つる
増田朋美
つる
その日は、本当に寒い日で、もう羽織が必要だなと思われる日であった。そろそろ、ストーブをつけて、こたつをつけてもいい頃であった。それを通り越すと、寒い冬がやってくるのであるが、それも正常な季節でのことである。
「はいこれ、森田さんおめでとう。」
香西さんから、修了証書を渡された森田祥子さんは、思わず、
「私にもできるんですね。」
と、にこやかに言った。
「本当はね、着付けを習うのに、こんなものは必要ないのよ。だって昔の人は、着物を着るのに、お教室なんていらなかったでしょ。それなのに今は、こんなものを出すんだから。」
と、一緒にいた植松聡美さんが、にこやかに笑っていった。修了証書を出そうと提案したのは植松淳さんで、一生懸命勉強して居るから、なにか形に残るものを作ろうと言ったのだ。香西さんも最初は消極的であったが、ちゃんとレッスンにも通ってくれて、専用のノートにメモを取って、しっかり勉強しようとしてくれている祥子さんに、修了証書を出してあげようという事になった。
「おめでとうございます。これからも、着物を楽しんでください。」
香西さんに言われて、祥子さんは、はい、わかりましたといった。確かに、祥子さんの着物姿は、以前の着物姿よりもきれいになっている。衣紋もしっかり抜けているし、背中にシワもよっていない。
「それでは、これからもよろしくおねがいします。私、香西さんや、皆さんと出会えて、とても嬉しいです。」
祥子さんは、嬉しそうに言った。
「はい。こちらこそ。できれば着物の講師や、先輩ではなく、ただの友達として見てほしいんだがね。本当は、着物を必要があって着るのではなくて、楽しく着てほしいなあ。」
香西さんが照れくさそうにそう言うと、
「いやねえ、香西さん、そんな時代来るかわからないじゃないですか?そのためには、積極的に着物を着ることが必要なんですよ。」
と、植松聡美さんが言った。それと同時に、祥子さんのスマートフォンがなる。
「スマートフォンなってますよ。」
植松淳さんに言われて、祥子さんは、スマートフォンを取った。電話というか、ラインの通話であるが、彼女のお母さんからだった。多分、ろくな用事では無いけど、家の家族にして見れば、重大なことであるということを、祥子さんは知っていた。
「ねえ、今日は、祥子ちゃんの修了証書受賞祝でさ、みんなで焼肉でも食べに行きません?」
と植松聡美さんが、にこやかに言った。香西さんも、それはいいね、賛同した。植松聡美さんが、焼肉屋さんの混雑状況を調べ始めると、
「すみません。今日は帰らせていただけないでしょうか?」
と、祥子さんは言った。
「あら、もう帰っちゃうわけ?」
聡美さんがそう返すと、
「実は、家で重大なことがありまして。なんでも、祖父がまた怒っているようなんです。」
祥子さんは小さい声で言った。
「そうなんですか。じゃあ、すぐに帰ったほうがいいかもですね。祥子さんの家が普通の家とはちょっと違うということは、僕達も知っていますから、今日はここでお開きとしましょうか?」
植松淳さんが、そういった。
「そうかあ。なんかつまんないけど、それでは、しょうがないわね。じゃあ、また開いている日に、四人でランチに行きましょうよ。一ヶ月後でも、二ヶ月後でも喜んで待ってるわよ。」
聡美さんはそう返してくれたけど、祥子さんは、なんだかこんなことで家に帰らなければ行けないのは、悪いような気がしたのであった。でも、家に帰らなけれは、それ以上に叱責されることはわかっていたから、仕方なく家に帰ることにした。祥子さんは、岳南鉄道で吉原駅に戻り、そこから東海道線で富士駅に戻って、急ぎだったのでタクシーで自宅に戻った。バスの代金の二倍以上のお金がかかった。
「ただいま。」
と、小さな声で、家の玄関の扉を開ける。
「ああ、おかえり。来てくれてありがとうね。」
お母さんが迎えてくれた。
「で、おじいちゃんは、またなんで怒っているのかしら?」
できるだけ前置きはつけずに、そういう事を言った。
「ああ、あのね、おじいちゃんが今日クリニックで検査を受けてきたんだけどね、ちょっと、脂質が多いって言われたんだって。別に気にする程度じゃないけど、おじいちゃんは、すごく気にして、今夜から、サラダにアボカドを入れるのは一切やめろって言って聞かないのよ。だから祥子、サラダを作るときは、もうアボカドは入れないでね。」
