020 兄の業。


 とても頭の良い少年がいた。

 いや、彼は頭が良すぎたのだ。

 少年が“違和感”を抱き始めたのは彼が5歳を迎えた頃だ。

 周りの人間は誰一人として自分が当たり前に理解できることができない。

 知能が恐ろしく低い。

 とても同じ『人間』とは思えない。


 その圧倒的孤独。


 少年は残酷なまでの現実と直面したのだ。


 つまらない。

 本当につまらない。

 その日から少年の目に映る世界は少しずつ、だが確実に色褪せたものへと変わっていった。

 未来への希望は次第に枯れ、少年は生きる目的を失っていく。

 この色褪せた世界が与える影響は甚大なものであり、少年の精神は徐々に歪んでいった。


 いつ死んでもいい。

 9回目の誕生日を迎える頃、少年はこの世への執着を完全に失った。

 死なないから生きているだけ。

 極めて受動的な生だ。



 だが、ある日───世界は少年に微笑んだ。



 それは少年が些細なことで怪我をした時だ。

 心配する必要などない。

 野原で遊ぶ子供が転んで作る程の小さな怪我。

 少年自身もまるで気にすることはなかった。



 ───『お兄さま大丈夫?』



 声をかける存在がいた。

 当時4歳であったアリスである。

 彼はそのとき初めて、正面から“妹”を認識した。

 あまりに取るに足らない存在であった為に、少年の目に映りはしても無意識のうちに無視していたのだ。



 ───天使。



 暗闇に一筋の光が差した。

 少年の世界が色を取り戻した瞬間である。

 あまりにも無垢な心。

 一粒の不純物も混じっていない優しさ。

 この存在を天使と呼ばずして何と呼ぶのか。


 本当に些細な出来事。

 だがこれまでの全てが嘘であるかのように、恐ろしく呆気なく少年は生きる意味を見つけた。


 ただ、遅かった。

 遅すぎたのである。

 絶望の日々に蝕まれた少年の心は既に歪みきってしまっていたのだ。



 ───この『天使』を『悪魔』へと堕としたい。



 常人にはとても理解できない邪悪なる欲望が少年の心を支配した。

 あのどこまでも無垢で慈愛に満ちた目が、冷酷で侮蔑に満ちたものへと変わる。



 ───ゾクっ。



 そう考えた瞬間、少年は脊髄が痺れるような感覚を味わう。

 そして鳥肌が立つほどの快楽が全身を貫いた。


 少年は一片の迷いもなく決意する。

 自身が持つ能力の全てを『人心掌握』へと傾けることを。

 自分を含め、アリスを取り巻く全ての人間の心を掌握し操る。



 そして人格形成に関わる数多の要因を支配することで───天使を悪魔へと堕とす。



 少年の悍ましく業の深い計画がこの日始まったのである。

 この世界に絶望し、今まで無気力に生きてきたことすら祝福に思えた。

 周囲から自分は無能だと思われている。

 あまりにも都合がいい。

 それから少年は些細な日常を繰り返すことでゆっくりと育んでいった。



 ───アリスを悪魔へと変える『嗜虐心』を。



 周囲の人間を完全に支配し操る。

 そんなことできるはずがない。

 しかし神は与えてしまったのである。

 悍ましい程に優れた『頭脳』を。

 与えるべきではない人間に。


 そして少年が青年となる頃、それはついに実を結ぶこととなる。



 ───『お兄さま、気持ちが悪いので近づかないでくれる?』



 ───『……ハァハァ』



 全てが計画通り。

 天使は悪魔へと堕ちた。

 それからの日々は青年にとって天国にも等しかった。

 心の在り方次第で、世界はこんなにも彩り豊かなものになるのかと心底驚いた。

 アリスの蔑みに満ちた視線を浴びる度に、途方もない快楽と幸福感が全身を満たすのである。



 しかし、ある日突然少年の世界に『光』が訪れたように、『闇』もまた突然訪れた。



 12歳となったアリスがパーティーへ招待されたのである。



 ───『ルーク・ウィザリア・ギルバート』という男を祝うパーティーへと。



 由緒ある貴族としての外聞を気にする両親によって、青年はパーティーに出席することを許されなかった。

 それは無能を演じていたことによるある種必然の結果。

 しかしアリス以外の全てがどうでもいい青年にとって、それは取るに足らないことだった。



 そして───悲劇は起きる。



 たった一日。



 たった一日でアリスは変わり果ててしまったのである。



 アリスの嗜虐心を育む為に数年という時間を費やしてきた。

 その全てをルークという男はたった一日で塗り替えたのである。


 青年は直ぐに理解した。

 パーティーから帰ってきたアリスの目には、かつての『悪魔』がどこにもいないことを。

 彼女の嗜虐心が消えたわけではない。

 だが、そこに宿るのは自身と同じとても色濃い『被虐趣味』と『恋』だ。

 もはやその瞳に兄は映っていなかったのである。


 青年をして理解できない出来事。

 一体何が起これば、この短期間で人の心をここまで変えることができるのか。


 アリスがただ恋に落ちただけであればまだ理解できる。

