第23話 金魚売り
トントンと誰かが扉を叩く。
「はあい」
それに対して無邪気に返事をし、扉を開けたのはミミだった。
ミミは土竜のアヤカシで、推定年齢は三百歳をゆうに超えている。しかし今の外見は、十三歳程の人間の少女だ。
今家にいるのはミミとユイの二人だけだった。
家の周りには桜花の張った強い結界があるので、邪気の類は家の中に入ることはできない。
「あの、どちら様ですか?」
ミミの視界に入ったのは、背の高い好青年だった。
「こんにちは、お嬢さん。私はしがない金魚売りです」
癖のある黒い短髪、人懐っこい笑みを浮かべるその黒い瞳はきらきらと輝いて見えた。
アヤカシであるミミですら、ほんの一瞬心が揺らいだほどだ。
「金魚売り?」
少しの間を置いて、ミミは男に訊ねる。
「えぇ、あまりに金魚が売れないもんでね……こっちも生活がかかってるから、こうして一軒一軒回って買って貰えないか聞いて回ってるんですよ」
金魚売りの男はにこにこと笑顔を浮かべながら言った。
「へえ、そうなんだ。大変だね、そりゃあ……じゃあ一匹って言いたいところだけど、生憎ここには長居する予定じゃないから金魚は飼えないんだ」
ミミは少し申し訳なさそうに断った。
「そうかい、そりゃ残念だ……おや、そこにいるのはこないだのお嬢さんじゃありませんか」
男は室内にいたユイに聞こえるように、声を張り上げた。
それに気がついたユイが視線を男に向ける。
「あぁ……あの時の金魚売りか……」
ユイは男のことを思い出した。つい昨日の事だ。
「大変だな、一軒一軒訪ねて歩くのは」
ユイはミミの隣に立った。
「なんだ、ユイ知ってるの? この人のこと?」
「あぁ、昨日広場に行く途中に立ち寄ったんだ」
「今日は、あのお兄さんはいないんですね?」
金魚売りがユイに聞いた。
「てっきり、お二人は夫婦なのかと思っていましたよ」
金魚売りの言葉にユイは固まった。ミミは笑いをこらえるのに必死だ。
「あの男は……ただの知り合いだ」
隣のミミを軽く睨みながら、ユイは低い声音で言った。
「へえ? それは照れ隠しなのかな? 少なくともあのお兄さんはあなたに思いがありそうな感じがしたけどねぇ」
男はにやりと笑い、顎に手をあてた。
「金魚売りのお兄さん、スルドイねぇ」
ミミがにやにやと笑い、茶化すように言う。
「まあ、これでも客商売を長くやってるもんでね……伝わってくるものには色々と敏感なんですよ」
「私には……あいつほどの情熱はない」
ボソボソとユイは言った。
「……なにか、熱を傾けられない事情でも?」
金魚売りは伏し目がちなユイの顔を見つめながら問う。
「……私には、先の人生がない」
ユイの短い答えに、ミミは真顔になって俯いた。
「それは、ご病気ですか?」
「まあ、そんなようなものだ」
「恋とはね……」
金魚売りはふっと笑った。
「どんな時でも、落ちるときは一瞬で落ちるものですよ。あなたも、そうなんじゃないですか?」
「いや、私は……私の場合は、違うと思う」
「ふぅん……ではあのお兄さんが、他の女に寝取られたらどうします?」
「はあ?」
金魚売りの男の発言に素っ頓狂な声を上げたのはミミだった。
「リィがそんなことするわけないじゃん」
「例えばの話ですよ」
笑い飛ばすミミに、金魚売りは微笑を浮かべた。
「男ってのは、本来ばらまくようにできているんでね」
「うっ……なんだか急に生々しい話になってきたな」
「……その方がいい」
ユイが呟くように言った。
「私のことなどさっさと忘れて、然るべき女と添い遂げた方がいいんだ……その方がよほど奴の為になる」
「ユイ……」
金魚売りはククッと喉の奥で笑った。
「そんなに泣きそうな表情で言われても、まったく説得力がありませんよ、お嬢さん」
「ち、ちがう、私は本当に!」
思わず視線を上げたユイの眦から、冷たいものが流れ落ちた。
「相手の幸せを祈るのも、愛の形の一つってね……これを差し上げます」
笑った金魚売りがユイに差し出したのは、一匹の金魚が入ったビニール袋だった。
「ピンク色をしている……この間見た中には、こんな色をしたのはいなかった」
ユイは袋の中でゆったりと泳ぐ小さな金魚を見つめながら言った。
「あなたは不思議な力を持っている。手をかざしたでしょう、あの時」
金魚売りに言われ、ユイは立ち去り際にそうした事を思い出した。
「あ……すまないことをした……売りものなのに、こんなことをしてしまって」
「いやいや、ピンク色になったのはこいつ一匹だけさ。だから、お嬢さんは何一つ気にしなくていい。飼えないって言うなら、あのお兄さんと一緒に川にでも流してやってくれ。じゃあな」
半ば強引に金魚をユイに渡すと、金魚売りはくるりと踵を返した。
「……なんか不思議な人だったなあ……」
その背を見送り、家の扉を閉めながらミミは呟くように言った。
「……金魚……受け取ってしまった……」
「うん。朝ごはん食べ終わったら、リィと一緒に川に行ってくれば?」
ミミの言葉が届いているのかいないのかわからないユイは、ただぼんやりと泳ぐ金魚を見つめていたのだった。
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