第32話 龍の瞳

 不意に名を呼ばれた気がして、ユイは瞼を開いた。

 どうやら長い間眠っていたようで、瞼を開いても視界がはっきりせずユイは少し困惑する。

 しかし再び眠る気にもなれず、何度か瞬きを繰り返している内に、次第に意識も視界もハッキリとしてきた。

「そうだ……海を見たんだった……広かったなぁ……塩辛いものが恋しくなる香りがしたな、あの強い風」

 はぁ、とユイは深いため息を吐き、直前の記憶を蘇らせた。

「……よいしょ」

 ユイはゆっくりと体を起こした。

 気づけば、どうやら自分は上等な布団で眠っていたようだ。海を見た時には動かなかった体が、今はとても軽く感じられた。

「よく眠ったからかな? それにしても、ここはどこなんだろう?」

 ユイはキョロキョロとあたりを見回してみるが、辺りは白い靄がかかっているせいでまったく識別できない。

「ここは龍の瞳の内側だよ、ユイ」

 突然降って湧いた声に、ユイはびくりと体を震わせた。

「どこから……というか、私のことが見えているのか……この靄の中で」

 ユイは眉根を寄せた。

「私の姿が見えるかな?」

 男とも女とも判断がつかない中性的な声はわんわんと響き、発生元がどの方向なのかすらわからない。

「えっと……靄がかかっていて、よく見えない!」

 ユイは寝ていた布団から起き上がり、上に向かって叫んだ。ユイの声も先程の声のように、わんわんとあたりに響く。

「どれ、今よく見えるようにしてやろう」

 声の主がそう言うと、ユイの前面から強くてあたたかな風がびゅうっと吹き、ユイの体をすり抜けて行った。

「うわっ……」

 ユイは咄嗟に手で風を遮る。そしてその手を降ろすと靄はすっかり晴れていて、二メートル程先に二人の人物がいるのが見えた。

 一人は椅子にゆったりと腰掛け、もう一人はその傍らに寄り添うように立っている。

「初めまして、ユイ」

 声は、椅子に腰掛けた人物のものだった。

 その人物はにこにこと人懐っこい笑みを浮かべている。お陰でユイは警戒心を抱かずに済んでいた。

「あなたはもしかして、龍の神様ですか?」

 ユイは、その人物の持つ金色の瞳をじっと見つめながら言った。

 その肌は光沢のある碧色で、髪と瞳の色は金色だった。体つきや顔つきなどは人そのものだが、肌や瞳の色が違うだけではなく、独特の神々しさを身にまとっている。

「そう、よくわかったね! 私は龍神、龍の瞳の生みの親だよ。とは言っても本体はとっくになくなっていて、この体は精神体の名残なんだけどね」

 神と名乗った人物は笑みを絶やさず、明るい口調で言った。

「はあ……まさか龍神様に会うとは思いませんでした……そんな姿だったんですね」

 ユイは真顔のまま 、しみじみと言った。

「私が大ババから教わったのは、もっと体が大きくてゴツゴツしていて、まるで恐竜のような絵姿でした」

 それは先祖代々カクノヒメに伝えられてきた、一枚の龍神の絵だった。今も村で大ババと呼ばれている老婆が保管している。

「うん、大昔はそんな成りをしていたんだけどね……色々あって、今はこんな成りなんだよ。しかも、さっきも言った通りこれは実体ではない」

「そう……なんですか……」

「まあ、私のことはさておき、君をここに留めている理由についてだが」

 龍神に言われ、ユイは今いる場所が龍の瞳の内側なのだということを思い出した。

「君には、きちんとお礼を言いたくてね。彼女と一緒に」

 龍神は言い、隣に立つ女性を見上げた。

「その方は……私のご先祖様ですか?」

 ユイは穏やかな笑みをたたえている女性を見た。

 ユイが女性を先祖ではないかと思ったのは、彼女と自身の顔がよく似ていたからだ。

 女性は長くて真っ直ぐな黒髪を背で一つに結き、ユイが見たことのない衣装を身につけている。

「そう。彼女が私と龍の瞳の契約を交わしたのだ。彼女は国に仕える巫女という立場だったんだよ」

「なるほど、その服装は巫女のものなんですね……それにしても、もうとっくに成仏されて輪廻転生の輪に入っていると思っていました」

「うん、私もそうするように彼女に勧めたんだけどね、頑として拒否したんだよ。ちゃんと最後のカクノヒメに、直接謝罪と礼が言いたいってね」

 龍神からの説明に、ユイの先祖ははにかんだような笑みを浮かべた。

「私の下した判断で、あなたたちカクノヒメには辛い思いをさせてきてしまいました。私は自分の判断を後悔していませんが、罪悪感はずっと抱いて来たのです」

 そう言うと女性は表情を曇らせ、ユイに深々と頭を下げた。

「本当に、ごめんなさい」

「あっ……はい……その……もう済んだことですから」

 ユイは気まずさを感じ、笑みを浮かべる。

「私が最後で良かったです」

「……本当に、そう思いますか?」

 面をあげた女性は、まだ尚額を曇らせていた。

「はい、だってカクノヒメじゃなかったら、私はリィに出会えていませんから」

 ユイは自分の口から出た言葉に驚いていた。

 どうもこの場では、自分は素直すぎるような気がしていた。

「あの魔族の若者な……」

 龍神は戸惑いの表情を浮かべるユイに微笑みかける。

「……正直心配しているのだ、私も……あの子は君なしで、果たして生きていけるのかねぇ」

 龍神の言葉にユイはハッキリと狼狽した。

「リィはどうしていますか! ちゃんと王になりましたか!」

「いやいや、まだ龍の瞳が完成体になってから十日ほどしか経っていないし、私が知っているのは海岸で身をやつれさせながら、君の魂が目の前に現れるのを待っていた所までだ」

