第6話 捨てられない思い

 窓から差し込む朝日を眩しく感じて、ユイは瞼を開いた。

 陽の光が当たる空気中の塵が、きらきらと光りながら床に向かう。その様を、ユイはただぼんやりと見つめていた。

「まだ、生きてる……」

 小さく呟き、ユイは小さく息を吐く。そして、視線を手のひらに向けた。

 そこには、真っ黒い染みのようなものが広がっている。

「やっぱり、広がっているな……」

 誰に言うでもなく、淡々とした口調でユイは言った。

 この黒い染みは、ユイの体の中心から広がっているものだ。

 ユイの肉体が、龍の瞳と呼ばれる宝珠に変化する時が近づけば近づくほど、その染みは広がっていく。

「あ、目が覚めたか、ユイ?」

 突然、ユイの視界に人懐っこい笑顔が飛び込んでくる。まるで十三かそこらの少女のような成りをした、土竜のアヤカシ、ミミだ。

「うん……すまないな、ミミ」

 ユイは、微かな笑みを浮かべて言った。

 謝罪の言葉を口にするユイに、ミミはクシャッとした笑顔を浮かべた。

「謝らなくていいよ、ユイ。それより、目が覚めたなら、ご飯を食べないとな! 今、持ってくる!」

 そう言うと、ミミはさっさと台所に向かい、粥と水をユイの元に運んできた。

 そして細い体のユイの半身を起こし、その背に支えを置く。

「ユウ達は?」

 ユイは、か細い声でミミに訊ねた。

「ユウは、桜花と一緒に出かけてる。魚を買いに行くって言ってたから、市場に向かったんだと思う。ユイは、まずはご飯を食べて体力を戻さなきゃな。海を見に行くんだから」

 少し寂しげに言い、ミミは微笑んだ。

「ご飯食べるの、手伝うか?」

「うん……ありがとう、一人で食べられるから大丈夫」

 ユイの言葉に頷き、ミミは食事を載せた盆をユイの膝の上にそっと乗せた。

 ユイはゆっくりと粥を匙で掬い、口に運ぶ。

「……邪気を祓うの、大変だっただろう? 力を放出したのは久々だったから、けっこうな量だったと思う」

 三日前の記憶を蘇らせ、ユイは言った。

「うん、出た分と同じ量の邪気を吸い込もうとするからな、龍の瞳の核は……でも、大丈夫だ。リィもおいら達に協力してくれたし」

「ん? リィって誰だ?」

「リィってのは、ユイをターゲットにした、あの魔族の兄ちゃんだよ。覚えてない?」

 ミミに言われ、ユイは思い出した。

「ああ、あいつか……あの根性のなさそうな、魔族の男」

 ユイが口にした言葉に、ミミは思わず吹き出した。

「まったくだよなあ……あいつ、ちっとも高位の魔族っぽくないもん。だけど、力はそれなりにあるみたいだ。邪気を握り潰したり、強い結界を張ったりしてくれてさ。まあ、それもあいつのほんの一部の力なんだろうけど」

