第4話 密かな願い
夜闇の中では、満月の月明かりだけが室内を照らす灯りだ。
ユウの姉であるユイは、昏々と眠り続けている。その
ユイは十八歳、ユウは十六歳の
ミミは見た目は十三歳くらいの少女だが、齢三百年を超す
月明かりの中に浮かぶユイの顔色は、いつもよりずっと青ざめて見えた。
「なあ、ユウ……あのリィってやつ、ただの魔族じゃないだろ」
しんとした空気の中、ミミが口を開いた。
「あいつは、魔王の息子だ。しかも、王位継承権なんてもん、持ってるらしい」
「うわぁ……なにそれ、面倒くさい」
ミミは微かに眉根を寄せた。
「姉ちゃんを落とすのに失敗したら、その権利がなくなるんだってさ……知るかよ、そんなの……おれらには、なんの関係もない話だ」
「つまり、リィは王様になりたくないってことか……魔王といやあ一族の最高権力者なのに、なりたくない奴なんているんだな」
ミミは、リッシュと言葉を交わした時の様子を思い出していた。
「確かに、リィは魔王って
リッシュはにこにこと笑ったり、戸惑ったような表情を見せたりと、まるで人間のようだった。
「おいらの知ってる上級魔族に、あんな
「おれも何度も魔族とやり合ってるけど、あんな奴は初めてだよ……まったく、欲がないっていうのか」
はぁとため息を吐いてユウは言った。
「リィのやる気のなさに、ユイは怒ったんだろ……ユイは龍の瞳っていう呪いを受け入れて生きてるからな」
ぽつり、ミミが言った。
「魔王も龍の瞳も、どちらも重い役目だ。ユイの場合は命を失うことになるけど、ユイはその役目から逃げようとしない。リィはもっと話をして、ユイからなにかを学ぶべきだと思うんだ」
「ミミ……お前、随分とあいつの肩を持つじゃないか。さっき、初めて会ったばっかりだってのにさ」
ユウはじとっとした視線をミミに向ける。たしかに、とミミは考え込む。
「なぜかはわからないけど、放っておけないなって思っちゃったんだよな。母性本能ってやつかな? おいら、
「母性本能か。それは、おれにはないや」
はは、とユウは力なく笑った。
「今日ので、また姉ちゃんの時間が短くなっちまった」
「……あと、二十日くらいか? この姿でいられるの」
「……多分、それ位だと思う」
ユウには、ユイの最期を見届けるという役目がある。
「血筋、か」
力なく呟き、ユウは膝に顔を埋めた。
「なんで、姉ちゃんなんだよ……おれ達の代よりもっと、ずっと……後だったら良かったのに」
「ユウ……」
ミミは同情するような眼差しをユウに向ける。
「おれだって、姉ちゃんみたいに覚悟を決めて、ここまで来たつもりだった……でも、いざ現実が迫ると、苦しくて仕方ないんだよ」
「うん……多分、ユイ本人より周りの人間……特にユウ、お前は辛いと思うよ。龍の瞳に変わり果てたユイを、お役人さんのとこまで連れて行かなきゃならないんだから……たとえそれが、ユイ本人の望みだったとしても」
ミミは柔らかく微笑んで、ユウの頭をそっと撫でた。
「大丈夫だ、ユウ。おいら達がついてるから、弱音を吐きたい時は、いつでも吐くといいさ」
ユウは身じろぎもせずに、無言で顔を膝に埋めたままだ。ミミも、それ以上は何も言わなかった。
「調査報告ありがとう、もう休んでいいよ」
リッシュは使いの魔族の男から書面を受け取り、笑みを浮かべた。
使い魔は深々と頭を垂れた後、霧散するように姿を消す。
「龍の瞳の一族……」
リッシュが使い魔に命じたのは、ユイの家系についての調査だった。
これまでのユイの様子から、彼女にかけられた呪いは『悪しき気を吸引し、それを善の気に変えて放出する』というものであるのは、わかっている。
では、なぜそうなったのか。なぜ、それを背負うのがユイなのか。
使い魔の報告書には、ユイの先祖が龍の瞳と呼ばれていた神のような存在と約束事を交わしたのが発端だと記されていた。
