第16話 顕現
日が落ちて、辺りはすっかり薄暗くなっている。
男がユウを案内した町外れの古寺は、薄暗い上に奇妙な気配に満ちていた。
「ほら見ろ、あれだ」
震える人差し指で、男は古寺を指差した。その表情は、恐怖の為か強張っている。
言われ、ユウは十段程の石段の先にある境内を見た。
男の言う通り、人外の者の気配がそこに満ちているのは、遠目からでもわかる。
「……やっぱり、こここらじゃ遠いか……」
はぁ、とユウはため息を吐き、隣の大柄な男を見上げた。
「お前はここにいろよ。おれでなんとかできるかどうか、もう少し近くで見てくるから」
「わ、わかった」
ユウの言葉に、男は素直に頷いた。
傷んだ石段を一歩登るたびに、怪しげな気配は濃くなる。だがそれは、ユウが足を止めるほどのものではなかった。
「とにかく、相手の力量を判断しなきゃな……」
もし本当に町の人々に害が及ぶような相手なら、桜花に頼んででも祓う。ユウは、そう決めていた。
「人魂が飛んでる……あの兄ちゃんの言ってた通りだな」
さして広くない古寺の境内には、薄ぼんやりと光る人魂がいくつも浮遊していた。薄暗い夜闇の中のそれらは、一見すると幻想的に見えないこともない。
「人魂の数は、十個くらいかな……」
ユウは呟きながら、腰に提げた仕込み杖を地に着けた。そして、柄に嵌め込まれている水晶球を両手で包み、意識を集中させる。
奥にある本殿に、この人魂を発生させている原因がある。そう踏んだユウは、土の精霊づてにその情報を得ようとしていた。
「獣……」
杖を通してユウの脳内に伝わってきたイメージは、豊かな体毛を逆立てた、まるで大型犬のような野獣の姿だった。
ミミもそうだが、長生きした野生の獣は時にアヤカシとなる。
ミミはユウがよく出入りしていた鉱山で倒れていたところを、ユウが助けたのだ。ミミは、それに恩義を感じて、今までユウ達と行動を共にしている。
「こいつもその類か……」
石段から一歩でも足を踏み入れれば、相手の領域に侵入することになる。
おそらく、桜花はすぐに戻ってくるはずだ。それに、この相手から漂う妖気は手に負えないというほどでもない。
「できれば、向こうの命は奪いたくないな」
ユウは、ミミの屈託のない笑顔を思い浮かべ、そっと境内に足を踏み入れた。
ひた、と地に足をつけると同時に、ユウは杖の先端を地面にめり込ませる。
朽ちた木材の本殿から、金色に光る双方がユウを捉えた。
来る!
ユウは水晶球に手を当て、地中の精霊にイメージを送った。
即座に地面から砂塵が巻き上がり、本殿の中心からユウに向けて放たれた、まるで暴風の様な妖気を遮断する。
砂塵はそのままユウの足元から本殿へと、一直線状に巻き上がっていった。そして本殿の床下、丁度アヤカシがいるあたりの床を突き破る。
大量の土煙が本殿の中に充満し、さらに土の礫がアヤカシを襲った。
「狸か」
礫に追われ、古寺の外にでたアヤカシの姿を、ユウは捉える。
大型犬程の大きさをしているが、その様は狸に違いない。
狸のアヤカシが外に出た瞬間、土の檻がその自由を奪った。
すっかり混乱した狸のアヤカシは、狂った様に檻に噛みつくが、それはびくともしない。
「おれにできるのは、ここまでなんだよな……桜花みたいに結界は張れない」
ホッとため息を吐いたユウは、背後に気配を感じ取り、すぐさま身をかがめた。
次の瞬間、ブンッと音を立ててユウの頭すれすれを、棍棒が通り過ぎる。
「誰だっ」
仕込み杖を手に体制を整えながら、ユウは襲いかかってきた相手を振り返る。
「聞いてたのと、違うじゃねぇか……」
ゆらりと大きな体を揺らし、地についた棍棒を握り直したのは、ユウにバケモノ退治を依頼してきた男だった。
「……やっぱり、罠だったか……」
はあ、とユウは大きくため息を吐いた。
「おかしいと思ったんだよな……おれみたいなガキを頼るなんてさ」
ユウは少し憐れむような目で男を見、手の中の仕込み杖を握りしめた。
「誰に頼まれた? どうせ、そこらへんの生臭坊主とかだろ……うちの姉ちゃん、有名人だからな」
「龍の瞳さえあれば、オレらは幸せになれるんだ! よこせ!」
男は血走った眼を瞠り、叫んだ。
「アホか、やれるわけねぇだろが! 帰ってお前のボスに伝えろよ! 欲しけりゃ、自分で取りにきやがれってな!」
