第18話 兄と弟

 狭く薄暗い一室で、一人の男が書面に目を通している。

 その書面は、つい先程まで目の前にいた初老の男から受け取ったものだ。

 男は、魔族特有の容姿をしていた。

 頭の左右にはねじれた角が生え、その瞳はキリキリと釣り上がり、瞳孔は紅く、角膜は金色、結膜は闇を表わすかのような黒。ゆるやかなウェーブを描く、艷やかな髪は短い。

「とうとうお呼びがかかっちまったか……」

 男はそう呟くと、手にしていた紙片を宙に放り投げた。

 それはひらひらと舞い落ち、床に着く直前に黒い炎をあげて塵となる。

「リィのやつ、なんだって急にやる気になっちまったんだかなあ」

 はあ、とため息を吐いて、男は卓上のグラスに瓶の中の液体を注いだ。

「しっかし王のガキの兄弟喧嘩に、なんで俺まで巻き込まれなきゃならんのかねぇ……」

 ぐい、とグラスをあおり、ダンっと男は乱暴にグラスを卓上に置いた。

「俺は、あいつらの半分しか血が繋がってないってのによ……ほんとに、いい迷惑だぜ」

 ぼんやりとした表情で、男は天井を見上げる。

「まあ、退屈してたところだからいいか……ふふっ」

 男の口元には、ニヤリとした笑みが刻まれていたのだった。


「ところで、お前の弟っていうのはいったいどんな奴なんだ?」

 翌朝姿を見せたリッシュに、ユイが訊ねた。

 ユウは今日も市に店を出す為に朝から外出し、桜花はユウと行動を共にしていた。

 土竜のアヤカシであるミミはユイのボディガードだが、いつの間にかその姿は消えていた。もちろん、ユイとリッシュに対し気を使ったのである。

「お前とお前の弟の考え方が似ているのなら、王位を弟に譲ってお前が弟をサポートする、という手もあるかもしれん。そうしたら、無駄に争わずに済むんじゃないか?」

 ユイはリッシュの前に、白い湯気をたてる湯呑み茶碗をことりと置いた。

「そうですね……私も、できることなら無駄な争いは避けたいところなのですが……あ、お茶ありがとうございます」

 リッシュはにこにこと笑顔を浮かべ、温かい湯呑み茶碗を手に取った。

「しかし残念ながら、私と弟はまったく似てないんです。性格も考え方も容姿も、全てが似ていない……ユイさん達とは大違いなんですよ。お二人はとても仲が良さそうで、正直私はそれがとても羨ましいです」

 はぁ、とリッシュは小さくため息を吐いた。

「そうなのか……しかしよく考えてみたら、私はお前のように穏やかな雰囲気の魔族に一度も会ったことがない。ひょっとして珍しいんじゃないのか、お前のようなやつは?」

 ユイの言葉にリッシュは一瞬体を強張らせたが、すぐに笑顔になった。

「実は、私はこの性格のお陰で『お前は本当に王の血を引いているのか』と、周りから散々言われてきたんですよ。これで私が強い魔力を持っていなかったら、間違いなく闇に葬られていたと思います」

「お前、案外苦労しているんだな」

 少し気の毒そうにユイは言った。

「まあ幸いにも、私は強い魔力を持っていましたし、なにより両親に目をかけられて育ちましたので……弟としては、それも面白くなかったようですが」

「嫉妬か……親としては、心配な子ほど気にかかる、というやつなんだろうな。その感情は、私もわからんでもない」

 ユイの言葉に、神妙な面持ちでリッシュは頷いた。

「その心配な我が子である私に、両親はとても優秀な者を教育係につけてくれたんです。その者から、王が学ぶべき学を受けているのは私だけで……こうした色んな要因があるので、弟が私をよく思わないのは仕方ないのかもしれません」

 はぁ、とリッシュは小さくため息を吐いた。

「……お前の方は、弟を疎んでいるわけではないんだな」

「えぇ。しかし、私は弟から目の敵にされてます」

 リッシュはにっこりとユイに向かって微笑みかけた。

「……それは、嫉妬しているからではないのか?」

「それも勿論ありますが、性格的な問題ですね。弟は、昔から権力というものが大好きなんです。人の上に立って、他人を見下す事に快感を覚えるタイプなんですよ。ちなみに、私の父は他人の話を聞かないタイプなんですが、弟はその面も持ち合わせています」