 実際に、リッシュの持つ魔力がどれほどのものなのか、ミミにはわからなかった。

「そうか……私達は助けられたのか、あの男に……ならば、礼を言わねばならんな。たとえ、その原因が向こうにあったとしても、恩人は恩人だ」

「うん……ユウは、相変わらずリィを拒絶してるけどね……多分今日あたり、リィの方から会いに来ると思うよ。ユイと話をしたがっていたから」

「私と話を? なぜだ?」

 ユイは微かに眉根を寄せ、首を傾げる。

「私を落とすためか? しかし、あいつはあの時、やる気がないとか言っていたような気がしたが」

 その言葉が引き金となって、ユイは感情を抑えられなくなり、体内の核からエネルギーが放出されたのだ。

「あぁ、それも含めて、色々と話をしたいんじゃないのかな」

 と、そこに突然、バンっという物音が聞こえてくる。窓ガラスに、なにかが当たったような音だ。

 その物音に、ユイとミミは一斉に顔を窓に向ける。

 そこには、はち切れそうな笑顔を満面に浮かべたリッシュがいた。

「ユイが目を覚ましたのが、そんなに嬉しいのかよ……」

 その姿を見たミミが、呆れたように言った。

「ユイ、あいつを部屋に入れてもいいか? ユウに知られたら、おいら間違いなく怒られるんだけど」

「あぁ、ユウが帰ってきたら、私が許したと言うから、窓を開けていいぞ」

「うん、わかった」

 ユイの答えに頷き、ミミは窓を開けた。

「ユイさん! 目が覚めたんですね! あぁ、本当に良かった!」

 リッシュは窓から侵入するやいなや、ユイに向かって叫んだ。

「……うるさい」

 そんなリッシュに、ユイは不機嫌そうな表情を浮かべる。

「あ、すみません、つい興奮してしまって」

 慌てて、リッシュは口元に手を当てた。

「普通の声量で話をしてくれれば良い。そういえば、私はまだ名乗っていなかったな……私の名はユイだ」

 傍に座ったリッシュを、ユイはじっと見つめる。そこに友好的な雰囲気は、微塵もなかった。

「私の名はリッシュです。リィと呼んでください」

 そんなユイに対し、リッシュは嬉しそうににこにこと笑う。

「まずは、礼を言う。ユウとミミを助けてくれてありがとう。本当に助かった」

 リッシュの笑顔につられることもなく、ユイは無表情で礼の言葉を口にした。

「あっ、それは……元はと言えば、私の言ったことが原因ですし……あの時は、本当にすみませんでした。それで、体の様子はどうですか?」

 心配そうにリッシュはユイに問う。

「あぁ、体調はまあまあだ」

 ユイの返した言葉に、ミミは微かに眉根を寄せる。

「ミミから聞いたんだが、どうやらお前は私と話がしたいらしいな?」

「はい。ユイさんに、どうしても聞きたいことがあるんです」

 リッシュは真面目な表情になって言った。

「聞きたいこと?」

「はい、ユイさんが背負っている、龍の瞳の呪いのことです」

 リッシュに言われ、ユイはミミを見た。

「おいらは何も言ってない。リィが、自分でそれを調べたんだ」

 ミミがユイの無言の問に答える。

「そうか……既に知っているのなら、わざわざ説明する必要はないな」

 ユイは再びリッシュに視線を戻した。

「私が人の姿でいられるのは、長くてあと二週間ほどだ。お前は、あまりやる気がないと言っていたが、私をターゲットとするならば、時間はあまりない」

「はい……」

「なぜ迷う? なぜ放棄しない? 課題に向き合う目的が、自分以外の者の為だと言うのなら、その選択は間違いだ。誰かのせいにしても、その道を歩むのは自分自身なんだぞ」

 ユイは淡々とした口調で言う。

「私が魔王という立場に立ちたくない理由は、二つあります」

 リッシュも、感情を感じさせない口調で言った。

「恐ろしい女性と結婚しなければならないこと、民を裁く責任を負うこと、この二つです」

「……なるほど……」

 低い声音でユイは呟いた。

「それを避けるなら、今回の課題をわざと失敗すればいいだけの話です。そうすれば、結婚相手も民を裁く責任も、どちらも私の弟に移りますから」

「……魔王の婚姻システムって、そうなってるのか……」

 ミミが呟いた。

「私は、本当はそうしたいんです。そうすれば、少なくとも今より気持ちが楽になる……でもなぜか、その道を選ぼうとするのを留める自分がいるのです。誰かの為に、というのではなくて」

 リッシュはそう言うと、しばし言葉に詰まった。

「お前の中に、魔王になりたいという気持ちが、少しでもあるということなんだな?」

 ユイはリッシュに問う。

「はい……なぜそう思うのか、自分でもよくわからないのですが」

「そこは大事なところだから、明確にしたほうがいい」

 曖昧にしようとするリッシュに、ユイははっきりと言った。

「私がユイさんに聞きたかったのは、あなたがなぜその呪いを潔く引き受けているのか、その理由なんです」

 リッシュがユイへの問を口にする。

「ユイさんが引き受けているその呪いは、あなたの命がかかっている。その呪いさえなければ、あなたはもっと長生きして、この先の人生を楽しむことができるというのに」

 ユイはしばし考えこんだ後、小さくため息を吐いた。

「もう私で、最後にしたいからだ。この呪いを、他の誰にも引き継がせたくない。私の母は、私を見て泣いた……私の姉は、私を見て自分を責めた……そして、弟は命がけで私を守っている……もう、嫌なんだ。そんな思いをさせたくない、この先、誰にも」

「辛いのは、自分一人でいいと言うのですか?」

「いや、抗うのをやめた時から、辛いとは思わなくなった」

 ユイの言葉に、リッシュは目を見張った。

「そんな、まさか……」

「嘘だと思うのか? 私の中の、ほんの小さな浄化の核がこの国にあったからといって、この国のすべての災いが消えるわけではない。しかし、なにもないよりずっと誰かの為になる。遥か昔に、龍神から役目を引き継ぐことを決めた私の先祖も、私と同じ気持ちだったのではないかと思う」

 微かに、ユイは笑った。

「誰かの役にたてるなら……この身が、龍の瞳に成り果てても、私は構わない」

「……あなたは、優しすぎます」

 リッシュは、思いつめたような表情でユイを見つめた。

「そんなことより、お前は自分自身の事を考えろ」

 ユイが静かな声音で言う。

「民を裁くのが嫌だと言ったな……私は、魔族の裁きというものがどういったものなのかを、まったく知らない。だが、それに嫌悪感を覚えると言うのなら、変えてしまえばいいんだ。お前が、王になって」