「いいからよこせ!」
男は棍棒を振りかぶり、ユウめがけて振り下ろす。
それをぎりぎりで躱して、ユウは男の首筋に手刀を叩き込んだ。
ドスン、と男の大きな体が地面に転がる。
ピクリとも動かない男を見つめ、ユウは再びため息を吐いた。
「見事ですねぇ」
と、突然、どこか嘲笑うかのような初老の男の声が響き渡る。
ざわ、とユウの体中の細胞がざわめいた。
「……お前か、黒幕は……」
ユウは石段をゆっくりと登ってくる気配を睨みつける。
その声音を聞くのは初めてだったが、感じる気配はユウの知っているものだった。
「……また器を変えて来やがったのか……」
ユウは間合いを取りながら、次第に石段から姿を現す男を見つめる。
「お久しぶり……三年ぶりでしたか……」
呟くように言いながら姿を見せたのは、ユウより頭一つ小さい、小柄な男だった。長い白髪を半分頭上で丸め、長く伸ばした顎髭も白い。
黒い瞳をニイッと歪ませ、男はユウを見た。
「体術もあの頃より上達したようですねぇ……その男を地面に転がすなんて芸当、あの頃のあなたにはできなかったはずですよ」
「そりゃあ、三年もお前らみたいなのとやり合ってたら、腕も上がるだろうよ」
仕込み杖を地に押しあてながら、ユウは男を睨んだ。
「依苦」
“よく”とユウに呼ばれた男はニヤニヤと笑った。
「あと一週間もすれば、龍の瞳は完成する……その後でお前から奪ってしまえばことは早いが、あの緑王の小娘がいる限り、それは難しい……だが、チャンスは訪れた! 今、あの女はいない」
かっと依苦は細い瞳を見開いた。その瞳は、黒から白に変わっている。
「お前の力では、ワシは退けられんぞ……わかっておるだろうがな!」
言うが早いか、依苦の体がユウめがけて宙を駆ける。
土の精霊を使うユウに、体の自由を奪わせないようにする為だ。
「……チッ、やりにくいなあっ!」
ユウは内心、どうしたら良いか迷っていた。
土の精霊に命じて土埃や石礫で煙幕を張るにも、それは通用しない。相手は人間ではなく、人間に取り憑いている妖魔だ。しかも、今までユウは三回も依苦と対戦している。
依苦は、手にしていた錫杖をユウに繰り出した。
ユウはそれを杖で払いながら、避け続けるしかなかった。杖に仕込まれた剣を抜けば、無関係の人間の体を傷つけてしまう。
「甘いねぇ、そこは何年経っても相変わらずだ」
ユウが器である人間を傷つけることを選ばないのを、依苦は知り尽くしていた。
「くそっ!」
どん、とユウの背が木の幹に当たる。
しまった、と顔色を変えるユウの手から、杖が吹き飛んだ。その瞬間、錫杖の先端がユウのみぞおちに食い込む。
激しい吐き気を覚えるのと同時に、ユウの意識が白く霞んだ。
(代われ……ユウ)
白から黒に変わる意識の奥底から、聞き覚えのない男の声がする。
それが誰のものなのか、考えている間もなくユウの意識は遠のいた。
「あの緑王さえいなければ、簡単なんだよ」
にっこりと笑顔を浮かべながら、依苦は地に足を着け、ユウの細い首を掴んだ。
依苦に掴まれたユウの体は、力なくだらりとしている。
「さて、この餌で龍の瞳を釣るか……ん? なんだ、この蔓草……」
依苦は微かに眉根を寄せた。
いつから絡まっていたのか、足や腕に蔓草が絡まっている。よく見れば、そこには無数の小さく鋭い棘が生えていた。
「……この蔓草……どこから」
ざわり、依苦の肌に鳥肌が立つ。
その原因は、意識を失っているはずのユウだ。棘のある蔓草は、ユウの体から、まるで自生しているかのようにするすると伸びているのだ。
「なんだ……」
冷たい汗をかき始めた依苦は、しかしユウの体を離さなかった。否、正確には離したくても離せなかったのである。
「……貴様……誰だ」
もはや体の自由がきかない依苦が、掠れた声でユウに問いかけた。
その髪色は、いつの間にか黒から深緑色に変わっている。
依苦の手首に、そっとユウの手が添えられ、その明るい黄緑色の瞳が依苦の瞳を覗き込んだ。
「り、緑王……なぜ」
依苦が顔色を失った。
深緑色の髪と明るい黄緑色の瞳が、緑王と呼ばれる妖魔の王族の特徴であることを、依苦は知っていた。
「……完成体に近づいてるのが、龍の瞳だけだと思うなよ」
