第20話 曹氏滅亡

 その日の長安宮廷ちょうあんきゅうてい詮議場せんぎじょうには、司馬懿しばいの姿があった。

 司馬懿は両腕りょううで背後はいごしばられ、会場かいじょう中央ちゅうおうころがるように投げ出されていた。

 詮議場せんぎじょうの壇の上には、冷たい笑みを顔に貼り付けた曹叡そうえいの姿があった。

「司馬懿‼︎ 何故なぜ、このような仕打しうちを受けるか、わかるか? 今朝けさお前に出仕しゅっしするように命じると、お前はのこのこと此処ここにやって来た。しかも昼食ちゅうしょくへの差し入れの酒まで持参じさんしてだ。酒で、許しを乞うつもりだったのか?余が何も気付きづいていないとでも思っていたのか?」

 曹叡は、足元あしもとに転がされた司馬懿を憎々にくにくしげに見下みおろろした。

劉禅りゅうぜん孫休そんきゅう行列ぎょうれつを襲い、黄皓こうこく、そして僕陽興ぼくようこう張布ちょうふを殺したのは、お前のがねであろう? 馬鹿ばか真似まねをしてくれたな。そのような事せずとも、あの者共ものどもなど、が程なく屈服くっぷくさせてやったものを。お前の愚行ぐこうのお陰で、余の威光いこうちておるぞ。蜀と呉からみかど達をおびせた上で、重臣じゅうしん暗殺あんさつした卑怯者ひきょうものだと...。れは、まさしく死罪しざいあたいする重罪じゅうざいだ。」

 すると、司馬懿は上半身じぃうはんしんを起こすと、背筋せすじを伸ばして座り直した。

「私は、この世の将来しょうらいに起こる禍根かこんったのです。あの三人は、放っておけば、必ず世を乱す悪臣あくしんとなったでしょう。みずからの国のこころざしかえりみる事なく、他国たこくに心を売る者達ものたち。そのようなやから、生かして置く事など出来ませぬ。ですから殺すように私が命令めいれいを出しました。暗殺あんさつ指揮しきを取ったのは司馬昭で御座います。」

いさぎよく罪を認めるという事だな。本来ほんらいならば打ち首であるが、せめてもの慈悲じひをくれてやる。」

 そう言う曹叡の瞳に、残虐ざんぎゃくな光が宿やどった。

「たった今、この場で、の前で、毒杯どくはいあおげ。それが曹操帝そうそうてい曹丕帝そうひていの下で、功労こうろうを重ねてきたお前に、余が与えるせめてもの慈悲じひだ。自宅じたく謹慎きんしんしている司馬昭しばしょうの所にも毒杯どくはいを贈ってやる。」

 司馬懿は苦笑にがわらいを浮かべた。

慈悲じひと言われましたが、みかどは遠からず、司馬しば一族いちぞく根絶ねだやしにするお積りだったのでしょう? 私共わたしどもなど、貴方様あなたさまにとっては、所詮しょせん邪魔じゃま存在そんざいだったのでしょう?」

 それを聞いた曹叡は高笑いした。

流石さすがに、良く分かっておるではないか。そうだ。お前達まえたちなど、わずらわしいだけの存在そんざいだった。何かと言えば、余に意見いけんするばかりでなく、自分達じぶんたちだけでまつりごとを進めようとするなど...。そもような事、断じて許さぬ。」

 そして、司馬懿の前には毒のさかずきが運ばれて来た。

 司馬懿は、その盃を両手でいだくように持つと、それを曹叡に向かってささげた。

陛下へいか最後さいごに申し上げる事が...。世をまどわす獅子身中しししんちゅうむしとは、我らが始末しまつしたあの者達ものたちだけでは御座いませぬ。」

 曹叡の顔に、此奴こやつ一体いったい何を言っているのかという疑念ぎねんの色が浮かんだ。

「ほう...。最後さいご遺言ゆいごんか? 何が言いたいのだ?」

 すると、司馬懿は一旦いったん手にした盃を下ろして、曹叡を正面しょうめんから見詰みつめた。

「この世を地獄じごくに追いやる者共ものども。それは、貴方様達あなたさまたちで御座います。このような愚策ぐさくに手を染め、しかも曹操帝そうそうてい以来いらい功臣達こうしんたちを、平気でほろぼぼそうとされる。そのような曹一族そういちぞくに、未来みらいは御座いませぬ。」

