二話
「旅の医師です。私がきたからにはご安心ください」
「いや、いいんだ。私は薬などなくてもこの上なく安心している」
一人の老人が自分の生を終えようとしている。ふかふかとまでは言わないが、それなりに上等なベッドに体を預けていた。御歳八十六歳、この村のいわゆる長老である。八十六歳の高齢はこの村では長寿だった。老人はよくぞここまで生きたものだと自分で感心をした。
傍には数人の男と菌類の隣人──菌人とでも言おうか、頭に子実体を生やした少女が立っていた。ああ、その変わらない表情で私のことも見送ってくれるのか。当の菌人たちがどう思っているかはわからないが、老人は死の寸前の茫漠とした思考でそう思った。
老人は、文明が微かに生きている時代に生まれた。といっても、時代はすでに菌人たちの拡大が法律まで飲み込もうとするその末にあって、かつて人々が浴びるように享受した幸福というのは、全くもって無縁だった。老人が文明の香りとして覚えているのは、父が与えてくれた国民栄養食二号の微かな甘さのみである。
文明時代、日本政府は他の国と同じようにキノコ人類の隔離を行っていた。初期にあっては、彼女らの拡大も牛歩だったから、それは他の感染症と比べても簡単な対策だった。日本という国家が若き日に経験したさまざまな困難はこれに比肩するものではなかった。地震、台風、大災害。エアネットが開発されるに及ぶまで、三度の大パンデミックを日本国民は経験し、その度に国民は泥臭くそして合理的に対応してきた。あの輝かしい経験は、さざれ石が巌となって苔がむすまで歴史に記され続けるだろう、国の偉い人たちは思った。実際に巌の上にむしたのは葉緑体を持つものでなくて、富たる栄養に従属する彼女たちだったが。
若き日の国が戦った強敵たちと彼女たちが異なったのは、それが人型だということだ。困惑する人、怯える人、恐怖する人、嫌悪する人、他の例に漏れずこの国にはさまざまな考え方をする人がいる中で、一番多かったのは興味を持った人である。隔離政策が綻ぶにつれ、自らの意思でキノコの人々と会ってみたいと思う人が増えた。好奇心は大衆の中で止まらない。接触すれば当然、感染者も増える。生物の増殖という観点で見れば、人の形は格好のベクターであったわけだ。老人は遠い昔、父親にそう聞いたことを覚えている。
老人は、いつのまにか過去を思い出していた。手元にある球体鍵はいつものように決まった形をしている。忘れもしない「母」の形見だ。老人は、ことその出自という点に関しては、ユニークな背景を持っていた。
青年の群れが街中を歩いている。それぞれブルーの作業服を着ていることから、近隣の現場の土建業に従事する者だということがわかる。
時は、日本政府が隔離政策の実施を諦めた頃である。医療崩壊によって民間人の普通の風邪でさえ治すこともままならなくなっていた。エアネットは依然復旧せず、経済的な停滞が国民に不満をもたらしていた。
「おい! 本当だろうな、この辺に"キノコ人類"がいるんだってのは」
青年たちのうち、恰幅の良さそうな男が言う。恐らく、この少年たちのリーダー格であろう。呼びかけられた少年は、怯えた声で答える。
「そうだよ。国の隔離政策が終わって、あちらこちらで発見され始めているんだよ。ネットニュースになっていたのを見ていないか? 国に忖度したのか分からないけど、テレビじゃあこの話はあまり出てこない。でも少しばかり調べれば、有志による写真がたくさん出てくる」
薄寂れた公園には誰もいない。子供もすっかり減って、ほとんどの学校が廃校されるのだと聞く。別の男が言った。ガリガリの中背、いかにも栄養が不足していそうな見た目である。
「な、なあ、やっぱりやめようぜ。迂闊に関わると危ないよ。それにヤツらは実は凶暴って聞くぞ」
菌人は、人類にとって未知の存在だ。さまざまな噂を巻き起こして、ある時は恐怖、ある時は差別の対象となった。
「ヤツらの身柄を捕らえれば、金になるって噂だ。俺たちには金がない。そうだろ?」
「そ、そうだけどさ……」