 しばしの沈黙の後、ユイが口を開いた。

「あれか? 魔族というのは、一族の長に虐げられるのが好きなのか? 私なら、とても耐えられんぞ」

「逆らったり不服そうな様子を見せたりすれば、すぐに処刑されますから皆従順なんですよ」

 リッシュはなんでもないことのように、さらりと言った。

「処刑か……処罰ではなくて……」

 リッシュの説明に、ユイは眉根を寄せた。

「そうです。我々魔族で言う処刑とは、肉体も魂も消されてしまう、存在そのものが無に帰すことなんです」

 リッシュは淡々とした口調で説明する。

「魂までもか……そこは、人間と違うところなんだな……より残酷に感じる」

 神妙な調子のユイの言葉に、リッシュは頷いた。

「私は、それを変えたいのです。仮に弟が王位を継げば、今のシステムもそのまま引き継がれて、何も変わらないでしょう」

「お前が、その制度を変えたいと思った理由はなんだ?」

 ユイが、真っ直ぐな視線をリッシュに向ける。

「私が変えたいと思った理由は、幼い頃に見た光景です。父に裁かれた罪人達が“死の沼”に連れて行かれるところを見たんですよ。体の自由と発言の自由とを奪われて、彼らは連行されていきました。私は、その時の彼らの瞳が忘れられないのです。彼らの瞳は、死の間際までなにかを訴えていました」

 ユイの瞳を見つめ返しながら、リッシュは真剣な面持ちで言った。

「命の重さは、王であれ民であれ同じだというのに、私達は相手の命を自分の意のままにできてしまう……私は、民の声を聞き、平等で公正な裁きがおこわなれるようにしたいんです」

「そうか……そこが、お前の目指す場所か」

 微かに笑みを浮かべ、ユイは言った。

「それなら、弟と協力してというのは無理そうだな。ところで、他に敵に回りそうな奴はいるのか?」

 ユイに言われ、リッシュはハッとした。

「いますね……弟より面倒なのが、昨日姿を見せた私の婚約者です。見てわかる通り、権力欲と暴力の権化みたいな女性ですよ」

「あぁ、あの失礼な女か」

 昨日のルイザとのやり取りを思い出し、ユイは表情を曇らせた。

「はい、私はよく頬を引っ叩かれました」

 自嘲気味に笑うリッシュに、ユイは呆れたような視線を送る。

「それは、お前に非があってのことか? お前が、浮気したとか?」

「いえ、浮気しているのは彼女の方ですね……私の弟を含めて、現在は五人位相手がいます」

 にこやかに、リッシュはユイの問に答えた。

「ご、五人だと!」

 ユイはしかめっ面になって叫んだ。

「えっと……そ、それは、魔族では普通のことなのか?」

「いいえ、けして普通ではありません。そういったことを、だらしないと嫌う者もいますよ。まあ、私もその内の一人ですけれどね……それとは別の話ですが、王位継承権を持つ者は王位を継ぐまで異性との交わりを禁じられているんです。もしその制度がなければ、私などとっくに彼女の餌食になっているでしょうね」

 リッシュはぞっとしたような表情で言った。

「それは少し気の毒に思えるが……しかし、婚約者ならいずれ妻になって権力を握ることができるということか」

「まあそれが彼女の狙いですが、そこは私が王位を継いで、制度を変えてしまえばどうってことはありません」

 リッシュは言い、にっこりとユイに微笑みかけた。

「そうか、それを聞いて安心した。お前には、優しくて、影から支えてくれるような女が似合うと思う」

「はい、私もそう思います!」

 ユイの言葉に、リッシュは声を大にして言った。

「ユイさん、私のお嫁さんになりませんか!」

「……なれないだろう……どう考えても」

 はあ、と大きなため息を吐いてユイは天を仰いだ。

「私には、あと一週間しかない」

「手は考えてあります」

 リッシュは食い下がるように言った。

「手だと? いったい今さらなにができると言うんだ?」

 ユイは怪訝そうにリッシュを見る。

「龍の瞳になった後の、あなたの魂を別の器に移すんです。大丈夫です、既に準備は整っていますから」

「整ってるって……」

 リッシュの言葉に、ユイは絶句した。

「あなたの髪の毛が一本あれば、我々はあなたの肉体を再現することができるんです」

「な、なんだと……」

「今はまだ、お見せできませんが……」

 ふふ、とリッシュは微笑んだ。

「お前……私の髪の毛を……いつの間に……」

 ユイの面に、微かな嫌悪感が浮かぶ。その様にリッシュはしまったと口元を抑えたが、もう遅かった。

「す、すみません……初めて会った時に、なにかの役に立つかもと思って、一本だけ……」

「初めて会った時?」

 言われ、ユイは思い出した。

「そういえば、転ばされたんだったな……十回も」

「す、すみません」

 背の高いリッシュは、すまなさそうにギュッと身を縮めた。

「……もういい……それより、お前はちゃんと同族の優しい女を探せ」

 ふいっと横を向き、ユイは言った。

「嫌です」

 リッシュは間髪を入れず、それを拒否した。

「……即答するなよ……」

 真面目な顔で見つめてくるリッシュにユイは苛立ち、頬を引きつらせたのだった。

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