第9話 ヒルビヤ、その後
エルサレムの陥落を受けて、中東のキリスト教勢力と反サーリフ派のアイユーブ一族は急接近し、同盟を結んだ。
その中心となったのは、キリスト教側は三大騎士団および聖ラザロ騎士団、エルサレム王国および十字軍国家群。イスラム教側は、サラディンの叔父・シールクーフの血筋でホムスの町の領主であるアル=マンスール=イブラヒム、カーミルの弟・ムアッザルの子でダマスカスを
この、少なくとも数の上では強力な同盟に対し、サーリフは彼直属のマムルーク戦力だけで対抗するのは難しく、ファーリズミーヤおよびカイマリヤに頼るしかなかった。
つまり、バラカの思惑通り事は運んだのだ。
1244年、エルサレムが陥落した年の10月17日。両勢力それぞれの主力部隊が、ガザ近郊のヒルビヤの地で
「この戦いを我らの力で勝利に導く。さすれば、我らの悲願は達成される!」
ファーリズミーヤの騎兵たちに向かって、バラカはそう鼓舞した。
今は亡きホラズム=シャー朝の旗印である黒地に緑色の月の旗が翻り、兵たちの歓呼が響き渡る。
独断専行のエルサレム奪取によりこのような事態を招き寄せたバラカに対し、サーリフは怒り心頭ながら、それでも彼らを味方に付けるため、勝利の
モンゴルに故国を奪われてより二十余年。ようやくにして、自分たちの領地が手に入る、まさにその目前までたどり着いたのだ。
(まあ、それもこれも勝てればの話ではあるがな)
そう
この地で会敵した両軍の戦力比は、サーリフ側がマムルーク兵およびファーリズミーヤ合わせて騎兵5千、歩兵六千。同盟側は、それを若干上回るほどの兵力だった。
同盟軍のイスラム教側の主将・マンスールは、じっくりと守りを固めて持久戦に持ち込み、所詮は傭兵であるファーリズミーヤが戦線を離脱するのを待つべきだと主張した。まあ、彼らのこの戦いに賭ける意気込みを読み誤っていたわけだが。
それに対し、キリスト教勢の総指揮官であったブリエンヌ伯ゴーティエ四世は、数の優位を生かして一気呵成に攻め立てるべきだという意見だった。
結局、同盟軍の方針は積極攻勢ということで決する。
両軍激しくぶつかり合うも、互いに譲らず日は暮れて、翌10月18日朝。
ファーリズミーヤは同盟軍の中央に切り込み、凄まじい勢いでこれを切り崩した。そしてそのまま、敵左翼に転進、これも粉砕する。マンスール
十字軍勢はそれでも正面のマムルーク勢を押し返し、一旦は戦線を立て直す。背後に回ったファーリズミーヤによって大きな損害を被りながら、なおも勇戦を続けた彼らであったが、ついには力尽き、ブリエンヌ伯は捕らえられ、多くの将が戦死。軍はほぼ壊滅となった。
「やりましたな、父上!」
アリーもさすがに興奮の面持ちで、父・バラカに駆け寄る。バラカも会心の笑みだ。
反サーリフ勢力と
「話が違うではないか!
