第23話 金魚売り
「はいよ、どちらさま?」
早朝に叩かれた木戸に返事をしたのは、ミミだった。
家にいるのはミミとユイの二人だけだったが、家の周りには桜花の張った強い結界があるので、邪気の類は家の中に入ることはできない。
すっかり安心していたミミの視界に入ったのは、背の高い好青年だった。編笠を目深に被っている。
「こんにちは、お嬢さん。私はしがない金魚売りです」
編笠から垣間見える人懐っこい笑みがきらきらと輝いて見えた。妖であるミミですら、一瞬心が揺らいだほどだ。
「金魚売り?」
少しの間を置いて、ミミは男に訊ねる。
「えぇ、あまりに金魚が売れないもんでね……こっちも生活がかかってるから、こうして一軒一軒回って買って貰えないか聞いてるんですよ」
「へえ、そうなんだ。大変だね、そりゃあ……じゃあ一匹って言いたいところだけど、生憎ここには長居する予定じゃないから金魚は飼えないんだ」
ミミは少し申し訳なさそうに断った。
「そうかい、そりゃ残念だ……おや、そこにいるのはこないだのお嬢さんじゃありませんか」
男は室内にいたユイに聞こえるように、声を張り上げた。
それに気がついたユイが視線を男に向ける。
「あぁ、あの時の金魚売りか」
ユイは男を思い出した。会ったのは、つい昨日の事だ。
「大変だな、一軒一軒訪ねて歩くのは」
ユイはミミの隣に立った。
「なんだ、ユイはこの人のこと知ってるの?」
「あぁ、昨日広場に行く途中でな」
「今日は旦那さんはいないんですね?」
金魚売りの言葉にユイは固まった。ミミは笑いをこらえるのに必死だ。
「あの男は、ただの知り合いだ!」
隣のミミを軽く睨みながら、ユイは低い声音で言った。
「へぇ、それは照れ隠しなのかな? 少なくともあのお兄さんは、あなたに思いがありそうだったけどねぇ」
男はにやりと笑い、顎に手をあてた。
「金魚売りのお兄さん、勘が鋭いねぇ」
ミミはにやにやと笑う。
「まあ、これでも客商売を長くやってるもんでね……伝わってくるものには色々と敏感なんですよ」
「私には、あいつほどの情熱はない」
「なにか、熱を傾けられない事情でも?」
金魚売りは伏し目がちなユイの顔を見つめながら問う。
「私には、先の人生がないからだ」
ユイが口にした短い答えに、ミミは真顔になって俯いた。
「それは、病気で?」
「まあ、そんなようなものだ」
「恋とはね……」
金魚売りはふっと笑った。なぜか人を引きつけるような笑みに、ミミの頬に血がのぼる。
「どんな時でも、落ちるときは一瞬で落ちるものですよ。あなたも、そうなんじゃないですか?」
「いや、私は……私の場合は、違うと思う」
「ふぅん……ではあのお兄さんが、他の女に寝取られたらどうします?」
「はあ?」
金魚売りの男の発言に素っ頓狂な声を上げたのはミミだった。
「リィがそんなことするわけないじゃん」
「たとえばの話ですよ」
笑い飛ばすミミに、金魚売りは変わらず微笑を浮かべる。
「男ってのは、本来ばらまくようにできているんでね」
「うっ……なんだか急に生々しい話になってきたな」
「……その方がいい」
ユイが呻くように言った。その声音は低すぎて苦しげに聞こえるほどだ。
「私のことなどさっさと忘れて、然るべき女と添い遂げた方がいいんだ。その方が、よほど奴の為になる」
「ユイ……」
金魚売りはくくっと喉の奥で笑った。
「そんなに泣きそうな
「ち、ちがう! 私は本当に!」
思わず視線を上げたユイの眦から、冷たいものがすっと流れ落ちた。
「相手の幸せを祈るのも、愛の形の一つってね。これを差し上げます」
笑った金魚売りがユイに差し出したのは、一匹の金魚が入った透明な袋だった。
「桃色をしている……この間見た中には、こんな色をしたのはいなかった」
ユイは袋の中でゆったりと泳ぐ、小さな金魚を見つめた。
「あなたは不思議な力を持っている。手をかざしたでしょう、あの時」
金魚売りに言われ、ユイは立ち去り際にそうしたのを思い出した。
「あっ、すまないことをした。大事な売りものなのに、こんなことをしてしまって」
「いやいや、この色になったのはこいつ一匹だけさ。だから、お嬢さんは何一つ気にしなくていい。飼えないって言うなら、あのお兄さんと一緒に川にでも流してやってくれ。じゃあな」
半ば強引に金魚をユイに渡すと、金魚売りはくるりと踵を返した。
「なんか不思議な人だったなぁ」
家の木戸を閉め、ミミはユイの手の中で泳ぐ金魚に目をやった。
「金魚、受け取ってしまった」
「うん。朝ごはんを食べ終わったら、リィと一緒に川に行ってくれば?」
ユイの頬についた筋は、既に乾いている。
ミミの言葉が耳に届いているのかいないのか。ユイは、ただぼんやりと泳ぐ金魚を見つめていたのだった。
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