第19話 逃亡の果て

 姜維きょうい達のいる場に駆け込んで来た孫皓そんこくは、血相けっそうを変え息を切らしながら、その場にいた面々めんめん見回みまわした。

「呉で....大変たいへんな事が起きた...。みかど孫休そんきゅうが....宮中きゅうちゅうから行方ゆくえくらました。しかも....近衛兵このえへい少数しょうすう近臣きんしんを引き連れて....。有ろう事か、向かったのはだ。」

 怒りを隠せない顔つきの孫皓に向き合った華真は、全く表情ひょうじょうくずさなかった。

「やはり...でも同じような動きがありましたな。」

「呉も同じ...? それは、一体いったいどう言う意味いみだ?」

 劉禅りゅうぜんが魏へ逃亡とうぼうした事を知らされた孫皓は、あきれ果てたようにてた。

劉禅帝りゅうぜんてい成都せいとから逃げ出したと言うのか...。あきれたお方だ。国も臣下しんかも共にあっさりとてるなど...。いや…。他人事ひとごとのように蜀をなじっている場合ばあいではないな。こうなれば私は、我が水軍すいぐんと共に蜀より退しりぞくこととする。もう蜀にいる意味はない。今の呉では、次のみかどの座を巡って孫亮そんりょう孫淋そんりん早速さっそく動いておろう。急ぎ呉に戻り、私も側近そっきんたばねねばならぬ。」

 そう云い捨てると、孫皓は身をひるがえして場を去って行った。。

宰相殿さいしょうどの。このまま孫皓殿と水軍すいぐんを呉に戻してしまって良いのですか?」

 おろおろとしながら、立ち去る孫皓の背を見送る王平おうへいに対して、姜維は首を振った。

仕方しかたあるまい。混乱こんらんした蜀にとどまっても、孫皓殿に利はない。そもそも孫皓殿が此処ここに来られたのは、呉の次帝じていの座を狙う為に蜀の力を借りようと考えての事だ。このような状況じょうきょうになれば、一刻いっこくも早く帰ろうと考えるのは当然とうぜんであろう。」

 その横で、華真かしんつぶやいた。

「しかし…..孫皓様では混乱しゅうしゅう収拾しゅうしゅう出来ますまい。あの方は剛勇ごうゆうですが、事を急ぎ過ぎます。恐らく...自滅じめつされますな….」


 姜維達は、今後こんご何を為すべきかについての協議きょうぎを始めた。

「しかし、魏も思い切った手を打って来ましたな。まさか蜀と呉のみかどを、そろって魏に引き込むなど...」

 王平がそう言って嘆息たんそくすると、華真が思案しあんまとめた様子ようすで口を開いた。

昨日きのう今日きょうに思いついた策ではありませんね。前々まえまえから蜀と呉の国情こくじょうを探っていたのでしょう。劉禅帝の厭戦えんせん気分きぶんや、孫休帝そんきゅうていの手詰まりな状況じょうきょう察知さっちした上で、仕掛しかけて来たのでしょうね。」

「このような策。やはり思い付けるのは司馬懿しかないかと思いますが...」

 そう問いかける姜維に、華真は首を横に振った。

「違うと思います。司馬懿は、目先めさき利益りえきだけで動く人物じんぶつでは有りません。今回こんかい謀略ぼうりゃく先々さきざきを考えれば魏はとんでもなく厄介やっかい問題もんだいを抱える事になります。劉禅帝りゅうぜんていは、自分じぶん処遇しょぐうについて我儘わがままを言い始めるでしょう。それをすべて聴いていては、魏の諸侯しょこう達は承知しないでしょう。孫休帝そんきゅうていは、呉の地から孫淋そんりん孫亮そんりょうを除く事を主張しゅちょうする筈。そうなれば、魏は呉の政争せいそうに巻き込れる事になります。」

「それでは...この策を考え出したのは...?」

 姜維の疑問ぎもんに、華真は即答そくとうした。

魏帝ぎてい曹叡そうえい様ご自身じしんの考えでしょうね。蜀と呉の今上帝こんじょうていそろって屈服くっぷくさせる事で、自身じしん威信いしん周囲しゅういに示したかったのでしょう。司馬懿しばい司馬昭しばしょう国政こくせいを取り仕切しき状況じょうきょうが、曹叡様には不快ふかいだったのでしょうね。先般せんぱん蜀遠征しょくえんせい失敗しっぱいで、司馬懿と司馬昭は、恐らく蟄居ちっきょ処罰しょばつを受けているでしょう。そのすきを狙ったのでしょうね。」

