第12話 瞳に映る美しさ
むせ返るほどに濃い緑の空気が、その世界には広がっている。
人は足を踏み入れることができない、森の奥深く。
妖魔の“緑王”と呼ばれる一族の住処だ。
彼らは深緑色の髪をし、明るい黄緑色の瞳をしている。
「あ、桜花姉」
人でいえば十五歳位に見える少年が声をあげた。
深緑色の短いくせっ毛があちこち飛び跳ね、黄緑色の瞳は丸くて大きい。可愛らしい印象だ。
その両手には、蛙が握られている。
「芳葛、頼みがある」
ほうか、と呼ばれた少年は、突然姿を見せた桜花に向かってにっこりと笑いかけた。
「いいよ。ちょうど退屈してたところだから。それのこと?」
芳葛は桜花の手の中にある長い髪の毛の束を見た。そして、両手に掴んでいた蛙を腰に提げた小さな網籠の中に入れる。
「そうだ。悪いが時間がなくてな、特急で頼みたい」
桜花は持っていた髪の毛の束を芳葛に渡しながら言った。
「そうなんだ、大丈夫だよ。翠葛も僕みたいに退屈してるから、二人でやれる。ところで、これ何?」
受け取った髪の毛の匂いをくんくんと嗅ぎながら、芳葛は訊ねた。
「“龍の瞳”の殻だ」
「あぁ、桜花姉が守護してる、あの人間のか。なんでまた、僕に依頼を?」
言いながら、芳葛は髪の毛を舐めるように眺めまわす。
「高位の魔族に襲われる可能性が高くなったから、その対策の一つだ」
「高位の魔族?」
芳葛は首を傾げた。
「魔族の王位継承権争いに巻き込まれているのだ……まったく、面倒でいい迷惑だ」
はあ、と桜花は大きくため息を吐いた。
「ふぅん……魔族って、僕らのとことはシステムが違うんだね。で、これをどう使いたいの?」
「魔族が使う力を、善の気に変えたい」
桜花の答えに、ほんの一瞬だけ芳葛は考え込んだ。
「フィルム化、パウダー化、液体化……うーん、液体が一番応用がきくかな?」
「形状は任せる。使うのは人間の娘だ。それと、それの永久使用権の許可を得ているから、好きにしていいぞ」
「えっ、本当に!」
桜花の言葉に、芳葛はぱあっと表情を輝かせた。
「やった、新しいコレクションが増えたぞ! しかも、相当レアだ!」
「出来上がりまで、どのくらいかかりそうだ?」
キャッキャとはしゃぐ芳葛に、桜花は無表情で訊ねた。
「んー……半日かからないかな?」
「そうか、ならばその頃にまた来る。頼んだぞ、芳葛」
「了解、ありがとう桜花姉! わあい、さっそく遊ぶぞぉ!」
好奇心に瞳をきらきらと輝かせ、芳葛はサッと姿を消した。
それを見届けると、桜花もその場から姿を消す。
吹き渡る強い風が、あたりの緑を激しく揺さぶり、通り過ぎて行った。
「ちっ……本当だったか」
密偵を命じた使いからの報告に、ゼダは苛立ちの表情を浮かべた。
魔王の棲む城内の、ゼダの私室である。
「急にやる気になりやがって……あの腰抜けめが」
ゼダは低い声で呟き、細やかで美しい彫り細工が施された金色の肘掛けをぎゅうっと握りしめた。
「面倒だが、奴を使う機会がきた。おい、お前は引き続き兄上を見張れ。絶対にバレないようにしろよ。いいな」
「はっ」
主の命に、密偵役の使いの男は深々と頭を下げ、すぐに姿を消した。
ゼダは側仕えの男に紙とペンを持って来させると、さらさらと文をしたためる。
「これを、あいつのところへ持っていけ」
「かしこまりました」
側仕えの初老の男はゼダから手紙を受け取り、それをくるくると丸めた。
ゼダは丸められた手紙に手をかざす。
ボウッと音を立てて、黒い炎が手紙を包んだ。
その手紙がゼダ本人からのものであることを、証明する為だ。
手紙は炎に包まれても少しも燃えず、やがて炎は消える。初老の男は、すぐにそれを書筒にしまい込んだ。
「おい、ジークの動きはどうなってる?」
ゼダは別の使いに問いを向けた。
兄であるリッシュに密偵を差し向けたと同時に、ゼダはその教育係であるジークの動きも監視するようにと、別の使いに命じていた。
「はっ、特段目立った動きは見られません」