お母さんはそういう事を言った。なんで、そうなってしまうんだろう。祥子さんの家庭では、個人的にどうのということが認められない。一か十かのいずれしかない。つまりもう少し具体的に言えば、全員で辞めるか全員でするかのいずれかなのだ。例えばおじいちゃんだけ、アボカドを抜いたサラダを提供すればいいじゃないかと、祥子さんは思うのであるが、それは一切許されないのだった。もし、一人の人物が、と言ってもだいたい発言するのは祖父だけど、何々が嫌いだと発言すれば、全員同じものを嫌いだと言わなければならない。
「世の中には、食物が口に合わなくて、一人だけ、ワタミの宅食のようなものを食べているお年寄りだって居るじゃないの。なんで私が、そんなふうに犠牲にならなきゃならないの?」
と、祥子さんは言った。
「そういうこともできるのかもしれないけど、うちは違うからね。」
お母さんは、そこはちゃんとしている。
「おじいちゃんが、もしそういう事をすれば、きっと、自分だけまずいものを食べさせられて不幸だとか、そういう事、親戚中に言いふらすわ。そうなれば、悪いことをしているのは私達なのよ。」
親戚に味方になってくれる人はいなかった。みんな祖父のことを恐れていて、あるいは馬鹿にしていて、みな祖父の言うとおりにしてしまうのだ。だからそうなれば、悪者になるのは祥子さんたち、若い人たちである。若いからまだ可能性があるとか、そういう言葉を祥子さんが嫌いなのは、祖父のような人とずっと関わっていかなきゃならないから嫌いなのだ。
「そうね。まあ、私達が悪人にされても嫌だしね。でも、ホント不自由よね。好きな食べ物も食べられないし、服装もねえ、自由にさせてもらえないじゃない?」
祥子さんは、大きなため息を着いた。祥子さんの家では、洋服はしまむらばかりだ。高級なものを買ってくると、何をしていると言って祖父が怒鳴るから、そういう可愛らしいものや、通信販売は使ってはいけないことになっている。それに、マクドナルドのようなものも、健康に悪いからと言って祖父は食べては行けないと怒鳴る。そういうことができないので、祥子さんは、着物の道へ行くことができて良かったと思うのだった。
「まあそうね。でも、おじいちゃんがお金出してくれなかったら、あたしたちは暮らしていけないんだし、どこかへ出ていこうにも、行くところも無いでしょ。だから、ここで我慢するしか無いわ。」
お母さんは、大きなため息を着いた。どうしてお母さんだけ丈夫なんだろう。祥子さんは、こんな制限ばかり課されて、衣食住自由にできないこの家は、本当に辛くてしょうがないと思うのに。家にお金が無いから、贅沢はするなと祖父は毎日怒鳴っているけど、祥子さんは、それほど貧乏では無いとお母さんから言われていた。お父さんだって働いていてくれるのに、何故か祖父にはお父さんのことは眼中にない様子だった。
「お父さんがもうちょっと、しっかりしてくれればいいんだけどね。」
「まああれじゃ無理ね。わかったわよ。これから、食べ物には気をつけるから。まあ、早くあの人には消えてほしいと思っても仕方ないわね。」
お母さんと、祥子さんは、そう言い合って、慰めあった。せめてそういうことが言い合える人が居れば、まだ幸せな方かなと思った。
「祥子は、好きなようにやりなさい。着物の着付け教室通いたいんだったら、それでいいから。」
お母さんは、にこやかに笑っていった。祥子さんは、ありがとうと言って、すぐ支度するからと台所に行った。時々祥子さんは料理がしたくなって、森田家の夕飯を作ったりすることもあるが、その情報は、テレビやインターネットで得ているのだった。でも、それらの料理を食べて、祖父が嬉しそうな顔をしていたのは一度もない。大体の料理は味がこすぎるとか、栄養が無いとかそういうことを言う。まるで、食費を出してあげているのは、俺なんだと主張しているように。
その日も、祥子さんは、テレビでみたレシピ通りに、スパゲティを作って家族に食べてもらった。でも、何も楽しくなかった。アボカドのサラダも作ったけれど、何も美味しくなかったのだった。祖父だけではなく、母も、いつもなら喜んで食べてくれるのに、今日は、嬉しそうに食べてはくれないのだった。
「おい、そのネックレスどこで買った?」
祖父が、お母さんに言った。
「ええ、近所のリサイクルショップで買いましたよ。値段はリサイクル品でしたから、950円でした。もし見たいんだったら、領収書持ってきましょうか?」
お母さんはそう言って祖父の怒りを交わした。
「馬鹿な、そんな値段で、金のネックレスが買えるわけ無いだろうが。」
祖父がそう言うと、
「いいえ、もしよければ、領収書持ってきますよ。今お見せしましょうか。ちゃんと、950円と書いてありますから。ご自分で確かめてください。」