「華真殿の言われた、先々さきざき厄介やっかい問題もんだいですが....」

 横から王平が言葉をはさんだ。

「蜀と呉の二人のみかどを魏に引き込んだ上で、すぐさま亡き者にしてしまえば問題もんだいは起きないと、曹叡帝そうえいていが考える事は...?」

 華真は。それを直ぐに否定ひていした。

「あり得ませんね。みずから呼び寄せておいて、直ぐに殺すような真似まねをすれば、曹叡様の威信いしんは、それこそ逆に地に堕ちます。諸侯しょこうは曹叡帝に対して疑心暗鬼ぎしんあんきとなり、民衆達みんしゅうたちの間には、卑怯ひきょうみかどという評価ひょうか定着ていちゃくするでしょう。流石さすがにそんな事は考えないと思います。」

 その後、華真は自分の考えを確認かくにんするように言葉をいだ。

「曹叡様は、おのれ威信いしん自信じしんがあるのでしょう。蜀と呉のみかどなど、自分なら思うがままに、言う事を聞かせられると...。しかし、相手あいてみかどだけではありませんからね。劉禅帝のそばには黄皓こうこくがおりますし、孫休帝のそばには、僕陽興ぼくようこう張布ちょうふがいるでしょう。彼らがいつまでも、曹叡様に頭を下げたままで居るとは思えません。曹叡様は、ご自身じしん過信かしんされていますね。」

 華真の言葉ことばに、姜維が腕組うでぐみをし、王平は途方とほうれた顔になった。

「それで、これから我々われわれはどのように...?」

「魏がすぐに蜀や呉に侵攻しんこうする事はありません。曹叡様は、呼び寄せた二人のみかどとじっくり話をせねばなりませんからね。みかど出奔しゅっぽんして混乱こんらんしている蜀と呉が、すぐに魏に攻めて来るとも、当然とうぜん思わない筈です。ずは、我々は国の混乱こんらんを収めましょう。姜維宰相殿きょういさいしょうどのの名のもと蜀内しょくないのあちこちに高札こうさつかかげましょう。『みかど譲位じょういされ、新しい帝が、もうじき成都せいと入城にゅうじょうされる』と...」


 魏に向かう劉禅りゅうぜん行列ぎょうれつは、とうげ山道やまみちに達していた。

 此処ここまで来れば、明日あすには長安ちょうあん到達とうたつできる….。

 そう思った劉禅は、胸をで下ろした。

此処ここまで何事なにごともなく辿たどり着けたな。しかし、姜維はさぞ怒っておろうな。蜀を出る前にあ奴に止められ、連れ戻されるのではないかと、気が気ではなかったぞ。」

 黄皓こうこくが、劉禅の乗る輿こしの横を歩みながら答えた。

「そのような事、出来できはずも御座いません。みかどの行く道をふさぐなど、不敬ふけいきわみですぞ。」

 そう言った黄皓は、姜維の批判ひはんを始めた。

「そもそも姜維などの言う通りにいくさを続ければ、蜀は干上ひあがってしまいます。先日せんじつの魏の侵攻しんこう退しりぞけた事で、姜維は増長ぞうちょうしております。放っておけば、さらに大きないくさ仕掛しかけて行ったはず。これで良かったので御座います。そもそもいくさなど、で御座います。年貢ねんぐ大半たいはん軍俵ぐんぴょうに消え、臣下しんかの者どもの暮らしは一向に上向うわむきません。陛下へいかにも質素しっそなお暮らしを強いる事になります。」

 輿こしの横でそう語りかけて来る黄皓に、劉禅は心の安らぎを覚えた

「しかし、これからは違いまする。すでに魏では、陛下の滞在たいざいする屋敷やしきかしず下働したばたらきの者共ものどもなど、全て手配てはいされております。今までのように暮らし向きを我慢がまんなどせず、みかどらしいお暮らしが出来ますぞ。その後の事も、この黄皓にお任せ頂ければ、一旦いったん去った蜀の地も、また陛下へいかの手に取り戻してご覧に入れます。いくささえなければ、蜀は豊かな実りの地。陛下へいか先々さきざき順風満帆じゅんぷうまんぱんでございます。」

