「その手紙」その⑨

          9


 スマートフォンのバイブレーションで目が覚めた。ここは完全個室をウリにしているネットカフェだったので他の客には聴こえてないはずだ。

 眠い目を擦りつつ、景虎が時計を見ると時刻は朝の六時三十分を指していた。

 

「明里か──」

 

電話は妹の明里からだった。しかも通知が十件以上入っている。こんな朝から鬼コールだなんて妹は困った奴だな。景虎はそう思って電話に出た。

 

「もしもし」

 

「あ、ああ……。お兄? もしもし」


明里はとても慌てていた。声の調子で分かるほどに余裕が無さそうだった。その妹の尋常ならぬ雰囲気に景虎の意識は覚醒した。不思議と眠気は一瞬で消え去った。

 

「どうしたんだ」

 

「落ち着いて聞いて、お兄。あの、お母さんが……。倒れたの」

 

 それを聞いた瞬間、ぞわっと景虎は悪寒を感じた。とにかく身体が震えて嫌な予感がした。しかし兄の自分が落ち着かなければ。自分に出来る事はまず凰船に帰る事だ。

 

「分かった、明里は今どこだ? 今から俺もそっちに行くよ。ちょっと待ってろ」

 

明里は意識の無い母と一緒に救急車で国立病院に来たらしい。もうすぐ祖父母も明里と母のいる病院へ到着するとの事だった。

 景虎は激しく動揺する妹を宥めて「大丈夫だから待ってろ」と伝えて電話を切った。そしてネットカフェを飛び出すと走って駅へ向かった。

 

 六本木から凰船まで、物理的な距離はどんなに急いでも縮まらない。電車を乗り継いで一時間はかかってしまう。

 早朝でまだあまり人のいない電車に座り揺られている間、チャットアプリには明里からのメッセージが常に送られ続けていた。

 

『お兄、まだつかないの?』

『いつつくの?』

『まだ? 早く来て』

『早く来て、お兄』

『お願い早く』

 

 ────。

 



 国立病院は凰船から車でも二十分の位置にある。タクシーで景虎は向かい、やっと到着した時には八時半頃になっていた。

 夏の早朝はまだそこまで暑くなかった。それに今日は雨が降るらしい。

 

 国立病院に到着し、すぐ明里に連絡を入れた。すると明里もすぐに迎えに来てくれた。

 

 走って向かってきた明里は、景虎に飛びついて顔を景虎の胸に擦りつけた。

 そして、絞り出すように言葉を吐き出すのだった。

 

「お兄、お母さんが……」

 

「ああ」

 

「……死んじゃった」

 

「……ああ」

  

景虎はそれだけ言うと、震える妹の頭を優しく撫でた。

 

 

 


 どう病院内を進んだのか覚えていない。景虎は吸い込まれる様に明里の導きで母の待つ部屋に歩いた。

 

 その部屋は薄暗く、狭い。その蛍光灯が台の上で眠っている母を照らしているだけの空間だった。安置所に入ると、祖父母が景虎に寄ってきて手を握った。景虎はそれに対して「じいちゃん、ばあちゃん」とだけ呟いた。それが精一杯だったのだ。

 

 そして景虎は久しぶりに母と再会した。母は、眠っていた。穏やかな寝顔だと表現すべきなのか。しかし景虎の胸は張り裂けそうな錯覚に襲われる。気がつくと、景虎の頬には涙が一筋だけ伝っていた。

 

「待ってるって、言ってたじゃねえかよ」

 

景虎は呟いた。そしてすぐに鼻から大きく息を吸い込む。そうしないと、自分の中で何か抑えているものが決壊してしまうと思われたからだ。

 明里は景虎の胸でずっと泣いていた。背後からは祖母と祖父が啜り泣く声が聞こえる。景虎は、ただ呆然と立ち尽くすしかなかった。

 ────。

 



 どれほどそうしていただろう。その時、ふと景虎は明里を用意されていたソファに座らせてハンカチを渡したかと思うと、安置所を出た。誰もそれを止めはしなかった。

 そして景虎は、近くの裏口らしき通路から病院の外へ出てみた。すると空は既に曇天で、弱い雨が降り始めていた。

 

