第31話 壁の向こう側
リッシュがユイを抱えて姿を消したのを見て、ユウは全てを察していた。
桜花は黙ったまま、ユウに寄り添うように立っている。
「終わったかぁ……あのお嬢ちゃんの勝ちだなあ、ありゃあ」
拘束から解き放たれたギータが、体をほぐしながら言った。
「あぁ、壁取り払ってやるから、あのアヤカシの娘のとこに行ってやりなよ……しっかし、なんだこりゃ……あいつ、砂に何混ぜたんだ?」
ギータは体中に貼り付いている砂を手で払ったが、砂にまぜられていた粉は落ちずに、ギータの肌はきらきらと光り輝いていた。
「それは龍の瞳の殻と同じ性質のものだ。魔族とは正反対の性質のものだから、早く洗い流した方がいいぞ」
ギータの言う通りに目の前の壁がなくなり、ミミの元に駆け寄っていくユウの背を見つめながら桜花は言った。
「げっ、じゃあさっさと帰るわ! 俺はてっきり街の人間を催眠状態にする為に、あの蝶使ってなにかを撒いたんだと思っていたが……さては両方撒いてたんだな、アイツほんっとに抜け目ねぇな」
ギータはリッシュに悪態をつきながら姿を消した。
「……おかしな奴だったが、まともに戦うことにならなくて良かった」
桜花は人知れず微笑を浮かべ、小さく安堵のため息を吐いていたのだった。
どこかで、ザザッという音が聞こえる。
それは大きくなったり小さくなったりを、ずっと繰り返していた。
それに強い風が吹いていて、その風は独特の香りがした。
今までに嗅いだことのない、大好きな塩の風味が漂う香り。
『波の音ってのはさ、こういう音なんだよ』
海のことを教えてくれた旅の商人が、その時に筒に小さな豆を入れて波の音を再現してくれたのを思い出した。
そうか、これが本当の波の音なんだ。
……まだ、この目で見ることができるだろうか……
ユイはゆっくりと瞼を開いた。
そこには潮風になびくリッシュの黒髪と、海原を眺め続ける横顔があった。
「きれいだ……」
ユイは思わず呟き、それに触れようと手を伸ばす。
それに気がついたリッシュは柔らかく微笑んで、ユイの手を取って自らの頬に押し当てた。
「あたたかいな……」
ユイはまだそれを感じ取ることができていた。だが、体に力は入らない。
「……海ですよ、ユイさん」
リッシュはユイの体を抱き抱え、自身は海原に背を向けた。
「……広い……」
ぼんやりと陽の光を反射させ、寄せてはひく波。
ごうごう、ざざっ、と響く音。
顔に吹き付ける潮風は冷たかったが、その分リッシュの体のあたたかさが身に沁みた。
その熱はじんわりとユイの体内に浸食し、身の内の全てを塗り替えてしまうような気がした。
「……お前に、出会えて良かった……」
ため息を吐くように言い、ユイは笑って瞼を閉じた。
「……私もです……あなたに出会えて、私は幸せでした」
ユイを抱く腕に力を込めて、リッシュは微笑んだ。
延々と続く波の音が、二人の沈黙の時間を埋め尽くし流れていったのだった。
「リィ……」
ミミが見たのは、海原を見つめ続けるリッシュの後ろ姿だった。
ルイザとの決戦から、丸一日が経過している。
既にリッシュの腕の中にユイの姿はなく、ユイが身につけていた薄紅色の服が潮風に煽られリッシュの膝の上でバタバタと音を立てていた。
ミミは掛ける言葉が見つからず、しばらくの間黙って海とリッシュの背を見つめていた。
「……海って、大きくて音がうるさくて、ユイの作った料理の香りがするんだな……」
ミミはぼんやりと呟いた。
ミミの反対を押し切って、ユイは最後に鍋を作った。