「何が悪いって、この状況を招いた政府さ。前の世代は身に余る栄光を浴して、結局俺たちには何も残さなかった。政府にはそれを補填する責任がある」
「わかってるよ」と他の皆も言って、気まずそうに会話を中断した。彼らの目の前には、「汎用自然公園」と銘された看板がある。背後に大地を貫くように続く森林は、生態系保護のために立ち入り禁止となっている。青年たちのリーダーは立ち入り禁止の看板を取り払って、他の男たちに入るよう促した。
男たちは分かれて森林を隅々まで探すことにした。
「いいか、菌人を発見したならばすぐに連絡するんだ。金だぞ、逃したりもするんじゃないぞ」
この森と違って、栄養素に甚だ欠けてヒョロヒョロとした男は森に怯えていた。彼は暗闇みたいな道中ですっかり萎縮したのだ。弱々しい足で歩いていると、池に出て落ちそうになり、坂道を見つければ斜面が足を滑らせて、途中で足を挫いてしまったのだ。ついに青年は、三十分歩いたところで見つけた大きな坂を転がり落ちた。もう重力に逆らうのは諦めて、いかにして枝や岩壁のダメージを軽減していくかに集中した。やがて底についた。
青年が落ちた先には倒木が森の切れ目に横たわって、天然のキノコを育んでいる。木漏れ日がキノコを照らして、まるでスポットライトのような感覚を得るのだった。丸太の先端に折れそうな枝があって、そこには少女が座っている。少女の頭にはセコティオイド型のキノコが冠みたく座っていて、そして首からネックレスのようにしてつけている黄金の球体が、どこか神秘的だった。
青年は生来の緊張症からわけがわからなくなった。息を呑んで体制を整える。やがて枝が折れたら少女は落ちるということに気づいて、「おい、そんなとこに座ってたら危ないだろ」と言った。それを聞いた少女は、枝から降りることなくなんとなく微笑む。青年はそれをとても可愛らしいと思った。
枝が折れて少女は倒れ込む。その時の男の驚いた声が森に広がって、鳥たちは飛び立った。
青年は仲間に連絡しようと思った。何より大事なのは金である。彼らは日々の食事に事欠く有様だったから、この少女を政府の人々に引き渡して久々に腹いっぱい飯を食うことは、やはり第一の目標だった。男は再度彼女の体を見て驚く。黄金のネックレスは、どこかの会社の高級品じゃないか。アレは「鍵」だ。昔、金持ちはそういうのを持っていると聞いたことがある。奪ってしまおう、そう思った。
なるべく逃げないようにして青年は少女を掴む。そうするとふわっと胞子が飛んでいい匂いがした。微かに甘い、奇妙な匂い。
青年は心臓がバクバクとした。女を抱いたことはない、童貞である。ただ金目のものとしか見えていなかった少女が、途端に愛情の対象に見えてくる。せめて黄金の球体鍵だけをとってやろうと思ったが、まるで母の愛のような慈愛の目をたたえ(ているように彼には見えた)、自分の抱擁に抵抗しない少女、それをどうこうすることはできなかった。下半身はいきりたったものが上がってくる。青年は狂ってしまったのだ。仲間に連絡しよう、などとは二度と思わなかった。ただ抱きしめて、金とかは関係ない自分のものにしたいと心から思った。それでも少女は男のことをただ見るのだった。
男は、その目が普通の女のものと違うことに気づくと思わず問いかけてしまった。
「何だ、お前は抵抗もしないのか、元は人間だったくせに、女らしくキャーとも言うことができないのか? 完全にキノコになってしまったのか」
男は少女に恋してるのに、無抵抗な少女をそのまま蹂躙することができなかった。女なら普通に放つ気持ち、感情、そういうのが全く欠如していて、ダッチワイフを抱いているような気がしたからだ。
「無理矢理なのは貴方だったのに?」
男は、罪悪感と問い詰める気持ちをない混ぜにした。
「いいから、答えろ。お前は人間なのか、抵抗するのか、しないのか」
さわやかな風が森を通り抜ける。少女は言った。
「抵抗しないよ、私の体は好きにしていいよ」
少女は無気力に腕を投げ出して身体中の力を抜く。パーカーの下に見える裸体が男の眼前に現れた。同時に黄金の球体鍵も取りやすい位置にある。
