【十九】胸の中の望みは
不安はある。
果たして自分のしていることは正しいのだろうか。ひょっとしてとてつもない間違いをしているのではないか。もっと良い道があるのではないか。そういった何か重く渦巻くものが胸の中をぐるぐるしている。
でも。
寒冷化はどうにかしないといけない。父君はそれをしない。兄上もだ。だから私がやるしかない。それが王家の血筋にある者の義務だ。今動かなければ、なんの為にこんな大きな力を持っているというのだ。何もしないのであれば無いのと一緒だ。そう奮い立たせる。
——銃声。
身体がびくっと震える。それはスフミを貫いた銃声。自分に向けられたのに、自分を貫かなかった。だからこそ怖い。自分が原因で、自分にはではないものが、自分の意志とは関係なく動いていく。それを正面から受け止めるのは、つらい。
でも、それを無視すれば、自分という存在がどんどんと希釈されていく感覚に囚われてしまう。薄まって広がって、やがて自分という存在が無くなっていく感覚。はっと気がついた時、それはとても恐ろしい感覚だと気づく。
どちらに向かっても、あるのは閉塞感ばかり。息が詰まりそう。エルツは常に窒息している。大声を上げて走るしかなかった。
だから。
「アトパラ!」
エルツは走っていた。馬を降り、血と泥にまみれた衣服も気にせず、真っ直ぐと褐色の青年の元へと。
『魔鋼器を解放する。それが出来るのは君だけだ。私が、手助けをしよう』
一年前。そう言ったアトパラの言葉が救いだった。それは今射し込んでくる暖かな朝日に似ていた。
「無事で良かった、エルツ」
アトパラは飛び込んできた少女を柔らかく抱き留めた。軍服が汚れるが気にしない。そっと泥で汚れたエルツの金髪を撫でる。エルツはその胸に少しの間顔を埋めた後、見上げた。
「まあ、大したこと無かったわ」
エルツはいつも通り、にやっと笑った。
—— ※ —— ※ ——
フィエは二人の再会をじっと見つめていたが、一つ溜息をついて視線を外した。ぐるりと周囲を見回す。崖の直上には
代わりに可翔機が近くに着陸している。これで艦から降りてきたのだろう。可翔機とアトパラの周囲には長銃を構えた兵士がいる。白い軍服は親衛隊の証なのだろうか、全部で六名ほど。彼らは峠の外側を見張っている。
「ご苦労だったな、お転婆のお守りは大変だっただろ?」
アトパラがこちらに歩み寄りながら話しかけてくる。もう二人は抱き合っていない。そういうのは余所でやってほしかったなあ。エルツにそういう気遣いを求めるのが間違っているのか……。
「護衛対象がお転婆だと料金が割り増しされる法律はないのかね?」
げっそりした表情でフィエが応える
「ふむ、残念ながら帝国には無いな。王国はどうなんだい?」
「王国にだって無いわよ。それに第一、お転婆って誰のことかしらフィー?」
少し遅れて戻ってきたエルツが腕を組んで詰問する。
「え、うそ。オレのせい? 言い出したのアトパラじゃん」
「そうだったかな? ちょっと記憶が……」
「そういうの良くない。それでも帝国皇子か」
「……護衛料金は半額でよさそうね」
「あ、待って。それはさすがに勘弁。頭領に怒られる」
フィエは必死に謝りつつ、懐かしさを感じていた。帝国士官学校ではこんな取り留めも無い馬鹿話を良くしていたよなあと思い出す。
しかし、それもつかの間だ。
「ありがとうフィー。本当に助かったわ」
エルツが真剣な面持ちでフィエに向き直る。それはつまり、仕事の終わりを意味していた。エルツを目的地まで護衛、送り届ける。それがフィエたち傭兵が請け負った内容だ。
目的地はココ。無事に達成された。
「これを傭兵ギルドの本部に出して。残りの依頼料を受け取れるわ」
エルツが懐から折り畳まれた紙を取り出す。広げると赤い割り印が押されている。割符だ。これの半分が傭兵ギルド本部にあり、残り半分の割符を持ってきた者に預けている物——この場合は金銭——を渡す仕組みだ。
「毎度あり」
フィエは割符を受け取ると、懐にしまった。
——沈黙。
「この先は、大丈夫か?」
短く、それだけの言葉をフィエはひねり出した。エルツは少しだけ俯いて、にかっと笑顔で見上げた。
「ありがとう。大丈夫よ」
フィエの仕事はその瞬間、終了したのだった。
—— ※ —— ※ ——
『もうちょっと付き合って』
たぶん昔なら言えたその言葉を、エルツは言うことが出来なかった。ここから先の出来事に、フィーを巻き込みたくなかった。
それは我が儘だと思ったのだ。フィーの気持ちは知っている。でもそれに応えることは出来ない。そういう対象ではなかった。だから。
——だから。
その望みを、エルツは胸の奥深くに沈めた。
—— ※ —— ※ ——
可翔機の扉が開き、エルツがその中へ消えていく。続いてアトパラは、一度だけフィエの方を見てから可翔機に搭乗した。続いて兵士たちが搭乗する。扉が閉まり、機体の上部についているプロペラが回転し始める。風がフィエの髪を揺らす。
可翔機はふわりと浮き上がり、ゆっくりと峠の上を回り込みながら
ほう、と息を吐く。なんだか煙草を吸いたい気分だった。残念ながらその趣味は無かったが、何となく煙草を吸う人の気持ちが分かった様な気が勝手にした。
可翔機が
これからどうするのだろう、エルツは。『ユピテル』とやらを稼働させて、寒冷化を止める。その後は? 戦争をどうやって止めるのか。帝国は寒冷化を防いで、魔鋼器の制限を緩めれば納得するかも知れない。王国はどうする? 何かが無いと王国は面子が立たないだろう。その辺り、アトパラはどう考えているのか。
「政治って、大変だな……」
フィエは独り言を呟いた。物理的にも精神的にも、何だか置いていかれた感があって、少し寂しい。いやかなり寂しい。
既に
フィエは馬に近づいた。とりあえず仕事は終わった、終わってしまった。まずは仲間と合流しないとな。一応はぐれた時の合流場所は打ち合わせてあるが、果てして無事逃げられているのだろうか。
馬に跨がり、馬首をめ
——視界がぐるりと回った。
銃声。銃声が山々に木霊する。腹が灼熱の棒を突っ込まれた様に熱くなる。銃声? 撃たれた? 視界が回っているのは、馬から落ちているせいだと気がついた。
ぐるりと回った視界の端。そこに見えたのは、長銃を構えた白い軍服を着た兵士の姿だった。アトパラの配下が、わざわざ残っていた? なぜ撃たれた?
疑問は晴れず。
フィエは頭から地面に叩きつけられ、意識を失った。
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