第27話 決戦前夜
町の上空に、見慣れない蝶が群れをなして飛んでいる。
二日間に渡り続く不思議な現象を憂慮しても、町で暮らす人々にはその原因はわからず首を捻るばかりだ。
「あんなに高いところを飛んでちゃ、網で捕まえられないよ」
小さい手で虫取り網を握りしめ、張り切って腰に虫籠をぶら下げた少年達は揃って唇を尖らせた。
「なんだろうね、気味が悪いよ」
見知らぬ蝶の群れの行き先を見つめ、中年の女将は不安げに眉根を寄せる。
「新種の蝶だったら、捕まえて売ったら金になるかもしれねぇ!」
見慣れない光景に、金儲けの匂いを見出して瞳を輝かせる若者もいた。
若者は蝶の行き先を追ってみたが、なぜか町を出た途端まるで靄に包まれたように消えてしまう。
「なぜだ?」
町側の境目に戻った若者の目の前に、ひらひらと一匹の蝶が舞い降りる。
若者は、やったと瞳を輝かせたが、その表情はすぐに一変した。
「この蝶、ぺらっぺらだ。紙で出来てんのか?」
地に落ちたままピクリとも動かない蝶。その大きさはよく見かける蝶より二周りほど大きく、黒の翅脈に鮮やかな赤い色が際立っていた。
若者が触れていいものか迷っていると、蝶はふわりと風に舞って消える。
「なんだこれ、気味悪ぃ……おれ、引っ越そうかな」
若者は体を震わせながら、伸ばしかけた手をさする。
澄んだ青空を見上げると、町の方から蝶の大群が飛んでくるのが真っ黒く見えた。
若者は本気で町から出ることを考え始めたのだった。
朝日が登りきらない仄暗い世界の中、町の中央に立つ見張り櫓の屋根の上に二つの人影があった。
その内の一人の掌からは、無数の蝶が生み出されている。
「悪ぃな、リィ……お前の側に立ってやれなくてよ」
もう一人の人影がすまなさそうに言った。
「気にしないでいいよ。ギータ兄さんには兄さんの立場があるだろうし……ただ、あの人は相当強いから死なないでよ」
特に、と蝶を生み出すリィは付け加える。
「ユウさんが絡むと、彼女は底知れない力を発揮するからね」
「ユウってのは、あのお嬢ちゃんの弟だったか……まさか惚れてんのか? まだ
ギータは不思議そうな
「さあ、詳しいことは……でも、ユウさんの中にはなにかがいる」
リッシュは微笑を浮かべ、己から生まれ続ける蝶をうっとりと眺める。
「なにか? じゃあ、桜の姫さんはそっちに気があるってことか?」
「私の見立てでは、両方」
「ふぅん……そりゃますます楽しみだ。お前は手合わせしたことないんだろ?」
「対戦したことはないけれど、彼女の作った結界を破って修復したことは何度もあるよ」
「てことは、お前は桜の姫さんの情報を持ってるんだな」
リッシュは傍らに立つギータの黒い瞳を見上げた。
「ルイザも一度、家の中に侵入してきたことがあるんだ。結界を破ったのか、それとも特別なルートを使ったのかはわからないけど……ルイザからなにも聞いてないの?」
「桜の姫さんの能力に関しちゃ、なに一つ聞いてない。それに、お前からも聞く気はないから安心しろ。もし聞いちまったら、楽しみが減っちまうだろ?」
言い、ギータはいたずらっ子のような笑みを浮かべた。
「楽しむレベルで済めば良いけど」
「心配すんなって、ヤバいと判断したらすぐに
ギータは笑って額を曇らせるリッシュに背を向けた。
顔を見せ始めた太陽が強烈な光を放ち始め、辺りが一斉に明るくなる。
「私も……覚悟を決めなければなりません」
白い光の中でリッシュはぼんやりと呟き、開いていた掌をぎゅうっと握りしめた。
再び開く掌からは、もうなにも生まれない。
その脳裏に昨日のユイの笑顔を思い浮かべる。台所に立ち、楽しげに野菜を切ったりしていた姿だ。
「可愛かったな……やっぱりユイさんは、笑ってた方がいい」
しみじみと言い、リッシュはすっかり登りきった朝日に目を細めた。
ユイは昨夜、桜花に別れの挨拶をした。
しんと静まりかえった夜闇の中、二人はじっと互いを見つめ合っていた。
「長い間、私達カクノヒメを護ってくれてありがとう」