男は、少女が自分の思ったようなものでなくて苛立ちを感じていた。ついぞ罵りの言葉が出た。
「お前は、鼠の死骸なんかに生えているようなモノなんだな?!」
そんなことを言ったのだが、少女は素知らぬ風に
「乱暴してくれていいのに」
と言う。そのネックレスを取ってもいいんだぞ、こっちは。男は強気に行かないと弱気がぶり返してきてしまうような気もしたのだ。
「な、何でそんなことが言える」
「胞子って気持ちいいんだ。頭の中がむず痒いよう、暑いよう、叫びたいようってなって、体を震わすの。そしたら震わさなくても震えるようになって、いつのまにか天国に行ってる。頭を石とかに擦り付けて、我慢できないよーってなったら、勢いよく手とかで触って、あ"〜ってなるんだ。君にはわからないだろうね。でも毎日そんな感じのがあるんだよ。毎日ちょっとずつそんな風に気持ち良くて、毎日胞子を放つんだ。動物界の表面的な快楽なんて、細胞壁を掠るだけ。まだわかんないだね、かわいいね。これからもっとこの気持ちよさは増えていくよ。そしたらやがて、地球がバラバラの気持ちよさを統合する培地になっちゃう」
まるで支離滅裂だ。自分以上の狂っている人々を相手にしている感触は、心地よいものでない。一方で、彼女はこの世の天使みたいな生き物でもあった。キノコは寄生によって餌を取ると聞いたことがある。こいつらは、人のように食べはしないのだ。食べないのならば、もちろん食欲はないだろう。食欲がないのならば、自ら動くことなど馬鹿らしい。奪いもしない。そういうことか、そういうことか、ああ、なんてことだ。この事実は自分以外に知らないのか。不可思議な生き物だ。これを他の人が知ったら間違いなく当てられてしまう。彼女たちのライフスタイルは危険だ。売り払うなんてダメだ。もっと適切な場所に連れていかないと。「これ」がわかるような、哲学と知識がある場所はないものか。
なまめかしい少女の体は、すべすべとしている。だが今となっては、人形くらいのものにしか見えない。
「ああ」
男はそう声を発した。彼女の絶望的な感性を聞いて体の熱が冷める思いだ。彼は最初から一対一の人として、少女に何かできるのと思っていた。だが実態はもっと不明瞭なのだ。
元の娘がどの位残っているのかはわからなかったが、男は漠然とこの子は人間と愛し合ったことはないのだろうと思った。互いに接し合うことは、もっと素晴らしいはずなのだ。そう思考が至って、彼は無理矢理に少女を抱き抱えた。
「乱暴」
男は決めた。少女にはできないが男にはできる。
「俺は無理矢理するぞ。人間だからな」
そう言って彼は、木立の闇の中に消えていった。その後の男を見たものは、仲間の中にはいない。もちろん仲間は必死に探したが、他の人々にとってはどうでも良い下働きなので、特に警察などは動かなかった。男はキノコの少女を連れて、人とキノコの間を行かないといけないと思っていた。
やがて日本政府はパンクした。好奇心で、あるいは冒険心で、あるいは男のようにやむを得ず、金銭上の希望を見出して彼女らと接触したものが多くいたのだ。そのうち半分は感染してしまいぐずぐずになってしまった。その事実と、胞子を放つ気持ちよさの関係性は判然としない。偉い人たちは思った。これでは国が保てるわけない。国会はよくわからない法律を延々と作り続け、病院はキノコでいっぱいになった。病院で彼女たちは思いっきり群れて笑って、そして胞子を放つ大合唱が都市を包んだ。そのあとは男にとっても少女にとってもそして多くの民衆にとっても、激動の時代だった。日本列島を最後の喧騒が包んだ。
男と少女は都市を見限って旅に出た。旅先でさまざまな人に遭遇した。男は色々な場所で少女のことがわかる人を探したが、いずれもヘンテコな形でキノコと向き合う人々ばかりだった。それに球体鍵のこともわからねばならなかった。手がかりはなかなか見つからなかった。男はやる気のない少女を抱き抱えて連れていったが、やがて自らの足で男についていくようになった。