 それを聞いた曹叡は、顔を引きらせ、怒りを全身ぜんしんみなぎらせた。

「最後に何を言うかと思えば...。往生際おうじょうぎわの悪い奴め。」

 怒りに震える曹叡に向かって、司馬懿は淡々たんたんと語った。

「私は、亡き曹操陛下そうそうへいか曹丕陛下そうひへいかにおびせねばなりません。私は、不出来ふでき最低さいてい家庭教師かていきょうしでした。曹叡様…。貴方様あなたさまに、まことみかどとして相応ふさわしい人格じんかくを教えて差し上げる事が出来ませんでした。真のみかどとは、じんの心と慈悲じひの心の二つをあわせ持たねばなりません。それなのに、私は貴方様の心の中に、傲慢ごうまんさばかりを育ててしまったようです。」

「黙れ、無礼者ぶれいもの!誰にものを言っておる…。」

 ひたい青筋あおすじを立てて叫ぶ曹叡に向かって、司馬懿はかまわず言葉を続けた。

「何よりも、貴方様あなたさまにはみかどみかどならしめる『こころざし』がありません。こころざしとは、国を正しい方向ほうこうに導く為に、最も大切たいせつなもの。それをお持ちでないからこそ、愚策ぐさくに手を染めてしまうのです。それをお教え出来なかった事の不甲斐ふがいなさに、ただ恥入はじいるばかりです。」

 曹叡は、怒りに任せて立ち上がった。

「ええい!黙れ!黙れ!誰か、此奴こやつを黙らせろ!自分でさかずきを口に出来ぬなら、口をこじ開けて流し込んでやれ!」

 曹叡の怒鳴どなり声を聞いた数人の宦官かんがんが、司馬懿のそばに駆け寄った。

わしに手を触れるな!おまえ達のような者共ものどもの手など借りずとも、おのれ後始末あとしまつくらいは、自分の手で出来る!」

 すさまじい形相ぎょうそうの司馬懿ににらみつけられた宦官達かんがんたちは、その場で硬直こうちょくして後ずさった。

 司馬懿は、毒杯どくはい口元くちもとに運びながら、不敵ふてきな笑みを浮かべた。

「曹叡様。私が昼食ちゅうしょくに差し入れた酒の味、如何いかがで御座いましたか?昼餉ひるげの後で、憎き私を始末しまつする前となれば、一族いちぞく皆様みなさまと、さぞさかずきも進まれたでしょう。」

 曹叡の顔に怪訝けげんな表情が浮かんだ。

「どう言う意味いみだ?お前からの差し入れの酒なら、たくに上げる前に周到しゅうとう毒味どくみは済ませてあるぞ。そうだな…。確かに上等じょうとうな酒であった。お前が毒杯どくはいあおる姿をさかなに出来なかったのが惜しいくらいにな。」

 すると司馬懿の唇のはしが、にぃっと上がった。

「あの酒には、特殊とくしゅな毒が仕込しこんで御座いました。たとえ事前じぜんに誰かが毒味どくみしても、直ぐにはわからぬ遅効性ちこうせいの毒で御座います。心配しんぱいありませぬ。苦しむ事などありませぬ。今夜眠っている間に安らかに往生おうじょう出来ましょう。」

 曹叡の愕然がくぜんとした顔を眼にしながら、司馬懿は最後さいご言葉ことばを口にした。

「これで、やっとあの世にいらっしゃる曹操陛下そうそうへいかに、お目にかかる事が出来ます。御怒おいかりは買うでしょうが、れも私の不徳故ふとくゆえで御座います。この世の行く末は、新たな真の英傑えいけつが生まれると信じ、その方にたくします。」

 そう言うと、司馬懿は手に持ったさかずきを、一気にあおった。

 やがて口元くちもとから一筋ひとすじの血が流れ、司馬懿は前のめりにうずくまった。

 その手から盃がころがり、蒼白そうはくな顔で立ち尽くす曹叡の前で止まった。


 こうして、曹操そうそう劉備りゅうび孫権そんけんらの英傑えいけつ達がきずいた三国さんごく歴史れきしは、幕を閉じた。

 魏では、曹氏一族そうしいちぞくが、司馬懿のった毒酒によってことごとく死にえ、司馬一族しばいちぞくも全てが自害じがいした。

 呉では、建業けんぎょうに戻った孫皓そんこくが、次帝じていを選ぶ議場ぎじょう激昂げきこう挙句あげく剣を振るって、前帝ぜんてい孫亮そんりょう宰相さいしょう孫淋そんりん惨殺ざんさつし、みずからも警護兵けいびへいによって殺された。

 魏にくだった劉禅りゅうぜん孫休そんきゅうは、時をおかず僻地へきち客死かくしした。

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