第9話 前を向くために
その日の深夜、リッシュは教育係のジークを呼び出した。
闇夜の中を、出歩く人の姿はない。
そんな中ではあったが、リッシュは自分の周囲に結界を張っていた。
誰の目にもつかないように。そして、誰の耳にも声が届かないように。
その対象は人間だけではなく、リッシュの婚約者であるルイザや弟のゼダも含まれていた。
やがてリッシュの命に応じ、教育係のジークが姿を現す。
その姿を見るやいなや、リッシュはぱっと表情を輝かせた。
「ジーク、私は決めたんだ! 今度こそ、課題を達成してみせるって!」
「ほぅ、それは良い心がけですね、と言いたいところですが……」
ジークは特に喜びも驚きもせず、落ち着いた声音で言った。
「こう何度も聞かされていると、なかなか信用できません」
ハッキリと言い切ったジークの言葉に、リッシュはうっと言葉を詰まらせた。
「こっ、今回は本気なんだよ! ユイさんと話をして、これから自分がどうしていきたいか、ちゃんと決めたんだから!」
「ユイというのは、今回のターゲットの名前ですね。その者と話をして決めたとは、いったいどういうことですか?」
鋭い口調で、ジークは問う。その表情は少し険しいものだった。
「ターゲットとは話をするなって何度もお前に言われていたけど……私は、どうしてもあの人と話をしたかったんだ」
リッシュは真剣な面持ちで、ジークに言った。
「それはなぜですか?」
「あの人の生き方を、見習いたいと思ったからだよ」
「生き方を……」
ジークは呟き、ユイの素性を思い出していた。
リッシュの課題対象となる人物を事前に調査するのもジークの仕事の一つだ。
「あの人のように強くなるんだ、私も」
リッシュが向けてくる強い眼差しに、ジークは押し黙った。
「私は、王位を継いで今の色々な制度を変えるつもりだよ」
「それは……本気なのですか?」
ジークは少し驚いたように問を口にした。
「今まで、リッシュ様からそのようなお考えを聞いたことはありません」
「うん……今まで、自分の責任から逃げていたからね。だけど、逃げたくない自分の気持ちにも目を向けてみたんだ。ユイさんに、そうするように言われて」
「……なるほど」
ジークはなんとなく事情を察した。
「私はね、幼い頃に見た光景が忘れられないんだよ」
どこか遠いところを見るような瞳で、リッシュは夜空を見上げた。
「手を縄で縛られ、口に枷をつけられて……それでも彼らは懸命になにかを訴えていた……あの必死な目で……」
「それは、罪人達の事ですね」
「うん、そうだよ……私は怖くなって逃げ出した。それでも、自分がどこまでも追いかけられて、責められるような気がして……怖くて仕方なかった」
はあ、とリッシュは大きなため息を吐いた。
「父上は、なぜ平気なのだろう? なぜ、罪人の……人々の話を聞かないのだろう? ……昔、私は聞いてみたのだけど、父上は笑って『これはお前の為でもある。お前も王になればわかる』と言ったんだ」
リッシュは言い、ジークに寂しげな笑みを向けた。
「私は、平気ではいられないと思った。平気になんて、なりたくもなかった。だから逃げようとした……そうしたら、ユイさんが言ったんだ」
リッシュは脳裏に、その時のユイの表情を思い浮かべた。
「お前が王になって、変えればいいって……失敗してもいい、そこで立ち止まらずに進みさえすればって……私はハッとしたよ。今まで、そんな事考えもしなかったからね。逃げる事に夢中だったから」
リッシュは自嘲気味な笑みを浮かべる。
「そういうわけなんだよ。これで信じてもらえたかな、ジーク?」
「えぇ、よくわかりました」
ジークは言い、口元に笑みを浮かべた。
「そういうことでしたら、私は力を尽くしてリッシュ様に協力致します。現在の制度を変えるには、下準備をしっかりと整えることが重要です。まずは人脈を広げ、その関係を強固なものにすること。リッシュ様の意向に賛同して頂けるような要人を、私の方でリストアップ致します」