日本の崩壊を生き残った人々は安全を求めて都市から脱出した。人が多い場所ほど危険だった。キノコたちの拡大は首都圏を中心に進んでいて、概ねゾンビもののセオリー通りになった。一部の都市から脱出できなかった市民はそれがセオリーかと思ってホームセンターに逃げ込んだ。バリケードを入り口に立ててキノコが入れないようにし、ホームセンターの内側で土を蒔いて作物を育てた。中には完全に自給自足に成功したところもあった。別にキノコたちは人に噛み付きたいとは思ってなかったが、バリケードの隙間が不完全なところに潜り込んで、そこで勝手に胞子を放ったりした。ホームセンターに逃げ込んだ人々は何チームもあったが、仲間割れや感染で一年も立たないうちにほとんどがバラバラになった。
ホームセンターの中でもとりわけ奇妙な人々は、キノコを積極的に食べた。センスのないホームセンターではわざわざ土を用意して種を蒔き、品種改良をした作物を食べていたが、そういう画期的な生き残り方もあった。「そこら中に生えているのに!」ホームセンターの人々は少女のキノコをむしって生きながらえた。少女たちの断末魔はともかく、そのサバイバル方法の問題点は毒キノコを判別できないことであった。少女たちにも、ホームセンターに住む人々の間にも、何千人と死者が出ると知識が積み重なってきた。どの少女ならば食べていいのか、食べていけないのは誰か、それを判断する方法である。活発な少女はダメだ、なるべく無気力なものでないと。背中から生えているキノコは食えることが多い。一見なめことかエリンギとか食えそうに見えても用心深くしないといかんぞ。そんなカルトな言い伝えがミームとして残る。
男と少女は、都市の西部でキノコを食べる文化を持つホームセンターの人々に出会った。その人々は自分達のことをキノコの里と名乗った。キノコの里は階級構造が固定化しており、下の人間を毒味役に据えた。そうすることで上の階の人間はキノコ狩りの知識を蓄えながら、長生きをすることができたというわけだ。男はその有り様に落胆した。ああ、何てことだ。キノコを食べるばかりでは一方的な関係しか築けない。自分が望んでいるのは、食べ物と食べる人のような一方的な理解ではなかった。
男は毒味役の人々が、わざと毒キノコを食べさせられているところを見た。いかにもな毒キノコを、十歳ほどにもならないであろう少年が食べる。食べる、というかほとんど食わせるといった次第だった。長老の醜い笑顔がかつて自分を貶めた人間たちに似ていて嫌だった。自分の苛立ちを隠せないでいると、少女は少年に耳打ちをした。それが功を奏したのか、少年はキノコを食べても生き残れるようになった。住民は驚き、何度も何度も少年にキノコを食べさせた。
「本当の毒キノコの見分け方を教えたんだよ」
「お前はそれをどうやって知ったんだ。キノコは、共食いでもするというのか」
「んー、私たちは意識を共有してるからね」
それならばなぜ、自分の仲間たちが食べられていることを平然と眺めていられるのだと思った。その死生観、個々の生死への頓着のなさが男にはどうしても理解できなかった。少女がホームセンターの住民に「見目が良いキノコは食い物だ」と言って、食べられそうになった。少女はポカンとして抵抗もしなかったが、男が住民を殺して二人で逃げた。
風の噂では、そのホームセンターは長老が毒キノコを食べて死に、ほとんどコミュニティとしては成り立たない状態なのだと言う。長老は、人に食べさせるものばかりで自分では何も食べなかったんではないだろうか。キノコの知識などほとんどなかったのだろう。いい気味だ、と男は思った。
都市から逃げた人々には二パターンあった。内陸に逃げて山梨のあたりで「新日本国」を名乗った人々と、南方に海岸沿いで逃げて静岡辺りで「日本大家族」を名乗った人々である。その間の地域にたくさんの集落ができて、無政府の、いわゆる自然主義を信奉する人々となった。二つの国は互いのことが嫌いだった。どちらも自分達が正当な日本政府の後継であることを主張し、相手は「人権」を侵害する悪徳国家であることを流布した。互いに軍隊を派遣して殺し合い、憎み合った。新日本国はキノコの少女たちと積極的に融和を試みた。甲府の盆地にはたくさんの少女たちが集い、子実体を巨大に作って「塔」とした。逆に日本大家族はキノコたちを奴隷のように扱った。戦いになると兵士たちの前に配置され、肉の、いや細胞壁の盾となった。