 龍神は、ユイの剣幕に思わず苦笑した。

「あの馬鹿……」

 やつれたリッシュの姿を想像し、ユイは顔を歪めて呟いた。

「まあ、龍の瞳はユウが国に運んでくれたから安心していいよ。あ、君が心配しているのはあの若者の方か」

 龍神の言葉に、その隣に立つ女性はクスクスと笑った。

「うーん、君の魂はこれから輪廻転生の輪に入ることになるけどね……流石に君を魔族にすることは、私にはできないし……あっ、そうか確か器を用意しているんだったっけね、彼」

「……はあ、まあ、あいつはそんなようなことを言っていましたが……」

 ユイは眉間に皺を寄せ、ソワソワしながら言った。

「よくご存知ですね、龍神様?」

 微かに嫌な予感を覚えつつ、ユイは言った。

「そりゃあね、私は君の中にずっといたわけだから……知っているさ全部」

「全部……」

 ユイは全身がかあっと熱を帯びるのを感じた。

「なにも恥ずかしがることじゃない。私とて過去、人間と恋に落ちた身だ。君やあの魔族の若者の気持ちには、十分共感できるさ」

 龍神は恥ずかしがるユイに穏やかな笑みを浮かべて言った。

「は、はぁ……ということは、私の魂は龍の瞳に取り込まれたわけではないんですね?」

 ユイは気を取り直して龍神に問う。

「あぁ、そうだとも。先程も言ったとおり、君をここに引き留めているのは、私と彼女が君に礼を伝えたかっただけだからね」

 にこりと笑って龍神は言った。

「あぁあ、あの馬鹿が今どうしているのかがすっごく気になる……あの、龍神様……今の私の状態で魔族の住む場所まで行けるものなのでしょうか?」

 ユイは焦りを浮かべた表情で頭を抱え、龍神に問う。

「いや、ガイドがないと無理だろうね。君はなんと言っても人間の魂なんだから」

「うぅ……」

「良かったら私がガイドしましょうか?」

 うめき声を漏らしたユイは、突然背後から聞こえてきた男の声にびくりと体を震わせた。

「あれ……この声、どこかで聞いたような」

 ユイがそっと後ろを振り返ると、そこには金髪碧眼の男が立っていた。

「また来たのか……お前は本当にこういうことに鼻が効くんだな」

 龍神は突如現れた金髪碧眼の男に向かって、呆れたように言った。

「あなたは確か……カイルさんでしたっけ?」

 ユイは必死に記憶を蘇らせて言った。

「あっ、覚えていてくれたんですね、嬉しいですよユイさん」

 カイルはにこにことユイに笑いかけた。

「私は純愛ストーリーが大好きでしてね。あの桜の姫の時も楽しませてもらったけど、今回も楽しめそうだ」

「……そういう風に言われると、少し複雑ですが……」

 ユイは引きつった笑みを浮かべて言った。

「まあそれもあるし、私の友人の危機を救うという目的もある」

 カイルの言葉に、ユイは青ざめた。

「それ、リィのことですか!」

「うん……彼ね、やっぱり君がいないとダメみたいで……あの様子じゃあ、近々遺言でも書きそうな気がするんだよね」

「カイルさん!」

 ユイは顔色を失ってカイルに向かって叫んだ。

「私を魔界に……リィのところに、連れて行って下さい! お願いします!」

「もちろんそうするつもりさ。あと保険としてもう一人連れて行くつもりだよ」

「ありがとうございます!」

 ユイはカイルに頭を下げながら、保険とは何の話だろう……と考えていた。

「じゃあ、そういうことだから行くね」

 カイルはユイの肩に手を置いて、龍神に笑いかけた。

「ああ……幸せにな、ユイ。ありがとう」

 龍神は言い、ユイに笑いかけた。

「はい……最後のカクノヒメを務めさせてくれて、ありがとうございました」

 ユイが龍神に向かって頭を下げると、その姿はカイルと共に消えた。

 後に残った龍神と女性は静まり返った空間に佇む。

「では龍神様……私もそろそろ行こうと思います」

 女性は穏やかな笑みを龍神に向けた。

「あぁ……寂しくなるね……けど、私は君の幸せを願っているよ」

 龍神は椅子から立ち上がり、すっと手を差し出した。

 遥か昔、彼女と契約を交わした時のように。

「ありがとうございます」

 その手を握り、女性は微笑んだ。

 そして、その姿は消える。

 その場に残ったのは龍神ただ一人だ。

「さて……私はここで皆の幸せを祈るとしよう」

 龍神は呟き、再び椅子に腰をおろしたのだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る