「ありがとう、ジーク。よろしく頼むよ」
リッシュはほっとしたような表情を浮かべた。
「ところで、ゼダの方はどうなってる?」
もう一つの心配の種を、リッシュはジークに訊ねた。
「ゼダ様は、ご自分が王位継承権を得ることを微塵も疑っておりません。しかし今後のリッシュ様の行動を知れば、なにか動いてくるのは間違いないかと思います」
ジークは瞳の奥に冷たい光を宿しながら言った。
「ゼダの後ろには、ルイザもいる」
リッシュは眉根を寄せ、呟くように言った。
「ルイザ様はどちらに転んでも同じですから、あえてなにか行動されるとは考えにくいですね……もちろん、表立ってはということです」
ジークの言葉にリッシュは頷いた。
「それは、裏で何をしてくるかわからないってことだね……ゼダの事もあるから、ユイさん達にできる、なにか対抗手段を考えなければならない」
少し思いつめたような表情で、リッシュは言った。
「本当は、私がユイさん達を守らなくてはならないのに……」
「リッシュ様は、同族に対して力を使うことを禁じられていますからね……ゼダ様が動く前にターゲットを落とせたら、それが最善なのですが……万が一の時の対処は考えねばなりません。ひとまずは、先方に手を出さずに防御に徹してください」
「うん、わかった」
リッシュは神妙な面持ちで頷いた。
「ところでリッシュ様は、今回のターゲットの気をどのように落とすつもりなのですか? 不慮の事故にあわせたり、身の周りの人間を不幸にしたりすることがベストなプランなのではないかと、私は思っているのですが」
「私は、あの人の心が欲しい」
きっぱりとリッシュは言った。
「心……ですか……」
ジークは微かに眉根を寄せた。
「あの者は、なるべく心を動かさないようして生きています。その上、もうじきその身は浄化の核“龍の瞳”に変わり果ててしまいます。つまり、時間がないのです。そういった相手から心を奪うというのは、とても難しいのではないでしょうか?」
「うん、ジークの言う通りだと思う……だけど、私は諦めたくないんだ」
リッシュの答えに、ジークは微かに眉根を寄せた。
「リッシュ様……あなたは落とす側であって、落とされてはならないのですよ」
「わかってるよ……だけど、自分の気持ちに嘘はつけない。例えユイさんの命があとわずかしか残されていなかったとしても、関係ないんだ」
リッシュは真剣な表情でジークの瞳を見つめた。
「私は、あの人を妻にする」
「無理です……あの呪いは解けません」
静かな声音でジークは言った。
「ユイさんの体が龍の瞳になった時、その魂は冥府に向かうだろう。私は、彼女の魂を連れ戻す……新しい体は、用意すればいい。ルイザの事は、私が王になりさえすればどうにでもなる」
「……本気なのですか……もしかしたら、魂ごと龍の瞳に成り果ててしまうのかもしれませんよ」
ジークの言葉に、リッシュは一瞬黙り込んだ。そして、重い口を開く。
「今は、ユイさんの魂がどうなってしまうのかわからないというのが真実だ」
「……確かに、その通りです」
「だったら、私は良い方向に考えたい。そうじゃないと……そうしないと、私は身動きが取れなくなってしまう。せっかく、前を向いて歩くと決めたのに」
ジークは小さくため息を吐き、頷いた。
「そうですね、今は出来ることをやりましょう。私は先々の為に、裏で自分の仕事をします。リッシュ様がターゲットの心を手に入れる手助けは、行えません」
「うん、そうでなくては意味がないからね。向こうでの地盤作りは任せたよ」
「はい」
ジークは頷くと、リッシュに向かって恭しく頭を垂れ姿を消した。
リッシュは虚空に手を伸ばし、張っていた結界を無に返す。
「ユイさんは『海を見たい』って言ったんだっけ……」
ぼんやりと夜空を眺めながら、リッシュは昼間のミミの言葉を思い出していたのだった。
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