その時のユイの笑顔を思い浮かべ、ミミは泣きそうになる。その手の中には、ユイからもらった根づけ紐が握られていた。
ミミが願うのは、ユイの魂が龍の瞳から開放されることだった。
おそらく、リッシュはそれを待っているのだ。自分の目の前に現れるはずの、ユイの魂を。
潮風に揺れるリッシュの黒髪が、いつもより艶を失っているような気がした。
「気のせいかな……」
ミミは呟き、そっとリッシュに近づいた。
「リィ、お前その顔……」
リッシュの顔を覗き込んだミミは、思わず息を呑んだ。
元々整っているリッシュの顔は、かなりやつれて見えた。顔色は青白く、目の下には隈が濃い。頬もこけている。
ミミが近づいているというのに、リッシュは無言で海原を見つめ続けていた。正気ではないのは一目瞭然だ。
「なんでそんなに……あ、もしかして龍の瞳のせいか!」
ミミはハッとしてリッシュの膝の上を見た。
薄紅色の服の上に、光り輝く水晶球が置かれている。直径十センチ程のものだ。
それは悪しき気を吸い込み、浄化した気を放つ神具“龍の瞳”だった。
「リィ、お前、まさかなにもしてないのか」
魔族は悪しき気に分類される。なんらかの手段を用いてガードしなければ、エネルギーを吸われ続けてしまうのだ。
「おい、しっかりしろよ!」
ミミは焦りを浮かべた表情でリッシュの肩を掴んで揺さぶった。
「ミミさん?」
ようやくリッシュは口を開いた。
その様に、ミミはホッと安堵のため息を吐いた。
「リィ、なにやってんだよ、死んじまうぞそんなんじゃ!」
ミミは険しい表情でリッシュに怒鳴った。
「……大丈夫ですよ……私は不死身ですから、死にはしません」
「そうなんだ……いや、そうだったとしても、ガード位しろよ、できるんだろ?」
ミミの指摘に、リッシュは苦笑した。
「あぁ、そうでした……すっかり忘れていました……龍の瞳の内側に入れないかと、神経をそちらに使いすぎていました」
「あぁ、それで呆っとしてたのか……」
「できませんでした……何度試してみても……」
リッシュは膝の上の水晶球を、ぼんやりと見つめながら言った。
「……そっか……」
ミミはそれ以上なにも言えなくなった。
「ユウさん達は、どうしていますか?」
「ユウはこの街で家を借りたりしてる。ユウはこの後、国の中央に行かなきゃならないから、まだ路銀も必要だし……きっとまた市に出店したりすると思う」
「そうですか……怒っていませんでしたか、私のことを?」
問うリッシュを、ミミはじっと見上げた。
「……怒ってないよ……だって、ユイ本人が望んだことなんだから」
ふと視線を海に戻し、ミミはしばらく黙り込んだ。
「リィは、いつまでユイを待つつもりなんだ? 酷なことを言うけど、ユウはいつまでも待ってくれないぞ」
「……そうですよね……いつまで、待ってもらえるでしょうか」
「……この街には、五日間いるってユウが言ってたから……その間だと思う」
リッシュには、それは短いだろうとミミは思った。
「……わかりました……ユウさんに龍の瞳を渡すのもユイさんとの約束ですから……その期限は守ります」
リッシュは小さな声でミミに言った。
「うん……とにかく、お前はちゃんとガードしろよ! おいらはユウに状況を説明するからさ」
ミミは立ちあがってリッシュに念を押した。
「はい、気をつけます」
リッシュが浮かべる弱々しい笑みに、ミミは不安を抱いた。
もしユイの魂が現れなかったら、いったいリッシュはどうなってしまうのか?
