり本当は間違っていたと気づいていたんだろう。他の会員と同じ、引けなくなっていただけだ。

 

 明日、家に帰ろう。景虎はそう決めた。

 しかしせっかく来たのだから今夜は六本木最後の夜として飲み明かしてみるのも良いだろうと思うのだった。

 

 まだ何もしていない。やっと正しい道に戻っただけだ。しかし景虎は何かとても大きい仕事を達成したかの様な爽やかな気持ちになっていた。景虎はすぐに母へ電話をかけた。母はメールが苦手なので出来る限り電話をかけるようにしていた。

 

 ぷらぷらと東京ミッドタウンの辺りを歩きながら景虎は耳にあてたスマートフォンからのコールを聞いている。時刻は十七時三十分頃。母の手芸教室は十七時までなので電話にはそろそろ出れるはずだ。

 一分ほど待ったところだった。母は電話に出てくれた。

 

『もしもし、景虎? どうしたのよ急に』

 

「母さん、俺そっち帰るよ」

 

景虎がそう言うと母は少し黙った。そして、ゆっくりと言葉を返してくれた。

 

『うん、それが良いよ。私もね早く帰って来た方が良いんじゃないかなあって思っていたのよ。良かった、景虎。あなた帰ってくるのね』

 

 母は確かめるように「帰ってくるのね」と繰り返し言っていた。その度に景虎は「そうだってば」と穏やかな調子で答えた。

 

『はあ、本当に心配していたのよ。あなたはお父さんに似て喧嘩っ早いし口は悪いし。東京で人様に迷惑かけてないかしらってね』

 

「でも親父の事は好きだろ?」

 

『まあね、まだ景虎じゃあの人に勝てないかなあ』

 

「俺はこっちじゃモテモテだったんだぜ」

 

『あら、どうせオバ様たちにモテたんでしょ? ホストでもしてたのかしら』

 

「してねえよ、誰だよそれ言ってた奴。どうせ明里か竜二だろ。明日会ったらとっちめてやる」

 

『もう、そういうところよ』

 

「どういうとこだよ、大体な──……」


 景虎と母は、父が死んでからは明里も含めてずっと一緒に支え合って生きてきた。景虎がグレて家に帰らない時でも「つながり」は常に感じていた。

 この半年間、それは薄まっていたらしい。確かめる様に二人は電話で語らった。また元に戻れるのだと、景虎は嬉しかった。母もきっと嬉しかったに違いない。その声は弾んでいて、とても楽しそうだった。

 

『じゃあ、私そろそろ夕飯作らないといけないから電話切るわね』

 

「あ、そうか。もうそんな時間か」

 

ふと耳から離してケータイの画面を確認すると十八時過ぎになっていた。三十分以上は話していたらしい。景虎も夢中で話しながら歩き、気がつくと六本木から赤坂まで来ていた。

 

「母さん、ありがとな。じゃあまた明日。午前中には帰る予定だからさ。明日は雨らしいし。あ、もちろん金は返すよ」

 

『分かったわ、待ってる。雨だから気をつけて。ああ、借金ねえ二十万円くらいあったわよね?』

 

「大丈夫だって、退職金もらったんだよ」

 

実は、景虎がオフィスを出るときサイトウが「退職金」と言って封筒に二十万円を入れて手渡ししてきたのだ。運命的だ、これは母に金を返せという天の啓示に違いない。再出発せよという事なのかもしれなかった。

 

『あらそう、なら楽しみに待ってるわね。そのお金を旅費にしようかしら』

 

「ああ、そうしてくれ」

 

そして景虎が「それじゃあ」と電話を切ろうとすると、母が待って、と呼び止め何か話を始めた。

 

『景虎、あなたはいろいろ遠回りしたけれど。私は良いと思うよ。これから取り返せば良いじゃない。お父さんもそう言うはずよ』

 

「うん」

 

「怒ってないから、安心して帰っておいで。じゃあまた明日ね景虎。待ってるわ」

 

「ありがとう、母さん。また明日」

 

 景虎は電話を切った。

 

────。


 



 景虎が後から聞いた話だと、母はその夜、珍しく鼻歌をしながら夕飯の支度をしていたらしい。明里が部活から帰ってくると、いつもと違うなと思ったそうだった。

 

「どうしたのお母さん。今日は機嫌が良いね」

 

「嫌ね、いつも良いわよ」

 

「ふうん、まあ何でも良いけど」


明里はそれ以上は気にもしないで、洗濯物を出そうと鞄を下ろした。その時、母はやはり聞いてほしかったのか小さい声で言った。

 

「景虎が明日帰ってくるんだって」

 

「え、お兄帰ってくんの?」

 

それで機嫌が良かったのか。明里は納得した。この半年、景虎がいない事でどこか元気が無い気がしていたからだ。なるほど、それなら仕方ない。明里も嬉しかった。しかし嬉しいと思われたら照れ臭いので、明里は出来る限り興味がなさそうに答えた。

 

「ふうん、じゃあ明日は外食しようよ」

 

「そうね、外食が良いかも。久しぶりに焼肉とか行っちゃおうか」

 

 その夜の母は、久しぶりに楽しそうにしていた。明里はその夜の事を今でも覚えている。忘れたくても、忘れる事が出来ないからだ。


 景虎も嬉しかった。その日は夜中まで1人、居酒屋で酒を飲み、ネットカフェで眠りについた。

 

 そして、夢を見た。幼い自分が母と手を繋いで凰船の商店街を一緒に歩く夢だ。そうだ、昔はこうやって手を繋いで買い物に出かけていた。どうして忘れていたんだろう。

 でも、良いさ。景虎は思っていた。明日からまた全て元通りなのだから。

 





────その⑨につづく

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