ジークの監視役を命じられた使いが、畏まりながら主の問に答える。
「そうか……兄上が本気になったなら、あの男だってなにかしら動くに違いない」
ぎり、とゼダは下唇を噛んだ。
ジークの生家が、王の教育係や秘書係だけではなく、隠密業をも担っていることをゼダは知っている。
もう既に、裏では兄リッシュが王位につく前提の根回しをしているだろう。
「まあ、いい」
ふっ、と笑ってゼダはサイドテーブルのグラスに手を伸ばした。そこには朱色の液体が注がれている。
「兄上が課題に失敗すれば、それを根こそぎこちらにつけられる。ジークも、ジークが根回ししたコネも、全てな」
ゼダは呟き、グラスをあおった。
その面には、自分の勝利を信じて疑わない笑みが浮かんでいたのだった。
ユウは市場への出店契約を五日間結んでいた。
その為、ユウは朝食を終え一息つくと外出の準備を始める。
「はい、お昼ごはん」
ミミがユイの握ったにぎり飯を包み、ユウに手渡した。
「ん? どうかしたか、ユウ?」
受け取るユウの表情が少し固いのに気がつき、ミミは訊ねた。
「おれがでかけたら、あいつ、ここに来るんだろ?」
低い声音で、ユウはミミに訊ねた。
「えっ……あぁ、それはどうかなあ……おいら、リィからなにも聞いてないからなぁ」
ミミは微妙な笑みを浮かべてごまかす。
「もしあいつが来たら……ちゃんと姉ちゃんを守っとけって、伝えておいてくれ……じゃあ、行ってくる」
意外なユウの言葉に、ミミはぽかんと口を開けた。
「あ、あぁ、行ってらっしゃい!」
既に閉められた戸に向かって、ミミは叫んだ。
「ユウさん……私のこと、やっと認めてくれたんですね……」
ミミが後ろを振り返ると、そこには感動しきりな表情のリッシュがいた。
「いや、それはどうかなあ? 今は桜花がいないからってのが大きいと思うけどな……」
ミミは苦笑しながら、リッシュに言った。
「確かに桜花さんはいませんが、彼女の結界はとても強いので安心です。高位の魔族といえども、この家に侵入するのは容易いことではありません」
「……リィは、簡単に侵入してるけどな」
「簡単にと言いますが、私の張る結界と彼女の張る結界は種類が違うので、穴を開けて塞ぐのは少し手間なんですよ」
リッシュはミミに自分の苦労を訴えた。
「そうなの? おいらにゃ、よくわかんないけど……あ、お茶飲む?」
「はい、ありがとうございます」
ミミからの申し出に、リッシュは笑顔を浮かべた。
「あいよ」
ミミは頷き、いそいそと台所に向かう。
「なにをしてるんですか、ユイさん?」
何やら手仕事をしているユイに近づき、リッシュは訊ねた。
「紐を編んでる……やることもなくて暇だが、散歩もできんからな」
リッシュの方を見もせずに、ユイは手を動かし続ける。
「紐、ですか? いったい何のために編んでいるんですか?」
リッシュはユイの手元を覗き込みならがら訊ねた。
「この紐は、ユウが市場で売るお守りの紐になるんだ」
ほら、とユイは完成品のお守りをリッシュに示した。
それは薄い青紫色の紐に、透明な石が編み込まれたものだった。
「なるほど……この紐は、人の手が作り出しているものなんですね」
ユイから受け取ったお守りをしげしげと見つめながら、リッシュは言った。
「ユイさんは、指先が器用なんですね」
にっこりと笑ってリッシュは言った。
「小さい頃から仕込まれているからな、できて当たり前だ」
ユイは少しぶっきらぼうに言った。
「はい、お茶はいったよ」
ミミが盆に湯のみ茶碗を三つ乗せ、台所から運んでくる。
「ありがとう、ミミ」
ユイは礼を言いながらミミに視線を向けるが、どこかずれた一点でそれを止めた。その表情は固いものだ。
「……まさか……」
リッシュは小さな声で呟いて立ち上がり、その気配と対峙するかのように立つ。ユイ同様、その表情は固かった。
「ん? どうした、リィ? なにか……」
言いかけ、ミミはハッとした。
背後の地中から、ヌッと人影が現れたからだ。