 ユイの言葉に、リッシュは息を呑んだ。

「生きていれば、変えられる。行く道も、周りの環境も、考え方も……失敗したっていいんだ。そこで立ち止まらずに、進みさえすれば」

「ユイ、いいこと言うなあ……」

 ミミが感心したように、しみじみとした口調で言った。

「ユイさん」

 リッシュは、おもむろにユイの手を取った。そして、きらきらした瞳でユイの無表情の顔を見つめる。

「私の、お嫁さんになりませんか?」

 ミミは、リッシュの突然の告白に、目を丸くしたまま固まった。

「……零点だ」

「えっ?」 

「そんな言葉では、私の気持ちはやれない」

 ユイはあっさりと言い放つ。

「あ、いや、今のは課題じゃなくて本音……」

「しかし、お前がやる気になったと、私は受け止めて良いのだな……おい、いつまで掴んでいるんだ、手を離せ」

「え……あ、はい、すみません」

 すぐさま、リッシュはユイの手を離した。

 微妙な空気が流れ始めたところに、ガラガラと戸が開く音が響く。

 買い物に出ていたユウと桜花が戻ってきたのだ。

「ミミ、ただいま……あ?」

 そしてリッシュの姿を見つけるなり、すぐさまユウは苛立ちの声をあげた。

「お前! また来たのか! もう二度と来るなって、あれほど……」

「ユウ」

 叫びながら近づいてくるユウに、ユイが視線を送る。

「あ、姉ちゃん起きたんだ、良かった……こいつに、なにかされなかった?」

 姉であるユイに向ける、ユウの表情は柔らかい。

「大丈夫だ。この男に先日の礼を言いたくて、私がミミに頼んで窓を開けてもらったんだ」

「ユイさん、私のことリィと呼んでくださいよ」

 小さな声で、リッシュが懇願する。

「それは、この先のお前の態度次第だ」

 ピシャリとユイは言った。

「姉ちゃん?」

 ユウが訝しげな目でユイを見る。

「ユウ、この男はどうやら、王位を継ぐ気になったようだ。ならば、私はターゲットとして受けてたとうと思う」

「えっ、そんな」

 ユウは、ユイの言葉に戸惑いの表情を浮かべた。

「私をどう落とすつもりかは知らんが、期限は二週間。私が生きている間だ」

「おい! お前、姉ちゃんになにかしたら、おれが許さないからな!」

「ユウ、ちょっと落ち着けよ……」

 リッシュに喚き散らすユウに、ミミが落ち着き払った声で言う。

「えっと……とりあえず、また来ますね。ユイさんの呪いが解けるかもしれない方法も、紹介したいですし」

「な、なに?」

 リッシュの言葉に、ユウは耳を疑った。

「そんなもん、あるわけないだろ! 姉ちゃんの呪いは、龍神とおれらの先祖との間に結ばれた、契約なんだぞ!」

「いやあ、実は私には神の知り合いがいましてね……今度彼を連れて来ますから、詳しくはその時に……では、失礼します」

「あ、おい、ちょっと待て!」

 ユウは引き留めようとしたが、リッシュは頭を下げて姿を消してしまう。

「まったく、なにを言ってるんだあいつは……呪いを解くなど、私は望んでいないのに」

 ぶつぶつとユイはこぼした。

「……おれは、望んでるよ」

 低い声音で、ユウは言う。

「姉ちゃんが普通の体になれるなら、あいつらにおれの魂をやったっていい」

「ユウ……」

 俯き、拳を握りしめるユウを、ミミは憐れむように見つめた。

「けれど、それはユイが望むことではない……」

 静かでゆったりとした口調が、後ろから近づいてくる。桜花のものだ。

「ユウ、桜花の言う通りだ。向こうにつけこませる隙を見せることになるから、そういった考えは捨てろ」

 ユイが低い声音でユウに言った。

「……わかった……」

 ユウは俯いたまま、呻くように言葉を紡ぐ。

「ユウ、なにを仕入れて来たんだ? ユイに精をつける食いもん、なにかあったか?」

 重苦しい空気をなんとかしようと、ミミが賑やかな声をあげた。

「あ、うん、魚を買ってきたんだ」

 ユウは気を取り直して顔をあげた。

「そうか、いつもありがとうな、ユウ」

 ユイは、微かな笑みをユウに向ける。

「今調理するから、待ってて!」

 くるりと踵を返し、ユウは台所に向かう。

「捨てろと言われて『はい、捨てます』なんて、簡単に行かないのが、感情ってもんだよな……」

 誰に言うでもなく、ミミは一人呟いていたのだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る