スルタン・サーリフは、バラカが思っていた以上に狡猾だった。
戦後の
後でエルサレムも貰えるのか、エルサレムはやれぬからこれで我慢しろということなのか――。バラカは苛立たしく思ったが、ようやくにして手に入った領地に満足してしまう者も少なくなかった。
さらにサーリフは、そういった者たちにアイユーブ一族の娘(無論、末流ではあるが)を
気が付けば、一族の中でバラカは孤立していた。
カイマリヤも同様に、
七歳になったばかりの
ただでさえ親しみやすいとは言えないのに、何やら思い詰めた表情の祖父を怖がって、
苦笑しながらそれを見送ったアリーだったが、父の方に向き直り、真剣な面持ちで問うた。
「いかがなさいました、父上?」
「スルタンの
断固たる決意を込めて、バラカが宣言する。
「お、お待ちください父上! 焦ってはなりませぬ。王家再興の悲願については、この地にて雌伏し
しかしバラカはゆっくりと首を振った後、息子をまっすぐ見つめて言った。
「それはおぬしの役目だ、アリー。いや、今日この日より、“バラカ=ハーン”の名はおぬしに与えよう。ファーリズミーヤの
「父上……」
もう何を言っても父を説得することは出来ぬであろうことを、アリーは悟った。
おそらく父は、スルタンに一矢報いるとか一泡吹かせるとか、そのようなことを本気で考えているのではないだろう。ただ、ホラズムの武人として
アリーあらためバラカ=ハーンは、無言で
バラカに付き従って
しかし結局ダマスカスを
故国を失ってより四半世紀、戦いに明け暮れた果ての最期であった。
「そうか、バラカめは死におったか」
カイロの王宮。中庭の噴水の側に
スルタンを
「これもそなたの献策のおかげだ。感謝するぞ」
傍らに侍る女性に向き直り、今度は穏やかな笑みを浮かべる。
「恐れ多いことでございます。
女性の名はシャジャル・アッ=ドゥッル。「真珠の木」という意味の名の、サーリフの元奴隷で今は正式に王妃となった女性である。
「して、ファーリズミーヤの残りの連中の処遇はいかがなさいますか?」
愛妻と良い雰囲気のスルタンに対し、知らせを持って来たマムルークの若者が恐れげもなく問いかける。
赤銅色の髪に青い瞳。まだ二十歳は超えていまいが、長身で筋骨たくましいその肉体は、いっぱしの戦士の風格を漂わせている。
ただ、そのラピスラズリを思わせる青い瞳の片方には、白内障の白い斑点があった。
若者の役職は、スルタンの衣装係。
もちろん、抜擢の理由は彼の
恐れを知らぬ若者に好ましげな視線を向け、サーリフは言った。
「
サーリフの言葉に、
「左様でございましたか。しかし、アイバク
「おのれの
スルタンの機嫌はすこぶる良い。一時はどうなることかと思ったが、一族内の不満分子どもに打撃を与え、
「
「
それを聞いて安堵の表情を浮かべる愛妻を伴い、サーリフはキリスト教徒の王に手紙を
†††††
「ドラ息子め、よくもぬけぬけと!」
サーリフからの手紙を受け取って、フリードリヒは
エルサレムを
もっとも、エルサレム陥落を知らせる手紙を受け取った時の
かつて彼が心血を注いだエルサレム譲渡。その和約が踏みにじられたと知った時のフリードリヒの嘆きと憤りは
とは言うものの、「カーミル殿のドラ息子」が弁明してきた通り、それが彼の本意でなかったらしいことは別のルートからの情報で裏付けが取れた。
それでどうにか心を落ち着かせ、相手が知りたがっている十字軍の情報について知らせてやったのだった。
エルサレムが奪われたことへの憤りはあっても、だからと言ってイスラム教徒にも同じだけ血を流させよう、などと考えるフリードリヒではなかったし、幸い、とは言いたくないが、教皇は目下フリードリヒと全面抗争中で、とても十字軍どころではない。そして、西欧の諸侯の間からも、十字軍にかける情熱は失われつつあった。
それを見越してか、エルサレムをお返ししたい、などとは口にしないドラ息子は
ちなみにこの時期、かつてフリードリヒを破門したグレゴリウス九世は没しており、その後任のケレスティヌス四世も就任後間もなく逝去。二年余りの空白期間を経て、インノケンティウス四世が就任した。が、この新しい教皇についても、フリードリヒとの間の溝が埋まることはなく、依然対立は続いている。
そんなわけで心が休まる
今のところ、十字軍を送り出そうなどと考える西欧諸侯は誰もいない。安心なされよ。
フリードリヒはそう考えていたし、それはほぼ事実だったのだが、ただ一人だけ、本気でエルサレムを奪還しようと考えている男がいた。そして、その男――フランス王・ルイ九世は、それを実行に移せるだけの力を有していたのである。
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