お母さんは、そういって、椅子から立ち上がり、カバンを開けてお財布を出し、リサイクルショップの領収書を差し出した。こういうものが無いと、森田家では買い物ができない。領収書にはちゃんと、950円と書いてあるから、それで大丈夫だと祥子さんが思っていると、
「こんなに洋服とか、アクセサリーを買って何をしているんだ!」
と祖父は怒鳴った。
「ええ、買いましたよ。でも、一つ一つの値段は、500円とか、400円とかそんなものです。だから、大損にはならないのではないかしら。」
お母さんはそういってうまくかわす方法を持っているが、祥子さんはそれが辛かった。祖父が、そう怒鳴るのは、自分が働いていないからと言うこともあるのだろう。祥子さんは、昔は過ごしやすかったのに、なんで今はこんなに苦しい場所になってしまったのか、見当もつかなかった。なんでこんなふうに祖父が嫌な人になってしまうんだろうな。それはよくわからなかった。
「まあ、いいじゃないですか。リサイクルショップですからものだってそんなにいいものでは無いはずです。それでいいじゃないですか。そんなに贅沢な暮らしは家ではしていませんよ。だから、これからも祥子が作った食事を食べてくださいね。」
と、お母さんはそう言っている。
「さ、わからないこと言わないで食べましょう。」
お母さんは、そう言って、また祥子さんが作った食事を食べ始めた。祖父はまた怖い顔をしているが、食べ物には手をつけていて、食べていた。そういうところが祥子さんも嫌だった。食べないでいてくれるなら、そのほうがいい。そうすれば勇気を出して、宅配弁当を食べてくれるように持っていってくれるかもしれない。でも、祖父は不思議なことに、祥子さんの作った食事を嫌だ嫌だといいながら食べている。それもすごい怖い顔をしたままで。本当に、この人は何を考えているんだか。祥子さんは困ってしまうのだった。
誰にも相談できない、辛い悩みだった。とにかく祥子さんは、外で仕事したいと思っても、できそうな事は何もなかった。お父さんやお母さんは、一生懸命働いているけれど、それが辛かった。そして祖父は、現代社会に対応できないまま、変なことで怒鳴り続けている。それが祥子さんの日常だった。誰かに相談すれば、祥子さんは家族がいてくれて恵まれているとか、親がいてくれて嬉しいねとか、親に迷惑かけるなとか、そういうことしか言われないから、そういう事を言われるのを繰り返す人生であったら、もう死んでしまいたいと祥子さんは思ってしまう。もしかしたら、このままでは、祖父に、着付け教室のことも取り上げられてしまうのではないか。もし、祖父がそんなことをいい出したら、どうしようと祥子さんは不安になるのだった。
祥子さんは、辛い夕食を祖父が食べ終わって部屋に戻っていくのを見届けて、自室に戻った。自室に戻って、つらい気持ちを日記に書きなぐっていた。その日記には、死にたいという言葉が何回も書かれている。そして、ページを破ったこともある。昔、憎たらしい人の名前を書いて、破って捨ててしまえと言ってくれた人も居るけれど、それをしたからと言って、つらい気持ちが収まるわけではなかった。祥子さんにしてみれば、つらい気持ちを、どうにかしてほしいというのが先で、自分の心の持ちようなどどうでもいいのだった。対処法なんてどうでもいいから、この辛い気持ちを誰かに話して、そうか、お前もそうだったのかと言ってくれる存在がいてくれたら、どんなにいいことだろうか。祥子さんは、それだけを望んでいた。
ふと、祥子さんのスマートフォンがなった。
「もしもし。」
祥子さんが電話に出てみると、
「祥子ちゃん。あたし、聡美よ。」
話しているのは植松聡美さんだった。
「あのね、今度の土曜か日曜に、着物を買いに行きたいの。一緒に行かない?なんでも、店がセールをやってるんですって。」
「そうなんですね。」
できれば一緒に行きたかった。
「残念だけど、また出かけるとなれば、大事になるわ。」
「そうなのね。」
植松聡美さんは、そう言ってくれた。
「大変ねえ。まあ、家を乱したくないっていう、そういう気持ちがわからないわけじゃないけど、、、。でもさ、そういう事をわざと破って、でかけてみるのも必要なことだと思うけどね。だって誰にも変えられないことはあるじゃない、それに対処するには、新しい事を始めるしか無いと思うわよ。」
「でも聡美さんは、もう家を出て、ご主人と一緒にいて、幸せを掴んでいるようなものじゃない。なんであたしは、それができないのかな。」
祥子さんがそう言うと、