しばらく続いた沈黙を破ったのはユイだった。
「これ、桜花に……ミミには明日の朝渡すつもりだ」
微笑を浮かべながら、ユイは二本の根づけ紐を桜花に差し出す。それは、小さな鈴と花を象った緑色の石とを編み込んだものだった。
「礼を言われるのは筋違いだ。私は自分の望みを叶える為に龍神と契約を交わし、その条件を遂行したに過ぎない」
桜花は身じろぎもせず、静かな声音で言った。いつもの無表情が桜花らしいとユイは苦笑いを浮かべる。
「確かに、桜花にとってはそうなんだろうけどな。私は大事な弟を護ってくれたことに、特に感謝してるんだ。もちろん、うちの村ごと結界で守ってきてくれたこともだけど。桜花にしかできないだろう、そんなことは……私は妖魔の力の均衡のことはよく知らないが、桜花は一族の中でも相当強い方なんだろう?」
「……あまり我が一族のことは知らない方がいいから、あえて言わなかったが……時間の残されていないお前になら、話しても良いな」
桜花はわずかに瞳を細めた。
「我が一族、緑王の王族は五つの家柄から成り立っている。私はその内の1つ、桜の家の跡継ぎだ。桜家は代々攻撃力に秀でた血筋でな。現時点で私は一族の中で一番力がある。主である父よりもだ」
だが、と言って桜花はふと額を曇らせた。
「今はなきもう一つの家柄がある。なぜなくなったのかその訳は言えないが、桜家よりも攻撃力の高い血筋だった。その家の後継ぎが、私の婚約者だったのだ」
「もしかして、ユウと同化している魂がそうなのか?」
ユイは神妙な面持ちで問う。
「そうだ。私の婚約者は、いざこざに巻き込まれてとっくに死んでいると思われていた。私自身も、形式上だけの婚約者になど興味はなかったが」
桜花は何かを思い出したかのようにふっと笑った。
「
「龍の瞳が完成体になったら、ユウの中のもう一人も完成体になる……このあいだ依苦とやり合った時に、桜花から聞いたんだったな」
ユイの言葉に桜花はいつもの
「龍の瞳が完成体になるということは、私と龍神との契約期間が終了するということだ。そうなれば、私は彼の者と共に里に戻らねばならない。我ら妖魔は人と関わることを良しとしていないからな」
「そうか……そうだよな……いつまでもユウの傍にいてはもらえないよな」
ユイは少し寂しげな笑みを浮かべた。そんなユイに、桜花は凛とした視線を向ける。
「その役目は、私ではなくミミに託すべきだ」
「わかった、そうする。明日の朝、ミミに伝えるよ。これは私から二人への気持ちだから、受け取って欲しい」
ユイは桜花の前に置いた二本の根づけ紐を桜花の方に押した。
「幸せにな、桜花」
「……ユイ」
それを手に取った桜花は、ずいっとユイの黒い瞳を覗きこむ。その鋭く強い眼差しに、ユイは圧倒された。
「本気なら、絶対に諦めるな。諦めなければ、好機は必ず巡ってくる。それを掴め」
「……どうなるかは、ほんとうにわからないけど」
しばしの沈黙の後、ユイはようやく微笑んだ。
普段感情を顕にしない桜花。だからこそ、彼女が最後に残した想いはずしりとくる。
「私は私らしく、最後の最後まで抗うことにするよ」
桜花は満足気な表情で頷いた。
「これは記念にとっておく。人とここまで関わるなど、我が一族の歴史にそうないことだからな」
桜花はユイから贈られた根づけ紐を大切そうに懐にしまい込んだ。
「早ければ明日だ。奴らと戦う覚悟はできているか?」
無表情に戻った桜花は、きりりとした眼差しをユイに向ける。ユイは神妙な面持ちで深く頷いた。
「大丈夫だ。ユウのこと頼むな、桜花」
「任せておけ。お前は、お前の戦いに集中しろ」
頼もしい桜花の言葉に、ユイは安心したように息を吐いた。
外で鳴く風流な虫の音を聞くのも、今夜が最後になるかもしれない。
「私は、誰が来ようと絶対に負けない」
一人呟くユイの瞳には、静かな闘志が燃え上がっていた。
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