 しかし、その目に宿る『被虐趣味』の色はなんなのだ。

 何を見て、何を聞いたのか。

 どうしてそこまで変わってしまったのか。


 さらに数日後、追い討ちをかけるようにアリスの婚約が決まった時、青年はもう笑うしかなかった。

 自身の幸福が薄氷の上に成り立っていたことを思い知らされた。



 だが───不思議と“絶望”はなかった。



 アリスと過ごす日々は、いつしか青年の心をも変えていたのだ。

 青年は、妹の幸せを素直に喜ぶことができる程度には『人間』となっていたのである。


 ルークという男が挨拶に来た。

 実の所、青年はとても興味があった。

 たった数日で妹をここまで変えたのはどれほどの男なのか、と。


 そして、一目で理解した。

 その雰囲気を直に感じ、僅かに言葉を交わしたことでそれは確信となった。

 ルークという男がこの世のどこにもいないと思っていた自身と同格、もしくはそれ以上の存在であると。


 なるほど、と青年は思った。

 ルークという男はアリスを変えたのではない。

 本来の姿へ戻してくれたのだ。

 これほどの男と出会えたことはアリスにとって幸せだっただろう。


 なぜか。

 それは、アリスの根底にある欲望が青年と同じものだったからだ。



 ───『自身の全てを凌駕し、尚且つ心から愛した者に虐げられたい』



 その歪んだ欲望はどこまでも青年を縛る。

 青年には同格と呼べる存在すらいなかった。

 これから先そんな相手を見つけられるのかも疑問だ。

 だから、アリスを『悪魔』へ変えようとしたのである。


 青年は笑った。

 少し嫉妬してしまうほどに、アリスは本当に幸せだなと思ったから。

 この世で最も美しく尊い妹にとって、ルーク以上に相応しい相手はいないだろう。

 邪魔なんてできるはずもない。


 とはいえ、自身の幸せを諦めたわけではない。


 だからこそ青年はこれまでの計画を全て破棄し、新たな指針のもと行動を開始したのだ。



 ++++++++++



「…………は?」


「───と、言うわけなんだ。いやぁ、若気の至りって恐ろしいね」


 てっきり、真面目に今日の授業の話をされるのだと思った。

 だが蓋を開けてみればどうだ。



 ───コイツが世にも悍ましい光源氏計画の実行犯であることの告白だった。



 俺は背筋に冷たいものが走ったのをはっきりと感じた。


「そこでちょっと将来の話をしよう。───僕を君の“駒”として側に置いてくれないかな?」


「……お前はさっきから何を言っている」


「あはは、君なら理解できてるでしょ」


 ……なんでコイツはこんなに爽やかに笑っているんだ。

 今、俺はこの世で最も恐ろしいものの片鱗を見ているのかもしれない。


「何とメリットは3つもあるよ」


「…………」


 頭が痛い。

 なんだこれは。

 強烈なデジャブを感じる。


「まず、君が僕という極めて優秀かつ使い勝手の良い駒を手に入れるということ。どんな汚れ仕事でも完璧にこなしてみせるよ。まあ、今はまだ信頼と実績が足りないよね。それはこれから示していくつもりだから安心して欲しい」


「…………」


「次に、僕は人心を掌握することに長けているということ。えっと、そろそろ来るはずなんだけど……あっ! きたきた」


 そのとき上空からふわりと一人のスキンヘッドの男が現れ、ヨランドに片膝をついた。


「遅れてしまい申し訳ありません、ヨランド様」


「ううん、時間通りだよ」


 魔法師団の隊服を身につけている。

 飛行魔法が使えるとはなかなかだが、はっきり言って今の俺にはどうでもいい。


 疲れた。

 コイツの話をこれ以上聞く必要が本当にあるのだろうか。


「紹介するよ、彼はゴルドバ。僕の所属する第二属性魔法師団の師団長を務めてる男だよ」


「…………」


 副師団長であるヨランドに、師団長であるゴルドバという男が片膝をついている。

 なるほど。

 コイツは証明して見せたんだ。

 自身の有能さを。


「おっけー。もう帰っていいよ」


「はっ! 失礼します!」


 ゴルドバはまたふわりと浮き、そのまま空へと飛び去った。

 本当にこの為だけに呼んだのである。


「……随分と躾がなっているじゃないか」


「頑張ったからね。既に第二属性魔法師団の大半は僕に忠誠を誓っている。───つまり、君が手に入れるのは僕という駒だけではないということさ」


「…………」


 ここまで来たらもはや狂気の沙汰だ。

 なぜそこまでして俺に取り入ろうとする。

 狂人の考えはこうも理解できないものなのか。


「最後に……これはメリットと呼べるかは分からないんだけどね。君が、アリスとの幸せな日々を僕に見せつけることができるってことだよ……。そ、それはとても気分がいいんじゃないかい!? 優越感を抱けるだろ!? ……ハァハァ……そして僕は、惨めに自分を慰めることしかできないんだぁ……あ、あれ、えっ、ルーク君!?」



 俺は歩き出した。


 一切振り返ることなく───。

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