【十七】月下の囁き
夜になった。
雪はちらつく程度になっている。兵士が魔鋼器の灯りを下げて、その青い光が周囲を照らしている。ここは村の奧、村長の家の前の広場である。
広場にはエルツとフィエ、村長と数名の村人。そしてエルゴンとその配下がいる。エルツの前にエルゴンが歩み出る。
「その、本当に大丈夫でありますか? 何人か兵をお連れになった方が……」
「ううん、大丈夫。スフミのことお願いね」
「は、ははーッ」
エルゴンは敬礼をした。エルツも答礼する。帝国軍の後続部隊、輜重隊には医師が同行している。エルゴン配下の兵が鉄騎兵で出迎えに行っている。問題無ければ、明日の昼頃には戻るという話だった。
フィエはプラナと話していた。
「悪かったな、色々迷惑を掛けた」
「お前たちが悪いわけじゃないさ。気にするな」
ははっ、とプラナが笑う。その目はまだ赤い。
フィエはプラナから馬の轡を受け取る。フィエは馬に跨がると、器用に馬首を巡らせてエルツの元へと歩かせる。エルツの伸ばした手を取り、馬上へ引き上げた。エルツの腕がプラナの腰に回る。
二人を乗せた馬が、広場に集まった人たちをぐるりと一周する。
「本当にごめんなさい!」
エルツはプラナに叫んだ。すっと手を上げて応えるプラナ。
広場を抜け、馬は首に提げた灯りが示す山道を早足で駆けていく。後ろを振り返るエルツ。村の灯りはあっという間に小さくなり、森と草の中へと隠れてしまっていた。
しばらく後ろを見つめていたエルツだったが、やがて諦める様に前を向き、その額をフィエの背に付ける。馬の駆ける音だけが、二人を包み込んでいた。
—— ※ —— ※ ——
二人を乗せた馬はゆっくりと歩いている。森を抜け、雪の積もったなだらか斜面を登っていく。視線を上げると尾根が見える。これで二つ目。尾根を越える度に高度は上がっていく。山道は獣道の様な有様ではあったが残っていた。このまま道なりに行けば、目的地の峠まで辿り着けるはずだ。
雪は止んでいた。薄くなった雲の合間から月光が注ぐ。その月光の中を、黒い影の様な山々がそびえる。人の気配は勿論、動物の気配もしない。静かだった。
村を出て一時間、いや二時間は経つか。エルツはずっと黙ったままだった。小休憩で馬上から降りた時も近くの岩の上に座り、じっとしていた。フィエは、プラナから受け取った——スフミが用意してくれた布袋に入っていたパンを食べ、水を飲んだ。エルツにも渡そうとしたが、首を振るだけだった。
フィエには、エルツの心境が分からなかった。いや、知り合って間もないとは言え、知人が傷ついたことに対してショックを受けているのは分かる。多分それが自分自身のせいだと思っていることも。
ただ、それはどうしようも無いのでは? と思ってしまうのだ。誰のせいでもない。あまり言いたくないが、それが運命というやつだろう。
しかしエルツは、自分の責任だと思っている。責任ともちょっと違うのか。エルツは、こういってはなんだが責任感が強い性格ではない、と思う。結構無責任だ。士官学校の在籍中に貸した物品や金銭は結構返ってきていない。大体庶民のオレが何で貴族に奢らねばならんのだ。逆だろ普通。
……エルツは、疲れているのだろうか?
そう思うことはある。オレにとっては世間はままならないものだ。何をしても、うんともうんとも動かない。エルツにとっては逆で、世間がままなってしまう。指を鳴らすだけで食事が出てきて、もう一回鳴らせばコーヒーが出てくる。そういう立場だ。オレが指を鳴らしたところで、パンの一切れすら出てこない。
ただ。
それは、エルツの望み通りになっているのだろうか? コーヒーが欲しい時に紅茶が出てくることもあるだろう。それならまだ良い。椅子から立ち上がるだけ、空を見上げるだけで、周りの者たちが何かをする。してしまう。
エルツが動けば、世界はそれに合わせて動いてしまう。そして時に壊れる。
それはとても息苦しくて、たぶん怖い。彼女にとって、世界はあまりにも繊細なのかも知れない。
「エルツー」
フィエは話しかけた。返事は無いと思ったが、随分してから返事があった。
「……なに?」
「このまま進んでいいのか?」
「うん」
「やめたって、いいと思うけどなあ」
「やめない」
即答だった。ごりごりと背中に頭を擦り付けてくる。ちょっと痛い。
「フィーも、やめたっていいんだよ」
「やめないよ」
そこは変わらない。惚れた弱みだと言われればぐうの音も出ない。しかしだ、フィエにとって世界とはそんなに広くないのだ。その狭い世界だけはどうにかしたい。それだけだった。
「貸した金、返してもらうまではなー」
「え、なに。しつこい。出世払いで」
「それ以上、何に出世するんですかね……」
—— ※ —— ※ ——
月が美しく輝く。
眼下には雲が広がっている。先程までは雲の層は厚く、地上は見えなかった。今は少し晴れてきて、雪化粧された山々が見える。
雲上を征くのは白い航空軍艦だった。青い光を発しながら一路南下している。その艦橋の窓際に立ち、アトパラは眼下を見下ろしていた。
「お休みにならないのですカナ?」
褐色の皇子に声を掛けたのは、白衣を着た博士だった。にはにはと笑いながらアトパラの横に立つ。背が低くて窓の外が見えない。窓枠に手を掛けて顔を持ち上げる。あまり変わらない。
「少し考え事をな」
「王女様の件ですかナ? 見つかった様で何より何より」
「……そうだな」
「何か御懸念デモ?」
アトパラは沈黙した。懸念、そうだな。夕刻の通信でフィエと話したのは予想外だった。エルツがフィエと一緒に行動しているとは思わなかった。そして、それを懸念だと思っている。
「自分でも驚いている。」
「何だか意外ですナ。殿下はもっと自信家だと思ってましたヨ」
「そんなことはない。世の中ままならないことだらけで辟易している」
アトパラは肩を竦める。本心だ。ここに至るまでに、どれだけの失敗を積み重ねてきたことか。だがそれも明日だ。明日、全てが報われる。
見上げると、天井の窓越しに星空が見えた。ゆっくり不動で瞬く星の中を、一筋の星が流れていく。それを見つめるアトパラの目が細まる。博士も空を見上げ、同じものを見つめている。
「明日が楽しみですナ」
「ああ……」
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