そこはかとなく妖艶さが漂う笑みを浮かべ、ユウは低い声音で言った。
「くそっ、こんな体いらんっ!」
依苦が叫ぶと、その体は意識を失って倒れた。依代の男の体を捨てたのである。
ユウは、その行き先を目で追った。
「なんだあれは、くそっ、仕切り直しだ……あっ!」
依苦は、ぴたりと動きを止めた。その顔色は真っ青だ。
腕を組んだ桜花が、視界に入ったからである。
「私のいない間に、よくも好き放題してくれたな」
苛立ちを微塵も隠さずに、桜花は低い声音で言った。その全身から、怒りを表すかのように、鮮やかな赤紫色のオーラが滲み出ている。
「し、しまった……」
突如姿を現した桜花に対し、依苦は背を向けた。
その直後、ぐしゃりと音をたてて、その体の中心を太い木の幹が貫く。
「今は本体だけだからな、仕留めるのにちょうどいいわ」
桜花はニヤリと口元に笑みを浮かべた。
「た、助けっ」
「この私が、三回も逃してやったというのに、性懲りもなくまた来おって……そんなお前を助けるわけがなかろう?」
依苦の体を貫いた木の幹からさらに枝が伸び、依苦の体全体の肉を割いていく。
「くそ……あの妙な緑王さえいなければぁ!」
依苦は苦痛に顔を歪めて叫んだ。
「……そうだな、お前の行動を褒めるとすれば、その一点だけだ……ヨク」
桜花はふわりと柔らかく微笑んだ。
その美しさに、死の間際の依苦さえも一瞬引き込まれた。
だが、すぐに依苦の体は塵となって風に攫われていく。依苦の体を貫いていた太い幹も、同様に消えていた。
桜花はそれを見届け、眼下を見る。
そこには、本来の桜花と同じ髪と瞳の色をしたユウが立っていた。
桜花は、そのすぐ近くの地にとん、と足を着ける。
「薇博……」
桜花は大切そうに、男に向かって“びはく”と呼んだ。
「桜花姫……あんたは、いつ見てもきれいだな」
薇博は言い、眩しそうに目を細めて桜花を見つめる。
「……ユウは、どうしている?」
桜花は少し緊張した声で薇博に聞いた。
「心配するな、すぐに戻るさ……今は、な」
「やはり……そういうことか」
桜花は額を曇らせた。
「龍の瞳が完成体に近づくほど、俺の魂も完成に近づいてしまうようだ」
桜花の抱いている不安を、薇博は理解している。
「俺とて、ユウの未来を奪いたくはない。方法としては、俺の魂だけをこの肉体から分離することだが……」
「それができるかもしれない、あの男なら」
かつて桜花と龍神との間を取り持った、金髪碧眼の男神の姿を桜花は思い浮かべた。
「おそらく、向こうから来るだろうがな」
「そうなのか?」
桜花の言葉に、薇博は首を傾げた。
「こういう滅多にない行事が好きなようだからな、あの男は……この間も、姿を見せていたし」
もっとも、前回はリッシュに頼まれてユイに会いに来たのだが。
「そうか……ならば、そう悲観しなくても良いんじゃないか、桜花?」
「悲観?」
薇博に言われ、桜花はハッとする。
「……浮かない表情をしていること、自覚してないのか」
思わず、薇博は苦笑する。
「気になるか? ユウの事が?」
じっと桜花の黒い瞳を見つめ、薇博は真顔で問いかけた。
「……私が思いを寄せているのは、お前だけだ」
その瞳を強い光をもって見つめ返し、桜花も真顔で答える。
その様に、薇博はふっと笑った。
「……わかりやすいな、桜花姫は……」
「姫と呼ぶなと言っただろう!」
桜花は頬を赤く染めて叫ぶ。
「異性としてではなくても、気になるなら気になるで良いじゃないか……俺は、そんなこと少しも気にしない」
言いながら、薇博は桜花に近づきその頬にそっと触れた。
「……今のユウの体は、桜花より小さいんだったな」
「……すぐに、私の背など追い越すさ……成長期だからな、ユウは」
薇博の手にそっと手を重ねて、桜花は目を伏せる。
「……そろそろユウと交代しよう……またな、桜花」
薇博が笑顔を浮かべると、その体ががくんと落ちる。桜花は、それを優しく抱き抱えた。
「早く帰らないと、ユイ達が心配しているぞ、ユウ……」
黒髪に戻り、すやすやと寝息をたてるユウに、桜花は優しく微笑みかけたのだった。
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