「なるほど……代々女性にしか受け継がれず、子孫に引き継がれていくほどに、その呪いは濃くなると」
リッシュは紙片の最後まで目を通すと、掌の上で紙片を燃やして灰にした。
「ユイさんに、最後の番が回ってきたということなんですね」
リッシュは口元を抑え、卓上で揺れる薄ぼんやりと光る灯りの炎を見つめる。
生まれた時から、肉体に呪いが刻まれているユイ。生まれた時から、王位を継承することが決められているリッシュ。
「あの人は……なぜ、あんなにも強い気持ちでいられるんだろう」
リッシュは、どんなに考えてもその答えにたどり着けなかった。
ユイとは、まだ二回しか言葉を交わしていない。
だがリッシュは、教育係のジークがユイを標的に決めた時からずっと彼女を注視している。
その中で気づいたのが、頑ななまでの彼女の意志だった。
ユイの場合はリッシュと違い、最終的に自分自身が命を失う事になる。だが、それに対して気落ちしたり、呪いに抗おうという意志が彼女にはまったく見られなかったのだ。
「私が背負うものとは、重さが違うのに……やっぱり、もっと話をしたいな」
早く三日後が来ないものかと、リッシュはそわそわしたが、その気持ちはすぐに掻き消えた。
「元気にしているかしら、私の愛しい婚約者は」
かつん、と木の床が音を立て、夜闇の中から一人の女が現れる。
背の半ばまである、波打つ美しい黒髪と、濡れたような大きな黒い瞳が印象的な美しい女だった。
彼女の存在や色香の漂う甘い声音に、周囲の空気は
身長はリッシュとほぼ変わらず、男を惑わす女性らしい身体の丸みが引き立つような、ぴたりとした衣服に身を包んでいた。
「ルイザ……」
リッシュは、その名を呟く。
「会いたかったよ、リィ……」
空々しい言葉を口にし、ルイザと呼ばれた女はリッシュの唇に己の唇を押し当てた。
濡れた唇の感触と、肉々しい体の熱。
それらを感じながら、リッシュはどうしようもない嫌悪感に襲われる。
「……相変わらず、不味いな……お前のは……」
しばらくしてリッシュから体を離し、ルイザはにやりと笑ってリッシュの顎を掴んだ。
鋭く光るルイザの瞳が、光のない無機質なリッシュの瞳を覗き込む。
「お前の弟の方が、何倍もうまい。少しは見習ったらどうだ? まあ、私はその人形のような表情も嫌いではないがな。お前の心を踏みにじっている感覚が、たまらないよ」
「そうですか、それは良かった」
淡々と言うリッシュの
ルイザは満足そうに笑うと、ぱっとリッシュの顎から手を離し、おもむろにその頬を叩いた。
「今回の標的は必ず落とせよ! 私の出世がお前の肩にかかっているのだからな!」
「……わかっています」
リッシュは俯きながら、呟くように言った。
「ふん……ならいい!」
ルイザは吐き捨てるように言い、くるりと踵を返す。
「……もしお前が駄目でも、私にはお前の弟がいるから安心だがな」
口元に不敵な笑みを浮かべ、ルイザは闇の中に姿を消した。
「……本当にすごい
暗い面持ちで、リッシュは再び灯りの炎を見つめた。
「ユイさんに会いたいな……まだ三日経ってないけど、寝顔を見に行ったら、また怒られるかな」
微かに笑みを浮かべながら、リッシュはユイの面影を脳裏に思い浮かべた。
今はまだ、無感情と怒りの
「笑ったら……きっと、素敵なんだろうな」
ぼんやりとそれを想像すると、リッシュの胸が甘く疼く。
そうしていると、先程のルイザとのやり取りで負った傷が癒えていくように感じた。
「人生の伴侶に選ぶなら、ユイさんの方がいいなあ」
誰に言うでもないリッシュの願望が、静かに空気を揺らして消えていった。
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