【十】エルツ・スレドナ・スナイフェルスが命ずる
エルツとフィエは追われていた。
日は頭上にある。走るほどに木々が減り、下草が長くなり、陽の光が強くなっていく。森は急速にその密度を薄くしていった。少し視線を上げると枝の間から山の稜線が見える。そこに森は無く、緑、茶、そして降雪の白に彩られている。あの山を越えた先に目的地はある。
エルツは獣道と思しき道を走っていた。その後ろをフィエ。そして更にその後方から何やら猛烈な勢いで追いかけてくるものがいる。人では無い。フィエはちらりと振り返り、もう一度確かめる。
猪。それも肩高が人の背丈ほどもある巨猪だった。それが明らかに興奮し切った鳴き声で吼えながら駆けてくる。弓なりに曲がった角に殺意を感じる。
獣道が二叉に分かれる。エルツは右へ駆け込み、フィエが続き、巨猪が追いかけてくる。
「ちょっと! なんで追いかけてくるのよ!」
「いやでも、お前が連れてきたんじゃないか!」
フィエは経緯を知らない。不意にエルツが立ち止まり、「ちょっと待ってて」と言ってその場を離れ、戻ってきた時にはもう追われていたのだ。
エルツも訳が分からない。その場を離れ、適当な場所を探している内に気がつけば目の前に居たのだ。見つめ合う人と獣。巨猪は鼻をひくつかせると、途端に様子が変わった。目の色が変わるとは正にこの事だ。
「大体、何しに離れたんだよ」
「乙女にそれ言わせる気?」
「あ、ト」
「それ以上言ったら殺す!」
目前が急に開け、気がつけば森を抜けていた。日の眩しさに目を細めながら走る速度は緩めない。目の前には緩やかな斜面が広がっている。所々に岩場が点在し、ほんの微かに霧が立ち込めている。
「しつこいな!」
巨猪は森の外を出てもなお追ってきていた。
「エルツ! 短銃貸せッ!」
「えっ!? は、はいッ!」
エルツは腰のホルスターに下げていた短銃をフィエに投げて渡した。フィエはそれを右手で掴み、乾いた発砲音が辺りに響く。フィエが短銃を宙で掴むのと、後ろに向けるのと、引き金を引くのはほぼ一動作だった。
巨猪が悲鳴と共に、地面と石を周辺に抉り撒き散らしながら転倒する。赤い血が宙を舞う。
エルツは立ち止まり、振り返った。一発で仕留めた?
「上に登れッ!」
フィエは止まらず、立ち止まったエルツの手を引いた。点在する岩の一つに辿り着くとエルツの身体を抱えて押し上げる。視界の端で巨猪が立ち上がるのが見えた。
「ほら、さっさと登れッ! 来る、来ちゃう!」
「分かっ、分かったから、そう焦ら…って、どこ触ってんのよッ!」
軍靴の踵がフィエの顔を踏む。理不尽だ。
フィエが岩上に登り切るのと同時に、がつんと岩が揺れた。巨猪が岩に体当たりしたのだ。一度二度と岩が揺れる。が、岩は震えるだけで動く気配は無い。巨猪は低い唸り声を響かせながらぐるぐると岩の周りを回る。エルツが下を覗き込むと、巨猪の左目は潰れ血が流れていた。
「よく当てたわね」
「まぐれだよ。それにこれじゃあ倒せない」
フィエは短銃を返す。エルツは銃身と銃把の間を折る様に開き、空となった薬莢を取り出す。上下二連装。使われたのは上の弾倉だった。
「あと五発ぐらいならあるけど」
「できれば銃声は立てたくない。近くに居たら見つかる」
短銃のものとはいえ、もしかしたら今の銃声も聞かれていたかも知れない。ここで王国軍に見つかるのは非常にまずい。
——何かが聞こえた。
フィエは振り返る。斜面の上。霧に煙る稜線の向こうから聞こえたのは馬の足音だった。ゆらりと霧の中に写る影が現れる。馬と、それに騎乗する人影。無言のままフィエは短銃を再び受け取り構える。
馬の足音が更に近づき、巨猪はそれに反応した。岩にぶつけていた頭をゆらりと向ける。
その刹那。銃声が響いた。
弾が空を切る音、巨猪が肺の空気を吐き出す様な音と共に倒れた。二度三度とその足が震えていたが、それもすぐに止んだ。急所を一撃、即死だった。
「……お前等、大丈夫か?」
霧の中から現れた馬上の人間が岩上のフィエたちに声を掛ける。フィエは目を細めたが、安心した様に溜息をついて短銃の銃口を下げた。霧の中から現れた人物は、動物の皮をなめした貫頭衣を着ていた。両手には古めの長銃を持っている。馬の背には彼が仕留めたであろう野兎が積まれている。
彼は猟師だった。
—— ※ —— ※ ——
霧は更に濃くなってきた。猟師の住む村落は、斜面の向こうを更に登ったところにあった。緩い谷間の中央を小川が流れ、斜面に家や小屋が点々と建っている。谷間の奧には滝があり、多分この村落では唯一の石造りの家が見える。道はそこで途絶えている。魔鋼器の類は見えない。村の中央に金属製の柱が立っているぐらいだ。
田畑は殆ど無い。家々の周りにそれらしき土地があるが、今は何の作物も実っていない。軒下に干している果実が散見される程度だ。この山間地方の標準的な村落と思われた。
