第8話 聖都の惨劇
「
ファーリズミーヤの
「そもそも、
かすかに冷笑を浮かべるバラカ。彼とてアイユーブ朝の傘下に入ったのは昨日や今日のことではない。おおよその事情は聞き及んでいる。
「
「だからと申して……。第一、スルタンは
「
「まさかバラカ殿……、スルタンが我らを頼らざるを得ぬよう、わざと
歴戦の武人であるハサンが、さすがに動揺を隠せぬ様子でバラカを見つめる。
「スルタンのお考えはおそらく、まずはご家門の反逆者どもを討ち、しかる後に
「うむぅ……」
ハサンもその見方には
そして、もしその思惑通りにことが運んだなら――。
「東方の
スルタン・サーリフは今、自分に絶対的忠誠を捧げるマムルーク部隊・バフリーヤを育成中だ。そして、東方のモンゴルの問題はあるにせよ、当面の敵がいなくなれば、ファーリズミーヤやカイマリヤがどのような運命をたどるかは、ハサンとしても
「我らが
「おや、ハサン殿は勝てぬとお思いで?」
不敵に笑うバラカ。ハサンとしても、そこまで言われて引き下がるわけにはいかなかった。
バラカはカイマリヤの長を説得しおおよその打ち合わせを済ませると、自分の部下たちのところに戻り、告げた。
「これより我らは、
周囲の者たちの間にどよめきが広がる。このままエジプトに帰るのではなかったのかと困惑する者もいる一方、ちっぽけな村よりもよほど得るものも多かろうと、目を輝かせる者も少なくない。
「本当に……よろしいのですか、父上?」
バラカの息子アリーが不安げに問いかける。彼や一族の主だった者たちは、バラカからあらかじめ話は聞かされていた。しかし同時に、
「ダマスカスと通謀しているという情報が得られた――。スルタンにはそう報告しておく。我らこのままじわじわと立場を失っていくのを座視するか、ホラズム王家再興への第一歩を踏み出すか。勝負の時ぞ!」
その言葉を聞いて、アリーは父に顔色を見られぬよう
アリーが物心ついた頃には、ホラズム=シャー朝はすでに滅びており、故国や王家といったものに対する思い入れは薄い。
本来ならば、流浪の民を率いるジャラールッディーンへの忠誠心を叩き込まれ、それが心の芯となったのであろうが、なにせ父自身が
(それはあのお方も同じなのではないかな……)
父がホラズム王家再興の旗印と考えているであろう若者――今はカイロのスルタンの孫マムルークとなっているクトゥズにしても、ホラズム王家の血を引いているとはいえ、アリーと同様物心ついた頃には故国は滅びてしまっている。
彼と腹を割って話をしたことはないが、おそらく自分と似たような考え方だろう。率直に言って、我が父の「忠誠」はあのお人にとっては有難迷惑なのではないか――。アリーには確信めいたものがあった。
とは言うものの、このままではジリ貧だという父の焦りも理解はできる。一族の者達を守らねばならぬという使命感は、彼の中にも確かにあるのだ。それ
ファーリズミーヤとカイマリヤ、そしてその他の雑多な傭兵団たちもバラカの誘いに乗り、1244年7月15日、エルサレムを囲んだ兵力はおよそ一万にも及んだ。
エルサレムの城壁は、1217年に一度
ファーリズミーヤ達の猛攻の前に、聖都の防壁はあっさり破られた。
無論、エルサレムを守るキリスト教徒の兵達も、懸命の抵抗は見せた。
しかし、兵力差は
さらに、
8月23日、市街の西部ダビデの塔に立て籠もって抵抗していた者達もついに降伏し、エルサレムは陥落。約六千人にもおよぶキリスト教徒の老若男女が、聖都を逃れ出た。
この一連の戦闘で、テンプル騎士団は聖都の守備についていた三百余名のほとんどが戦死という憂き目を見た。
「中々にしぶとかったですが、無事
ファーリズミーヤの幹部の一人が、
「しかし、これならカイマリヤの連中の手を借りることもなかったのでは?」
「確かに、我らだけでも
「なるほど、それで彼らを仲間に引き入れられたのですか。恐れ入りました。ただ、そうなると、この町を我らだけのものにするわけにもいかぬのではございませんか?」
部下の問いに、バラカは冷笑を浮かべ、
「このまま
さすがに、このままエルサレムに居座るような真似をすれば、スルタンの討伐は
「あの、馬鹿者どもめ! あれほど
知らせを聞いて、スルタン・サーリフは当然ながら激怒した。その剣幕に恐れをなしながらも、側近の男が言う。
「恐れながら陛下、バラカ
「そんなことはわかっておるわ! まあ百歩譲って、
スルタン位を自分ではなく無能な異母弟に継がせようとした父・カーミルに対して思うところがないではないが、サーリフは基本的に父を敬愛していた。
十字軍と称するキリスト教徒の大軍勢が彼らの本国から押し寄せてくる事態を避けるためには、聖地を譲り渡すことも
サーリフ自身、第五回十字軍がカイロに向けて攻め寄せてきた時には、当時十代半ばながら父に従って出陣し、さらには、父が十字軍を水攻めで降伏に追い込んだ際には、捕虜とダミエッタとの交換が無事済むまでの見届け人――要は人質として、キリスト教徒の元に
父・カーミルは
そしてその点が、キリスト教徒といえば現地の十字軍国家や宗教騎士団のことしか知らぬバラカ達との、認識の決定的な断絶であった。
それでも――サーリフは不本意ながら、ファーリズミーヤ達の戦力を当てにするしかなかった。アイユーブ一門の不満分子と、キリスト教勢力とが、手を結んだのだ。
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