「その手紙」その⑩

          10


 

 景虎へ

 

 辛い事があれば誰かに頼りなさい。

 あなたの周りにはきっと助けてくれる人がいる。

 今を諦めてはダメ。

 景虎は遠回りしたけれど、しっかり進んでいるよ。

 頑張って、景虎。

 

                 母より

            

          


          ◯

 恭介は目を覚ましたばかりの景虎にコーヒーを出した。

 

「ま、飲みなよ。これから大変だぞ」

 

 恭介と景虎が戦ったあの夜から既に丸一日が経過していた。恭介は、眠っている景虎の頭の中からトラウマにまつわる記憶を掘り起こしその全てを見たのだった。それは壮絶な内容で、そして景虎にとって人生における最大の敗北や挫折と言っていいほどの出来事だった。

 

 ソファにぼうっと腰掛ける景虎は出されたコーヒーカップに一瞥もくれずに呟く。

 

「俺を殺してくれ」

 

景虎は悪霊に取り憑かれている。夜になると人を襲う衝動を抑えられないそうだ。その暴力的な破壊衝動はきっと、景虎の激しい自責の念が原因だろう。そうやって外に発散しないと彼の心は壊れてしまう。だから『悪霊との共存』が実現しているのだ。

 

 景虎は悪霊に意識や人格の主導権を奪われていない。それは「誰かを殴りたい」という利害関係が出来ているから。恭介はそう推測していた。

 

 だが憑かれている限り景虎は夜な夜な人を襲って殴り倒し、いつかは人を殺すかもしれない。そして、取り憑かれ続けた事で最後には衰弱死するだろう。

 

「駄目だ景虎。お前に死なれたら俺の依頼は達成されない。お前に憑いている悪霊を祓ってからだ。でもまあ、確かにお前を殺して、行き場を無くした悪霊が出てきたところを始末しても問題はないがな」

 

「先生」

 

恭介が口を滑らせると助手の陽香がむっとした顔で嗜める。すると恭介はびくっと肩を震わせて苦笑しながら訂正した。

 

「少し言いすぎた。だが俺の事をボコボコに殴っておいて死に逃げするのは許さんという事だ。お前から悪霊を引っぺがせば良いだけだ。死ぬ事はない」

 

恭介は言いながら、景虎に殴られ少し腫れている右頬を摩った。まったく厄介な除霊対象だ。

 

「お兄、死ぬなんて許さないから。お母さんに助けてもらっておいて勝手に死なないで」

 

 景虎の側で話を聞いていた妹の明里は我慢ならんとついに口を挟んだ。「ああ」と景虎は気づいてなかったかの様に間抜けな返事をすると、自嘲的な笑みを浮かべた。

 

「だから『殺してくれ』って言ってるんだ。自分では死ねないんだよ。怖くて、出来なかった」

 

────。





 母の葬式は少ない親族と交流のあった竜二とその家族、そして父のいたジムの会長を加えてささやかに行われた。

 

「長男様、長女様。こちらに」

 

火葬場で母の火葬が完了したと案内を受け、景虎は妹の明里と共に母の「遺体だったもの」を確認しに行った。

 

 そこには骨と灰、それしかなく、どこにもあの優しかった母はいなかった。明里はその場でまた景虎に縋るように泣き崩れた。

 景虎の方は、やけに冴えて冷静な頭での理解と胸の抉られる様な感覚を同時に心に感じていた。

 

「ああ、これで終わったんだな」

 

 景虎は母の骨と灰を見てそう感じた。もう触れたくても触れられない。手を握れる事はない。

 

 

 

 母は、父と同じ墓石に収められた。やっと夫婦一緒になれたから良かったと、誰かが言った。良いものか、ならどうしてここにいない? あの世で一緒になったからってどうだというんだ。「あの世」なんてあるのか。景虎は見た、母の骨と灰を。死んだら終わりだ。なのに天国に行ってほしいと願う自分もいる。

 

「俺は多分、には行けないから、せめて死ぬ時は目の前で死ぬよ。ごめんな父さん、約束守れなくて。ごめんな母さん、駄目な息子で」

 

 景虎は一人、父と母の墓石の前で手を合わせ謝った。そしてインターネットで購入した安物のナイフを喉に突き立てる。

 ああ、もうこれで俺は楽になれる。

 

 両親への謝罪は多分、建前。景虎は自分が恥を晒しながら生きていくのが辛かった。これでその苦しみも終わる。ナイフで首元を少し切り付けるだけでも良い。上手くできなくて死ぬ時苦しんだとしてもそれは自分への罰だ。

 ナイフを喉へ、そして俺は死ぬんだ。ああ神様、許されるなら俺を父と母のところへ。祈りながら景虎はナイフを振りかぶった。首を横に少しだけ深く切りつければいいんだ。

 だが、その時「お兄」と妹の声が聞こえた気がして、同時にその顔も浮かんだ。妹は自分も一緒に眠るこの墓石の前で泣いている。俺が死んだら妹はこの世で一人きりになる。景虎は自分の首にナイフが当たる寸前で軌道を変え、ナイフを地面に叩きつけた。