フィエは村の入り口でふと足を止めた。ぐるりと動物避けの柵が設けられている。その外側、見慣れた物体を見つけた。そこに近づく。
鉄騎兵だった。但し動く気配は感じない。頭部と胸部の装甲が無く操縦席が露出しているのは、民間用としては珍しくは無い。しかし土埃が積もり苔が生えている。仰向けに寝転んだまま、右腕が真っ直ぐに空に向いたまま硬直している。
「エルツー」
「なに?」
フィエは操縦席にエルツを招き、操作盤に触れる様にお願いする。エルツは、はぁ、と溜息をつきつつも右手で操作盤に触れる。しばらくなでなでするが反応は無い。
鉄騎兵はやはり動かなかった。
「あのね、私のこと何か便利な修理道具とでも思ってる?」
「いやあ」
壊れている魔鋼器と『封印』されている魔鋼器の見分けは難しい。伝記にも詠われている様に、魔鋼器の故障ではなく封印である可能性はあるのだ。動かなかったけど。
「それは動かないよ」
馬を引いた猟師が声を掛けてくる。先程巨猪を仕留めた彼だ。名をプラナと言った。
「いつから動かない?」
「さあ。何でもこの村が出来る前からあるらしい。少なくとも祖父の代より前だな」
巨猪が荷車に載せられて坂道を登って村落へと入っていく。馬二頭で引き、何人もの猟師が寄り添っている。大獲物だ。
「本当に分け前はいいのか?」
「ああ。それよりも馬が欲しい。代金は払う」
プラナとフィエが並んで歩き、その後をエルツが続く。先を行く荷馬車に連れ添う猟師たちが時折こちらを伺う。たぶんエルツを見ている。白いシャツに紫色のズボンと軍靴。この辺りを散歩する様な服装には見えない。
「馬か…ちょっと難しいな。この村小さいからな、そう余分な馬を飼っている余裕は、ね」
「そうか……」
「村長に相談してみよう。傭兵ギルドには以前、山賊退治で世話になってる。無碍には出来ないな」
プラナは屈託無くにかっと笑った。
—— ※ —— ※ ——
エルツはフィエの後について歩いていた。二人はプラナの先導で川沿いの坂道を歩いていく。特に話すことも無く、黙々と歩いていると村の中央辺りまで辿り着く。坂が一旦平坦になり、そこには村の外からも見えた金属製の柱が立っている。
仕留められた巨猪を載せた荷車とは途中で別れた。大きい納屋へと向かっていたので、そこで解体するのだろう。エルツとフィエはプラナの家へと向かっている。プラナが村長に馬の手配をお願いする間、そこで休憩させてもらう話だった。
エルツは金属製の柱に手を当てて、ぐるりと村落を見回す。どこを見ても魔鋼器はあの壊れた鉄騎兵とこの柱ぐらいしか見当たらない。しかもその二つは動いていない。青い光はどこにも無かった。
エルツは故郷の村を思い出していた。
母は王国南部の一辺境を治める辺境伯の娘だった。辺境伯といえば聞こえはいいが、貴族とは名ばかりで、広い高原で羊を追って生計を立てる遊牧の民、その頭に過ぎない。王室に側室を出せる家柄では無かったが、エルツは生まれた。父王にそのことを聞いても、のらりくらりと躱されて今日に至る。なので大体察しはついている。好色親父め。
十歳の時に母が亡くなるまで、ずっと辺境で過ごした。だから母が亡くなり王都へと連れてこられて初めて気がついたのだ。『魔鋼器』という物に。
思えば、祖父が代々受け継いでいるという骨董品の類の中に魔鋼器はあった。草原にポツンとそびえる金属製の像も鉄騎兵だった。しかしいずれも動くことは無く『封印』されたままだった。
帰郷した時にエルツは祖父に言った。
『私、魔鋼器の封印を解けるのよ』
だが祖父は首を振った。国王陛下の許しを得ずに魔鋼器の封印を解くことは許されないのだよ、と。
王都に戻ったエルツは父親に言った。
『私、魔鋼器の封印を解けるのに』
だが父親は首を振った。無闇に魔鋼器の封印を解くことは許されない、それを見極めるのが我ら王家の者の義務なのだよ、と。
エルツには納得出来なかった。
王都には魔鋼器の灯や四輪車、鉄騎兵がこんなに溢れているのに、辺境の村にはなぜ無いのか。いや無いのではない、あるのに使ってはいけないと言っているのか。
——だから。
『魔鋼器を解放する。それが出来るのは君だけだ』
そう囁くアトバラの声が思い出される。エルツは手に触れた金属の柱に、意志を込めた。動け、と。
—— ※ —— ※ ——
「な、なんだぁ?」
水が噴き出す音に驚いてプラナは振り返った。村の中央に立つ金属の柱。何をする訳でも無くずっと立ち尽くしていたそれが突然、縦に開いた隙間から水を噴き出させていた。柱に手を触れている妙な服装の少女、エルツが水浸しになっていたが、彼女はそれに構わずにやりと笑って高らかに宣言した。
「村に動かない魔鋼器があったら全部持ってきなさい! 私、エルツ・スレドナ・スナイフェルスが全部動かしてあげるわ!」
その雄姿を見て、フィエは一人頭を抱えていた。
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