「まあ、そうかも知れないけどね。でも、やってみなきゃわからないことだってあるし。それに、また、着物屋さんでいいものがあるかもしれないわよ。それを着れば、少し楽しくなるんじゃないの?誰にも解決できないことで悩んでいてもつまらないわよ。ねえ、いってみない?」
聡美さんは祥子さんを慰めるように言った。
「そうかあ。じゃあ、いってみようかな。」
「そうよ。家の人には、ちょっとカフェで勉強してくるとか、そういう口実を作ればいいわ。」
祥子さんがそう言うと、聡美さんは、彼女を援護するように言った。
「じゃあ、土曜日の10時に、富士駅で会いましょうよ。身延線の入山瀬駅の近くに店があるわよ。」
「わかったわ。」
祥子さんは、聡美さんにそう言われて、とりあえず言った。
そして土曜日。その日はいずれにしても寒い日で、着物で居るのはちょっと寒い日だったが、祥子さんは着物を着て、富士駅に行った。駅の身延線のホームに聡美さんがいた。聡美さんも、着物を着ている。もちろん、カジュアルな着物だったけど、ふたりとも現実離れしたような、そんな格好だった。二人は、すぐにやってきた電車に乗った。電車で沿線風景を眺めるのも随分楽しいものだった。それができるだけでも祥子さんは、幸せだった。どうせまた帰ったら、祖父に怒鳴られるのは目に見えているが、でも、それでも、外の風景を眺めるというのは、どうしてこんなに楽しいのだろう。そして、入山瀬駅で降りた。しばらく駅近くの道路を歩いて5分ほどしたところに増田呉服店があった。入山瀬といえば、祖父からしてみれば、恐ろしく遠いところだった。電車で3駅だから、何も遠くないと言ってもそんな遠くへ行ってはいけないと怒られたり、驚かれたりしたものだ。でも、こうして電車で行ってしまえば、なんてことなく行けるのだった。
「こんにちは。」
聡美さんに連れられて祥子さんは店に入った。店にはすでに先客がいた。
「あら、植松聡美さん、また着物を買いに来たか?」
「違うわよ。今日は新しいお客を紹介しに着たの。」
聡美さんはすぐ笑って、杉ちゃんに言った。
「杉ちゃんもこの人に似合う着物を見つけてあげてよ。」
聡美さんがそう言うと店の店主である、カールおじさんが、
「はい、まず、普段着として着物を着たいですか?それとも外出着として着るのかな?」
と言った。祥子さんはそれもわからなくて、困っていると、
「普段着として着るんだったら、小紋がいいし、外出用にするんだったら訪問着がいいぜ。」
と、杉ちゃんに言われて、
「小紋をください。」
と祥子さんは言った。
「わかりました。小紋というと、種類の大変多い着物でして、礼装になる江戸小紋から、普段用として使う飛び小紋まで色々あります。基本的に柄が小さくてびっしり入っているものほど格が高くなり、柄と柄との隙間が大きいとカジュアルになります。どちらをご入用ですか?」
カールさんが、祥子さんに聞いた。
「いいのよ。どうせここは1000円でいいものが買える店なんだから、何でも買っちゃいなさいよ。そうでもしないと新しいものにはなれないわよ。」
植松聡美さんが祥子さんにいうが、祥子さんは、その派手な着物たちに、どうしようと思っているようだった。多分、こんな高価なものをとか、また怒鳴られるのではないかと思った。でも、売り台に置かれている、赤い色の派手な鶴の柄がついた小紋に目が行った。一目惚れだった。こんなきれいなものを着られたら、どんなにいいだろうか。
「これですか?」
カールさんが、それを出してくれた。全体につるを散りばめた派手な赤い小紋で、祥子さんは、なんだか着てみたいと思ってしまうのだった。
「ちょっと着てみますか?」
鏡の前で案内されて、祥子さんはその着物を羽織ってみた。もうリサイクル着物をうまく着る方法も心得ている。ちょっとサイズが小さいことが多いので、下前を少し持ち上げて斜めにするように着るとか、広衿の場合は、三分の一くらいで折って裄丈をごまかすということも知っている。祥子さんがそれを試しながら着てみると、随分いい感じに調和した。
「えーと、これ、おいくらですか?」
祥子さんはカールさんに聞いた。
「はい、2000円で結構ですよ。」
カールさんがそう言うと、祥子さんは、せめて今だけでも違う自分でいたいと思って、カールさんに2000円渡した。そして、自分で、その着物を丁寧にたたみ始めた。もうたたむこともできるのだ。そう、自分は変わったのだと思いながら。
つる 増田朋美 @masubuchi4996
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