 雨に打たれながら、景虎は竜二に電話をかけていた。なぜそうしたのか分からない。だが、そうしたいと思った。竜二は何回かのコールの後に電話に出てくれた。

 

『おお、トラちゃん。どうしたの朝から』

 

「母さんが死んだよ」

 

景虎は竜二が電話に出るや、何の脈絡も無くそう言った。

 すると竜二は、何か聞き返す訳でもなく数秒の間だけ黙った。そして、静かに言葉を返すのだった。

 

『──トラちゃんは、平気か?』

 

「え? ああ、大丈夫。大丈夫だ、本当に。ただお前に言っておかないとって思っただけで」

 

『ありがとトラちゃん。あのさ、何か俺に出来る事があったら言ってよ。俺、今日は一日予定を空けておくからさ』

 

「悪いな竜二、助かるよ。多分これからバタバタするだろうから、その時は頼むよ」

 

『良いって、親友ダチだろ』

 

景虎はやけに頭が冴えていた。「ああ」と返事をすると電話を切った。

 そして、そのままふらふらと強くなり始めた雨の中、病院を出た。

 

          


          


          ◯

 景虎は国立病院の裏手にある古い団地を歩いていた。特に用はない。何も考えずに歩いていたら辿り着いただけだ。

 

 母は眠っていた。昨日、電話したのに関わらず。どうしてだ? 約束しただろう、待っていると。あまりに突然すぎる、そして簡単過ぎる。

 誰もが一度は想像するであろう「親の死」。それはもっと時間をかけてゆっくりと訪れるものだと景虎は勝手に思い込んでいた。例えば病気になり、入院し、闘病生活。もう駄目かも知れない。だからこそ大切な人に感謝を伝えたり、何かを贈ったり、遺言や遺産の話をする。そういう「ドラマチック」な最後。そんなものだろうと馬鹿な事を考えていたのだ。

 景虎は父の時の事をどこか忘れていたのかもしれない。「死」は突然なものだ。人為的でない限り明日死ぬと誰が分かるものか。全てを一瞬の内に奪い去り残るのは抜け殻だ。そこに例外も時間もない。

 

 呆気なさすぎる。理解が追いつかない。数時間前に生きている母と話したんだぞ俺は。

 そんな事を繰り返し考えて歩いていた。その時だった。


 景虎の横を黒いバンが通り過ぎた。車内の音楽が音漏れしているマナーの悪い車だ。その車は、景虎の横を通り過ぎる時に水溜りを巻き上げて走り去った。

 身体がその巻き上げられた水で濡れる。景虎は目を見開いて叫んだ。

 

「ふざけんな、殺すぞ!」

 

 その景虎の声が聞こえたのか、数メートル進んだところでバンは停止した。そして、ぞろぞろと5人ほどの見るからにガラの悪い男たちがバンから降りてくる。

 

「おい、今殺すぞって言ったのはお前か?」

 

「だったら何だよ、聞こえなかったか。殺すって言ったんだ」

 

 雨は天気予報の通りに、どしゃ降りになっていた。

 

 

 

 


 母の死因は脳出血というものらしい。持病の遺伝性高血圧が主な原因で引き起こされたそうだ。もしくは「過労」も原因として可能性があるかもと医師は言った。

 実は母は健康診断でも血圧の部分がここ何年か注意されていたらしい。明里は何も知らなかった。医師はそれを淡々と説明した。薬もお飲みだったはずですよ、と。

 

「解剖しないと詳細には分かりませんが、死亡推定時刻はおそらく睡眠中の深夜かと思われます」

 

「私の娘は眠ったまま逝ったということですか」

 

祖父が医師に聞くと、医師は「ええ、おそらくですが」と頷くのだった。

 

「お母さんは最後、痛くなかったのかな」

 

明里がぽつりと呟いた。すると医師は首を横に振った。それは分からないだろう。「私はこれで」と言い残し、医師は部屋を出た。

 

「お兄はどこ?」

 

明里は泣き腫らした目を擦って兄の姿を探した。

 ────。

 