 

 ナイフが墓地の砂利道に鈍い音をたてて転がった。景虎は肩で息をしている。動悸はこれ以上ないほど激しくなっていた。

 

 俺は今、何をしようとした。その次の瞬間、景虎を猛烈な吐き気が襲った。すぐに背後の下水道の通気口に向かって走りそこで嘔吐した。ほぼ何も出てこない。胃液と、無理やり明里に食べさせられたパンだけだ。景虎は母が死んでからまともに食事をしていなかった。

 激しい嗚咽の後、景虎はその場に倒れ込んだ。苦しい、だが死ぬ勇気もない。自分の震える手を必死に抑えた。その時だった──。

 


「殴れ、景虎。お前と同じどうしようもない屑野郎を殴るんだ。奴らはお前自身だ。殴れ景虎。殴れ!」

 

 自分の声が頭の中に響く。


 殴る? 


 どうして?


 どうしてだって? そんなの決まってる。


 そうか、あんな奴らは社会のクズ共だ。俺と同じ様な間違いを犯す前に俺が殴って分からせてやらないと。景虎はそういう気持ちになった。

 

「殴れ、殴れ!」

 

景虎はそれ以来、激しい怒りと謎の使命感によって夜中に街へ出ては「チンピラ」と呼ばれる人種を倒して回った。そのためにしっかり食事を摂り、ジムに通い直し、様々な格闘技を一から覚え直した。しかし、睡眠だけは上手く出来なかった。眠ろうとすると例の声がそれを邪魔する。だから夜中に飛び出して街で暴れるのだった。


───。




 

 恭介は話を聞いて「ううむ」と興味深そうに唸った。

 

「悪霊に取り憑かれた事でむしろ食事を摂り身体を鍛え生命力が溢れたのか。でも眠る事ができず衰弱していると。矛盾していて歪だ。悪霊も君をなかなか殺せなくて焦れているんじゃないかな」

 

恭介は相変わらず冗談っぽく言うと、景虎は「どうでもいいさ」と返した。そして視線は明里に向けられる

 

「このまま俺が生きてても人様に迷惑をかけるだけだ。明里、お前が良ければ俺の未練はもうない。大丈夫だと言ってくれ。そしたら俺は今おっさんが言ったやり方で悪霊を道連れに死ぬから」

 

「駄目だよ、そんなの許さない。そんなのお兄らしくない」

 

「俺らしいって何だよ。俺はただのチンピラだ。挙句の果てに悪霊に取り憑かれて暴れ回ってる。俺は、弱いんだよ。母さんは無意味に死んだ。俺のせいで……。どうして俺が呑気に生きていられるっていうんだ」

 

「無意味だなんて俺は思わないよ」

 

 景虎と明里が言い合う中、突然恭介が口を挟んだ。景虎は恭介を睨みつけた。

 

「おい、おっさん。てめえに何が分かるんだよ。あんまりテキトーな事を言ってるとまたぶっ飛ばすぞ」

 

「それは後で受けて立とう。だけどね、俺は言わせてもらうよ。お前の母の死は無意味じゃない。だって、

 

恭介は言いながら景虎を真っ直ぐに見据えた。その鋭い視線に景虎は思わず目を逸らしそうになる。心の中を覗かれているかのようだった。

 

「お前と明里ちゃんがこれから生きて成す事の全てがお前たちの両親にとって生きた『意味』や『証』になるんじゃあないか。

 ──景虎、いま死んでどうする。お前は今まで何を成して来たんだ。誰かに胸を張れるのか? 俺は偉大なる父と母の元に生まれ、そしてこれだけの事をやったのだと。それが出来ないなら確かに意味は無いだろう。でもな」

 

恭介は言葉を続ける。景虎は黙って聞いていた。

 

「お前が生きる事を恥じたらそれは両親に対する侮辱だぞ。堂々と生きろ、景虎。俺も人の親だから分かるんだよ、自分の子供を他所に出して恥ずかしい訳がないだろう。お前は父と母に何を貰ったんだ。考えてみろ、生きているお前がそれを引き継がねばならないんだ」

 

 飄々と食えない態度を取り続け真意を隠している恭介は、景虎と出会ってから初めてその胸の内を明かした。景虎に同情したのもあるし、何より立派な両親を誇って生きてほしいと思っていた。実は恭介にも娘がいるが、その仲は険悪だった。だからこそ景虎には両親の願いをちゃんと受け取ってほしかったのだ。自分が出来なかった事を景虎には成し遂げてほしい。それを本気で願った。

 

 しかし景虎は答えない。黙って何かを思案している。しばらく沈黙が続いた。

 