新日本国に逃げ込んだ男と少女は、衣食住を与えられた。新日本国は戦争に参加する移民を常に募集していた。もちろん二人も日本大家族との戦いに参加させられることになった。
少女は「塔」を見て喜び、微睡の中に眠ることが多くなった。男は訓練が身を蝕み、部隊の上の人間から嫌がらせを受けた。男は訓練の隙間時間に新日本国に科学者やら政治家やら知識に詳しい人がいるのを見て、色々と調べ物を行った。ある白衣を着た女性は、新日本国の参謀なのだと言う。昔は大学の教授だったのだとか。彼女は眼鏡をあげる癖を見せながら、男の疑問にいくつかの答えを与えた。
「なぜ少女たちは死を恐れない?」
「菌人は個体ではなくて群れ。群れは個人の尊厳を大切にしない」
「それはなぜだ?」
「群れの構成員は平等だから、と私は考えている。人類は平等な社会を何度も作ろうとしてきた。だけどその試みはほとんど失敗してきた。ここ新日本国でも富の偏在と権威の誕生がそれを確かに示している。それはヒトが個体性の上に社会性を乗せた進化をしてきたから。結局、私たちは利益を個々に還元しないといけない定めがある。一方で、菌人たちは自分という存在を大切にしない。彼女らにとって自分は可換である……」
「この球体鍵を知っているか」
「日本末期時代、建物のロックを解除するために用いられた媒体。物理的なキーではなくて、中にある計算機が暗号を解く高精度な代物。その耐久性は高く、一万年持つと言われている。新日本国も複数所有しているが、肝心の建物が日本末期時代から隠蔽されているため、詳細は不明。現在の技術では解析も不可能。私以外の者に見せないほうがいい」
「球体鍵は何を開けるものか」
「おそらく、日本末期時代の大気浄化設備エアネットを管理する領域空間の鍵であったと言われている。私もエアネットが故障した後の世代なので詳しくはしらないが、かつての日本は大気中の菌類を排除するシステムがあった」
「エアネットがあれば菌人たちの拡大を止められるのか」
「……それはわからない。あなたはそうしたいのか」
「したいに決まっている。人類が復興する、そうしてあなたも自分も良いものが食えるんだぞ」
男は自然に銃を放つようになった。人を殺すことに躊躇いがなくなって、血で足を何度も濡らした。
富士山の戦いではたくさんのキノコの少女たちが肉の壁として動員され、雨のように放たれる銃弾の餌食となった。新日本国の軍隊は、富士山の向こう側からやってくる日本大家族の軍勢を追い払った。そこから一気呵成に攻め上がって、静岡市庁前の戦い、名古屋の戦いと細かい戦争を繰り返した。名古屋で新日本国の将軍は、菌人を収容していた名古屋菌人強制収容所を襲撃した。そして彼らは少女たちを「解放」した。
「キノコの少女たちよ! 私たちが来たからには困難を感じる必要はない。もう黙っている必要もない! これからは人類と菌人が一緒になって、共に輝かしい未来へ進んでいくのだ」
兵士から歓声があがる。男は、歓声に合わせて自分も大声で叫ぼうと思ったが、どこか薄寒い気配がしてやめた。肝心の少女たちは、寒い屋外に出されて混乱している。興奮して大声を上げているのは、こちら側の兵士ばかりである。これは決して彼女たちのためでもないのだ。
大声を上げる兵士たちの声が変わったのは、一発の銃声からだ。たったそれだけで歓声が叫声に変貌し、兵士たちがキノコの少女を巻き込んで混乱の渦を引き起こした。外縁部にいた一人の兵士が脇腹から血を流して倒れると、その隣の兵士は慌てて横へ逃げようとして、そこからさらに隣の兵士が押し込まれる。兵士たちは最初丘の中心で集まっていたが、混乱にドミノ倒しが起きて倒れた。男も、ドミノ倒しの最中で発砲された一つの銃弾が足に直撃した。血を流して逃走する。戦争で戦ってダメージを受けるならばまだしも、こんな戦後処理に失敗して怪我をするなんて────