 黄皓の言葉ことばに、劉禅のほおゆるんだ。

「うむ、頼んだぞ。確かにおぬしに任せておけば、間違まちがいは無かろう。今のお主の言葉ことばを聞き、長安ちょうあんに入るのが楽しみになって来たぞ。」

 その時、返答へんとうをしようとした黄皓の歩みが突然とつぜん止まった。

 顔が天をあおぎ、目が白眼しろめになったと思うと、口から血泡ちあわを吹き出した。

 前のめりに倒れた黄皓の背には、矢が突き立っていた。

 それをたりにした劉禅は、あわてふためき絶叫ぜっきょうした。

「こ、れは、なんじゃ。 姜維の追撃ついげきか? を守る魏兵達ぎへいたちは何をしておったのじゃ。兵どもよ、余をまもれ‼︎ 不逞ふていやからから、余を護るのじゃ...」

 その声に、警護けいご魏兵達ぎへいたちあわてて劉禅の輿こしを取り巻き、一人の兵が黄皓を抱き起こした。

 しかし黄皓は、背中せなかから心臓しんぞう射抜いぬかれ、すで絶命ぜつめいしていた。

 それを見た劉禅の絶叫ぜっきょうに、警護けいご魏軍兵達ぎへいたち騒然そうぜんとなった。

襲撃しゅうげきだ‼︎ 敵が襲って来たぞ‼︎ みかどをおまもりしろ‼︎ 敵を打ち払うのだ‼︎」


 一方いっぽう、呉の孫休そんきゅう一行いっこうもまた、劉禅とは反対側はんたいがわ方向ほうこうから、長安ちょうあんに至る道筋みちすじを急いでいた。

 前方ぜんぽう輿こしった孫休を観ながら、馬の上でくつわを並べていたのは、僕陽興ぼくようこう張布ちょうふだった。

「これで良かったのだろうか?いくらみかどのご裁断さいだんとはいえ、建業をてるなどと...」

 後悔こうかい様子ようすを見せる僕陽興に、張布が声を掛けた。

「良かったと信じるしかありませぬ。孫休陛下そんきゅうへいかみずからが、そう決めてしまわれた以上、我等われらがなにを言ってもどうしようもありません。孫休様は、前帝ぜんてい宰相殿さいしょうどのに加えて、孫皓様そんこくさままで相手あいてにしなければならない状況じょうきょうに、自信じしんを無くされたのでしょう。それゆえ曹叡帝そうえいていの誘いに乗ってしまわれたのです。」

 そう言った張布は、僕陽興をはげますように言葉ことばを重ねた。

「しかし、孫皓様は水軍すいぐんを引き連れ、直ぐに建業けんぎょうに戻られましょう。勝負しょうぶはそれからです。建業に戻られた孫皓様は、必ず兵をまとめて国を従えます。その時こそ、孫皓様による呉の統一とういつを導く事が出来る筈です。」

「しかし...。あの陸遜りくそん様の言葉ことば、気になってならぬ。本当ほんとうに孫皓様で良いのか、私は迷っているのだ。」

今更いまさら何を言うのです。陸遜様の言葉ことばこそ戯言たわごとです。この世に、みかどを継ぐ孫家そんけ血筋ちすじが他にもいるなどと..。そもそも陸遜様は、その方の名前なまえすら口にはされなかったではないですか…。今は言えぬ、と言われるだけで……。」

 すると馬上ばじょうで話を交わす二人の前方ぜんぽうが、にわかに騒がしくなった。

曲者くせもの襲撃しゅうげきだ‼︎ 待ち伏せだぞ‼︎」

 警護兵達けいびへいたちの声に、僕陽興と張布は顔色かおいろを変えた。

だまされたのか、これは….。曹叡そうえい謀略ぼうりゃくであったのか?」

 二人の前方ぜんぽうでは、警護けいご魏兵達ぎへいたちに囲まれながら、懸命けんめい襲撃しゅうげきから逃れようとする孫休の輿こしが見えた。

 襲撃隊しゅうげきたいは、一時いっときは孫休を追う素振そぶりを見せたが、直ぐにその矛先ほこさきを変え、今度こんどは僕陽興と張布を取り囲んだ。

 剣を振るい、懸命けんめい応戦おうせんした僕陽興と張布だったが、一旦いったん下がった襲撃隊しゅうげきたいは、二人の周りを槍衾やりぶすまで囲むと、徐々じょじょにその円をちぢめていった。

「おのれ‼︎ 貴様きさまら、何者なにものだ‼︎ 何故なぜ我らだけを執拗しつように狙うのだ‼︎」

 そう叫んだ僕陽興に突き出された槍が、深々ふかぶか下腹したはらえぐった。

 その横で、張布も槍を浴びて落馬らくばした。

 襲撃隊しゅうげきたいは、地に倒れた二人に向けて一斉いっせいに槍を突き立てた。



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