──その時だった。突然、八咫超常現象研究所の外が騒がしくなり始めた。バイクの音が重なり合い騒音を響かせている。何事かと、陽香は外を確認した。

 そこには路駐する大量のバイクと特攻服姿の男たち。そして、金髪を立て髪の様にセットした背の高い青年がいた。その青年はメガホンで声を張り上げた。

 

『おうい、八咫超常現象研究所、聞こえてるだろう! 俺は凰船“地獄絵図ヘルズ”四代目総長の久喜竜二。そこにトラちゃんいるよなあ? こっちに寄越せ、おっさん。いるんだろ、おい。おっさん、返事しろ。何の用か知らないけどトラちゃんに何かあってみろてめえ、命はねえからなあ!』

 

キーンと耳障りなハウリングと共に竜二がこのビルの七階、即ち八咫超常現象研究所に向かって叫んでいる。すぐ側に交番があるというのにとんでもない奴だ。警察が出動したらまた面倒な事になってしまう。明里は慌てて窓を開けて顔を出した。そして下にいる竜二に向かって手を振った。

 

「竜二くん、大丈夫だよ。全然問題ないからっ。お兄は誘拐されたわけじゃないよ、ヘルズのみんなは必要ないから!」

 

 

         

          


          ◯

 竜二は「早く言ってよお」と人懐っこい笑顔で誤魔化そうとしている。やれやれ、凰船のタイガーもドラゴンも手がかかる。恭介はさすがに頭痛がしてきた。

 

 竜二はヘルズのメンバーたちを即刻解散させて自分だけ研究所に入ってきた。そして事の顛末を恭介と助手の陽香が説明すると、すんなりと信じて全て受け入れるのだった。すごい男だと恭介は少し感心してしまう。

 竜二はもうこの空間に馴染んだように明るく言った。

 

「なんだ、なら簡単じゃん。トラちゃんの悪霊を退散させればいいんだろ? さっさとやってもらいなよトラちゃん」

 

「いや、俺は悪霊を道連れにするつもりだ。死ぬんだよ」

 

「はあ? おいおい冗談きついって。せっかく最近は外にも出てるしジムにも通ってバイトも始めたじゃん」

 

「もういいんだ、めんどくせえんだよ。母さんに合わせる顔がない」

 

景虎は俯いてぼそぼそ言い始めた。竜二は最初、その景虎の呟きを黙って聞いていた。

 だが、しばらく聞いているとその手は震えを帯びてきた。そして次の瞬間にはソファに座る景虎の胸ぐらを掴んで引っ張り上げると怒鳴り声をあげた。

 

「いいかげんにしろよてめえ、ダサい事するなって言ったよな。トラちゃんが死ぬのをおばさんが望んでるって本気で思ってんのかよ」

 

竜二に先程までのニコニコした雰囲気はなくなった。全員が竜二のその穏やかな雰囲気に騙されていたが、彼は凰船で最強を誇る暴走族の総長だった。その強い威圧感と怒鳴り声で、明里と陽香は思わず肩を震わせた。

 しかし、景虎はそれを嘲笑うかの様に言葉を返す。

 

「母さんがどうとか関係ないんだよ。俺がもう、自分の人生が嫌なんだ。あの世で父さんと母さんに叱られるなら俺はその方が──……」


そこまで言いかけたところで景虎は竜二に思いっきり殴られた。景虎はその反動で研究所の床に尻餅をつく。

 

「なら明里ちゃんの為に生きろよ。誰かの為に生きれば良いじゃないか。うじうじしてんじゃねーよ。トラちゃんがまだ自殺してないのが死にたくないって何よりの証拠だろ?」

 

 座り込む景虎は、ぼうっと呆けたかと思うと次の瞬間には、カッと火がついた様に怒鳴りながら竜二に対して殴り返した。

 

「なにしやがるこの野郎!」

 

竜二は景虎の拳で二、三歩後ずさった。しかし殴られた竜二は怯まない。景虎にさらに殴り返す。それを延々と罵り合いながら繰り返している。

 

「気持ち悪いんだよ腑抜けマザコン野郎! 死んで詫びるくらいなら生きてよ。トラちゃんは逃げてるだけだろうが」

 

「おお、じゃあやってやる、悪霊を追い出したらこの街の人間全員の家を逆立ちで謝りに回ってやるよ!」

 

 二人は子供の喧嘩の様にその場で取っ組み合いを始めてしまった。陽香は恐る恐る恭介に「先生」と呼びかけた。止めろと言うことか。だが恭介は動かない。

 

「やらせておけば良いじゃないか。この事務所の物が壊れなければ俺は良いと思うよ。……青春だなあ」

 

その時、景虎は竜二に殴られて事務所の収納棚に飛び込んだ。書類が散らばり、飾ってあった水晶が床に落ちて欠けてしまう。その光景を見て明里は「ごめんなさい」と恭介に呟いた。

 

「うむ、やっぱり止めようか」

 

恭介は片方の眉だけ少し吊り上げた。






────その⑪につづく

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