「ふぅん……随分面白いものを飼ってるじゃないか……獣のアヤカシとはねぇ」
恐る恐る、ミミは後ろを振り返る。
その瞳に映ったのは、全身から妖艶さを滲ませる、背の高い魔族の女だった。
その面には、色香と残忍さが混じり合ったものが浮かんでいる。
ミミの背中に、冷たい汗が流れた。
リッシュと同等クラスの魔族だ。敵意を感じないものの、その力を隠そうとしていない為か、ミミの体がビリビリと痛む。
いつの間にかミミの真横にいたリッシュが、ミミを守るかのようにバッと腕を広げた。
その瞬間、ミミの体から痛みが消える。
ミミはホッとして額の汗を拭った。
「ターゲットの飼い犬まで面倒をみてやるとは……リィ、お前はどこまでお人好しなんだ」
女はリッシュを嘲け笑った。
「ルイザ、少しは気を使うことを覚えたらどうですか? それでは、王の妻を志しているとは到底思えませんよ」
「王の妻……ってことは、リィの婚約者か」
ミミは口の中で呟いた。
「いったい何をしにきたんですか? まさか、私に頑張れと励ましの言葉を送っておきながら、私の邪魔をしに来たわけじゃありませんよね?」
そうルイザに問うリッシュの口調には、どこか棘がある。
「まさか、そんなことをするわけがなかろう。今日は、単なる興味本位の見学だ。今まで散々逃げてきたお前を、やる気にさせた今回のターゲットがどんな人間なのか、気になるじゃないか」
卑下た薄ら笑いを浮かべながら、ルイザは視線をユイに移した。
ユイは畳に正座したまま、ジッとルイザを見つめている。
「ほう、報告通りの娘だな」
目を細めて言い、ルイザは唇の端を持ち上げた。
「幻獣に呪い殺される、哀れで醜い娘だ」
ルイザのその様を見たリッシュは、くつくつと笑う。
「なにが可笑しい?」
リッシュの笑い声に、ルイザの表情が途端に不愉快なものになる。
「可笑しいですよ。だって、心の歪んでいるあなたに、ユイさんの美しさがわかるはずがないじゃないですか」
「なんだと?」
ルイザのこめかみに、ピクリと青筋が浮かんだ。
「呪いにまみれ、真っ黒なその娘の、どこが美しいと言うんだ!」
ルイザはユイに冷笑を向けながら叫んだ。
「その女の言う通りだ。私は醜い」
張り詰めた空気の中、ユイは静かな声音で言った。
「ユイさん……」
リッシュは眉根を寄せ、ユイを振り返る。
「だが、それがどうした。どんなに醜かろうが、私は私だ。私のことを知ろうともしないお前から、侮辱を受ける筋合いはない」
ルイザを見つめ返し、それに、とユイは続ける。
「ミミは私の大事な友人だ。飼い犬などと馬鹿にするのは、私が許さん」
「ユイ……」
ミミはユイをジッと見つめ、その言葉に瞳を潤ませた。
「ふん、鼻っ柱だけは強いらしいな」
ルイザが吐き捨てるように言った。
「そう、ユイさんは強いんです。あなたの持つ強さには、嫌悪感しか湧きませんが……彼女の強さには、私は癒やされ、励まされるんです。私も、負けてはいられないと」
柔らかな笑みを浮かべ、リッシュはルイザを見る。
「リィ……貴様、なんだその表情は……」
ルイザは再び不愉快そうな表情を浮かべ、唸るように言った。
「ルイザ、もう充分ユイさんの良さを理解できたでしょう? でしたら、一刻も早く帰ってください。私の邪魔ですから」
リッシュはにっこりと笑ってルイザに言った。
「なんだと?」
「これ以上、私がユイさんと過ごせる貴重な時間を奪うと言うのなら、あなたには強制退去してもらいますよ」
言われ、ルイザは足元の異変に気がついた。まるで底なし沼に沈むかのように、ゆっくりと地中に沈み始めている。
「いいか、いずれ私が権力を握るんだ。たとえお前が王になったところで、お前など私を引き立てる飾りに過ぎない! それを忘れるな!」
怒りを露わにしたルイザは叫ぶと、フッと姿を消した。
途端に、場の空気が軽くなる。
「はぁ、苦しかったあ……リィの婚約者、流石だなあ」