家に帰るとそこにはちゃんとキノコの少女がいた。痛みが引かず、そのまま布団に倒れ込む。どうせキノコには血の苦痛などわからないだろうと思って、一人で勝手に医務部から貰ってきた包帯の替えを足に巻いた。すると彼女は布団のところまで寄り添ってきた。腰のところにもたれかかって、キノコの少女は自分に寄り添っている。表情は相変わらず無感情だったが、男は行為に思わず慕情を感じてしまい、喜ばしくなった。それはただ寄り集まっているだけなのだろうか。それとも、男を個体として心配しているのだろうか。
「……戦争に、行かないで欲しい」
少女は言った。
「血が大地を濡らして私たちが叫ぶ。加担して欲しくない」
たくさんの住民を殺した新日本国はやがて勝利を宣言したが、国力を疲労していたのは両国とも同じである。この戦いで二つの国は国力をほとんど使い果たしてしまうことになる。新日本国はさらに北方の集落連合からの攻勢に耐えられず、日本大家族は生存構成員の自然主義への回帰によって小規模化していった。
男と少女にはいつのまにか子供ができていた。男はかつてあったキノコの名前を男らしくカッコよくもじって名前にした。子供は国が崩壊した後、もっと南の場所に移住したところで生まれた。
子供を産むと少女────少女はいつまでも少女だった────は、体調に支障をきたすようになった。体がやおらに溶け始め、手足の指が六本とも五本とも判別が州つかなくなってきた。個体としての寿命が迎えられて、大きな意志としての一部になるのだと言った。
少女はもはや老いた男に球体鍵を与えた。
「この鍵の扉は、どこにもない。もし開きたいのならば新しく作らないといけない。作り方は私たちにもわからない」
少女の最後は頭部が溶けることであった。断末魔など何もなく、ただ黙って溶けてしまった。老いた男は、黙って埋葬した。
静かな村の生活を手にした男は、自身の子に語った。自分の半生と知りうる限りのこの世界の顛末を。息子はその話に合わせて、怒ったり悲しんだり喜んだりした。
息子の周りには、いつもキノコの少女たちがいた。それはどこか母親の面影があり、どこか柔らかく懐かしくあった。息子は目にしていない。彼女たちが如何にして人類に見られていたか、どのような扱いを受けたものか。だがそれは彼女たちにとってもどうでもよかった。
息子は父から受け取った球状鍵を大切に扱った。農作業をする時も、寝る時も、いつも近くにあった。それが父と母の思い出なのだから。
話は老人のベッドの上に戻る。彼は死ぬ時も父と母の思い出をつけていた。
「ご臨終です。私の実力不足で、申し訳ありません」
「いや、村長はジョーゼフさんのお陰で安心して行くことができました。それならば問題ありません」
「それはありがとうございます。医師としては後悔ですが」
そう言って、ジョーゼフと呼ばれた男は悲しい顔をした。村人は思い出したようにこう言った。
「件のネックレス、あなたがもらっていいそうです」
どうせ村の生活に必要ないですから。あなたが持っていってくれたほうがいいのです、と言うような感じでさえあった。
「ありがとうございます。これで路銀の足しとなります」
こちらも建前で、路銀の足しになると嘯く。ジョーゼフは路銀が欲しかったわけではない。正しくこれそのものが欲しかったのだ。
ジョーゼフは家の外に出て、太陽光を浴びた。思わず目を細める。〈案内人〉の少女がジーっとこちらを見る。
「医師? あなたが医師だったこと 一度も ない ジョーゼフ?」
「旅人はほとんど医師みたいなもんだ。それにあの状況、医師がいたってしょうがない。大事なのは逝く人と逝かれる人、両方の気持ちを大切にすることなんだ」
「嘘も方便」
「はっはっ、思い出だけで生きてこうぜ!」
MUSHROOM_GIRLs All in the golden summer carbon13 @carbon13
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