 

 



 景虎は痛む身体を動かして何とか仰向けになった。上を向くと大粒の雨が顔にぶつかってくる。雨なのか、涙なのか。景虎にはもう分からなかった。

 

「五人は多かったか」

 

 景虎は久しぶりに喧嘩で負けた。身体は痛むし、口の中は切れているらしい。血の味が不味かった。

 まだ痛むが骨は折れてなさそうだ。ゆっくり体を起こすと、側に捨ててあった自分の財布を拾って中を確認した。やはり律儀に金だけ抜き取られているようだ。退職金としてサイトウに貰い、母に返すはずだった封筒の二十万円もない。それも奪られたのだろう。

 

「これじゃあ、母さんに金返せねえなあ」

 

景虎は雨に打たれながら自嘲する様に笑った。

 スマートフォンを確認するとまた明里から着信とメッセージ通知が山の様に入っていた。とりあえず祖父母の家で待っているらしい。景虎は「そっち行くよ」とだけ返信すると、ゆっくり歩き出した。

 

           

          


          

          ◯

 景虎が祖父母の家に到着すると、玄関には明里が泣きながら待っていた。明里は景虎のそのずぶ濡れで大怪我をした姿に目を見開いた。

 

「何してたの、こんな時に」

 

「別に何も。だから帰って来ただろうが」

 

景虎は明里の言葉を鬱陶しそうに聞き流し、靴紐を解こうと視線を足元にやった。

 ──その時だった。

 

「また喧嘩したの?」

 

 景虎はすぐに前を向いた。今のは母の声だ。

 

 しかし、母はいない。いるのは怯えたような瞳に涙を溜めた妹だけだった。

 

「今、母さんが……」

 

 景虎が虚な目でそう呟くと、明里は裸足のまま玄関に降りて強く景虎を抱きしめた。

 

 景虎はその時、やっと理解した。

 

「ああ、母さんは死んだ。もう、どこにもいないんだな」

 

それを口にしたら最後、景虎の張り詰めた心は完全に決壊した。確かめる様に何度も何度も言葉を繰り返した。

 

「母さんは死んだ、死んじまった。待ってるって言っていたのに、明日ねって言ってたのに……。今までの感謝や、ありがとうも、さよならも言えなかった」

 

「……死んじまったんだ」

 

もう景虎の涙を止める事は出来なかった。明里を抱きしめると、景虎も同じ様に声を上げて泣いた。

 

 

 母は死んだ。それはどうしようもなく現実で、取り返しのつかない事だった。

 

 早くに夫を亡くし、女で一つ子供二人を育てた。一日中仕事をして、帰ってきたら家事をこなした。それを長い年月、弱音も吐かずにひたすら続けた母は幸せだったのか?

 景虎は母の苦労を知っていた。なのに逃げた。逃げてその挙句、母に金を借りていた。母は何も咎めはしなかった。「待ってるわ」とそれだけを言っていた。馬鹿な息子だろう。なのに信じ続けた母は幸せだったのか?

 

 答えは出せなかった。だが、景虎が感じるのは「後悔」という言葉で表しきれないほどの悲しみと自分に対する激しい怒りだった。

 俺は何をやっていたんだ。誓ったはずだっただろう。なのに自分から手放して、最後にはもう取り戻せないところまで離れてしまった。それを許したのは自分だ。

 そして、ありがとうもさよならも、たくさんの言うべき言葉たち。それを伝えるチャンスすらついに貰えなかった。

 

 

 母はこの世を発つ時、孤独だっただろうか。それとも家族と過ごした家のベッドで、眠りながら旅立てたのは幸福だっただろうか。

 

 そして、それを願うのは景虎のわがままなのか。

 

 だが一つはっきりしているのは、母は景虎と会うのを楽しみにしていたということだ。母は明日を楽しみにしつつ、しかし景虎を待たずに突然逝ってしまった。

 

 

 母がこの世を発つ時、景虎は幸福だった。夢を見ていたのだ、母と手を繋いで歩く夢を。


 ──ただ何も知らずに眠っていた。眠っているだけだった。





────その⑩につづく

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