リッシュに背を向けて歩きながら、ミミはユイからもらった根づけ紐を胸に握りしめていた。
「……明日が期限です」
空は浅緋色と紺鼠色とが二分した色をしている。あと数分で辺りは夜闇に包まれるだろう。
リッシュの細い背を見つめているのは、教育係のジークだった。
ジークは、ルイザと対戦する前にリッシュから課題達成の証拠品である貝殻を預かり、それを王に報告していた。そして主である王から、リッシュがこれまでと変わらず正当な王位継承者であると伝えられている。
つまり、弟であるゼダが王位継承者となる可能性はかなり低くなったのだ。
ジークは、ユイを待つことができる期限が決められていることに安堵していた。明日を迎えれば、リッシュは龍の瞳をユウに渡し自国である魔界に戻らざるを得なくなるのだ。
リッシュが次期魔王となる前にしておかなければならないことは、沢山あった。
ジークは今の制度を変えたいというリッシュの望みが叶うように、これまで裏で動いてきた。しかし、肝心のリッシュ本人がこの状態ではなんの意味もなくなってしまう。
「もし明日になってもなにも変わらなければ、その時は潔く諦めて下さい」
すっかり暗くなった海岸に、潮騒と冷たいジークの声が響く。
微かにリッシュの頭が下を向いたような気がした。
それはジークの言葉に頷いたのか、それともうなだれたのか。
リッシュの体からいつもの生気が感じられないことは、ジークにもわかっていた。しかし、この状況は予想範囲内だった。
ターゲットであるユイの魂がどうなるのかは、誰にもわからなかったのだ。
もしユイの魂が龍の瞳から分離されなければ、リッシュが用意した器も無駄になってしまう。だが、その可能性があったことはリッシュもわかっていたはずだ。
今はまだ、気持ちの整理ができていないだけだ。時間が経てば、きっといつか忘れる日が来る。
ジークはそう考え、夜空に浮かぶ月を見上げた。
奇跡は起きない。現実は、そんなに甘くないのだ。
微かにブルーグレーの瞳を細め、ジークはリッシュの後ろ姿を見守り続けたのだった。
「お前、いい加減にしろよ」
翌朝、浜辺にやってきたユウがリッシュの胸ぐらを掴んだ。
「そんな面して……姉ちゃんが喜ぶと思うか!」
きらきらと怒りに瞳を輝かせて、ユウは光を失っているリッシュの瞳を睨みつけた。
「お前は……王になるんだろ! しっかり生きろよ! 姉ちゃんの分まで!」
ユウが乱暴にリッシュの体を離した反動で、ずっとリッシュの膝の上にあった水晶球がころころと砂の上を転がった。
ユウはゆっくりとそれを拾い上げると、砂を払って白い布に包んだ。
二人のやり取りを、ミミと桜花は黙ったまま見つめ続けている。
「これはおれが国に納める。そういう約束なんだ」
水晶球を懐にしまいながら、ユウは低い声音で言った。
「行くぞ、ミミ」
ユウはミミとすれ違いざまに小さく呟いた。
ユウの表情は、ミミにはとても苦しそうに見えた。
「う、うん……」
ミミは後ろ髪引かれながらも、ユウの後を追う。
ユウはリッシュを振り返らずにずんずんと歩き続けた。
桜花はじっと、砂浜に座り込んだまま動かないリッシュを見つめている。
「……あなたは、行かないのですか?」
ゆっくりと近づいてきた桜花に、リッシュは力なく問う。
「……すぐに追いつける……」
「……ユイさんに、怒られているような気がしました」
微笑を浮かべ、リッシュは言う。
「ユウさんは、やっぱりユイさんに似ている……真っ直ぐで優しい……」
「そうだな」
桜花は微かに瞳を細める。
「私は……この先を生きなければならない……でも……あの人がいないこの世界で、私はもう生きていたくないんです」
リッシュの静かな声音が波の音に混じって桜花の耳に届く。
「お前が生きることを捨ててしまったら、全ての可能性はそこでゼロになる」
淡々と言う桜花の声音が、はっきりとリッシュの耳に響いた。
「可能性……なにか、あると思いますか? 私には……なにも思いつかない」
「思いつかなくても……もしかしてなにかが起きるかもしれんだろう? 奇跡は、私達が予想もしないどこかから突然現れたりするものだ」
桜花の脳裏に、金髪碧眼の神カイルの笑う姿が浮かぶ。
「私は、あの男の存在すら知らなかったのだ。それなのに、向こうは何かを嗅ぎつけて私のところにやってきた」
桜花はふっと笑った。
「私はユイにも同じことを言った。本気なら、絶対に諦めるなと」
「……そう……なんですか?」
リッシュは桜花を見上げた。
「まあ、その時がいつくるかわからんからな……それまで気を確かに保てよ……じゃあな」
桜花は不敵な笑みを残して姿を消した。
「……そう言われても……なかなか難しいんですよ……私は、あなたほど強くないんです」
はあ、とため息を吐いてリッシュはぼんやりと空を見上げた。
まだ高い陽の光は白い雲に覆われて、薄ぼんやりと光っている。
「そういえば、ユイさんが着ていた服……」
リッシュはハッとしてずっと腰掛けていた大きな流木を顧みた。
潮風にさらされ続けたそれは、大分傷んでしまっていた。それをそっと手に取り、リッシュは顔を埋めた。
服には、すっかり染み込んだ潮の香りしか残っていない。だが、そこに潜む思い出は嫌でもリッシュの胸を掻き乱した。
忘れたくない。どんなに辛くとも……しかし……
ゆらゆらと定まらない気持ちのまま、リッシュはしばらくの間、そこに立ち尽くしていたのだった。
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