ミミは手にしたままだった盆を畳に置き、ぐったりと肩を落とした。
「大丈夫ですか、ミミさん」
そんなミミの顔を、リッシュが心配そうに覗き込む。
「うん、おいらは大丈夫だ」
ミミは言い、力なくリッシュに笑って見せた。
「それより、ユイは大丈夫か?」
ミミが視線をユイに向けると、ユイは俯き自分の肩を抱いてギリリと爪を立てていた。
「いかん、ユイ……」
「ユイさん」
顔色を失ったミミとリッシュが、同時にユイに駆け寄ろうとする。
「大丈夫だ……心配ない」
それを手で制して、ユイは低く呟いた。
それでも、リッシュは無言でユイに近づき、静かにその真正面に座った。
「ユイさん……あなたは、醜くなんてありません」
眼の前で俯いたままのユイに、リッシュは囁くように言った。
「……これを見ろ」
ユイは感情を押し殺したような声で言うと、指先まである長い服の袖を肩まで引き上げ、それをリッシュの目の前に突きつけた。
「ユイ……」
ミミは呟き、サッと目を背ける。
ユイがリッシュに示した腕には、黒いなにかがまるで生き物のように渦巻いていた。本来の肌色をしているのは、その指先だけだ。
リッシュは、それをじっと見つめる。
「これでも……醜くないと言うのか」
「はい」
即答するリッシュを、ユイはきりりと睨みつけた。
「嘘をつくな……私が、ターゲットだからか……私を落とすために、嘘をつくのか、お前はっ!」
「……違いますよ」
リッシュは柔らかい笑みをユイに向けた。
「あなたの肌の色が何色だろうと、私の目に映るあなたは美しいんです」
「そんなわけないっ!」
叫ぶユイの体を、リッシュはおもむろに抱き寄せた。
「……なんの真似だ……」
リッシュの腕の中で、ユイが低く呟く。
「痛むんですよ、私の胸が……あなたの叫び声を聞くと、たまらなく胸が痛む」
言い、リッシュはユイを抱く腕に力を込め目を伏せた。
「あなたがあなたを愛せないというのなら、私があなたを愛します。だから、自分で自分を傷つけるのは、もうやめてください」
ユイの耳元で、リッシュは懇願するように囁く。
「……リィ」
ミミは二人の姿を見つめたまま動けなかった。
「……わかった……わかったから、もう離せ」
ユイの言葉に、リッシュはゆっくりと腕の力を緩める。すぐさまユイは、くるりとリッシュに背を向けた。
「ユイさん?」
リッシュは心配そうにユイの背に声をかける。
「すまない……少しの間でいい、ミミと二人だけにしてくれないか……頼む」
言うユイのか細い声が、微かに震えていた。
「……わかりました」
リッシュは俯き、小さくため息を吐くとすぐにその場から姿を消す。
その瞬間、ユイは大きく息を吐き出した。
「まったく……あの男、心臓に悪い」
呟き、思わずユイは左胸の辺りを抑えた。
「ユイ、大丈夫か?」
ミミはそうっと後ろからユイに近づき、その顔を覗き込んだ。
「あぁ、良かった。思ったより顔色悪くねぇや……いや、むしろ」
プッとミミは吹き出した。
「な、なんで笑うんだミミ!」
バッとミミを振り返り、ユイが叫ぶ。
「いや、だって、ユイのそんな顔見たの、初めてだったから」
込み上げてくる笑いを抑えきれないミミが、目もとを拭いながら言った。
「あ、あいつが悪いんだ……くそ、なんだかあいつに負けた気分だ!」
「ユイ、なにを言ったところで、体は正直だぞ」
ミミが意地の悪い視線をユイに向ける。
「だまれ、あいつには言うな、絶対だぞ!」
頬を赤らめたユイの言葉には、どんなに乱暴な言葉もまったく凄みがない。
「はいはい、わかりましたよぉ。大事な友達の頼みだからねぇ」
ミミは言い、にこにこと笑った。
ユイはふくれっ面で、冷めたお茶を口に運ぶ。
「あ、お茶淹れ直すか……変な邪魔が入ったけど、結果良しだったから、まっいいか」
湯のみ茶碗の載った盆を手にしながら、ミミは嬉しそうに微笑んだのだった。
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