第15話 陸遜の糾弾

 健業けんぎょうでは、みかど孫休そんきゅうが、僕陽興ぼくようこう張布ちょうふ宮廷きゅうてい一室いっしつに呼び出していた。

が、しょくに向けた布陣ふじんいて撤退てったいした。その上で、我国わがくにに対して、魏呉ぎご国境くにざかいにいる兵団へいだん、及び蜀に入った水軍すいぐんすみやかに撤収てっしゅうするように求めて来ておる。」

 うんざりした顔付きの孫休に向かって、僕陽興が口を開いた。

当然とうぜんでしょう。特に蜀に入った水軍すいぐんは、長江一帯ちょうこういったいの全てににらみをかせられる状態じょうたいとなっております。れは、魏にとっては相当そうとう脅威きょういとなっているはずですからな。」

 それに続けて、張布が言葉をつなげた。

今迄いままでと異なり、呉水軍ごすいぐん川下かわしもに向かって進撃しんげき出来る位置いちにおります。しかも雪解ゆきどけ水によって、長江ちょうこう水嵩みずかさが増している今、水軍すいぐん機動力きどうりょく倍増ばいぞうしております。何かあれば、地上ちじょうの軍の何倍なんばいもの速度そくど移動いどう出来ます。魏としては、一刻いっこくも早くこの水軍すいぐん撤収てっしゅうして貰いたいので御座いましょう。」

 目の前の二人の言葉ことばを聞いた孫休は、落ち着きなく眼を彷徨さまよわせた。

「水軍が蜀領内にまでもぐり込んだ事で、情勢は一変しておると言う事だな。それでどうすれば良い?」

 回答かいとうかすように椅子いす肘掛ひじかけを指で細かくたたく孫休に、僕陽興がさとすような顔で向き直った。

国境くにざかいの軍については、すみやかに撤収てっしゅうしても何の問題もんだいも御座いません。元々もともとは、魏が最初さいしょ国境くにざかいに向けて兵を出して来たのですから。しかし水軍すいぐんについては、簡単かんたんに魏の申し入れを受諾じゅだくするのは如何いかがなものかと....。あの水軍すいぐんが蜀にとどまる限り、魏は、蜀にも呉にも迂闊むやみ手出てだしは出来でき状態じょうたいにあります。このような有利ゆうりをみすみす手放てばなす事はありませぬ。」

 それを聞いた孫休が、不安気ふあんげな眼を二人に向けた。

「しかし....あたまから申し入れをこばめば、我国わがくにと魏の関係かんけい悪化あっかするぞ。確かに直ぐに魏が攻めて来る状況じぃうきょうではないが....。それに水軍すいぐん蜀領内しょくりょうないにいるのだぞ。万が一、水軍すいぐんに何かがあれば、魏が我らへの侵攻しんこう決断けつだんする事もあり得るではないか….」

 僕陽興は、孫休の覇気はきのない言動に、次第しだい苛立いらだちを感じ始めていた。

 もっとみかどらしく、どっしりかまえていただきたいものだが…。人任ひとまかせの優柔不断ゆうじゅうふだんさには困ったものだ…。

 そう思いながら、隣の張布に視線しせんを向けると、張布も同じように感じていたのか、孫休からの視界しかいの陰で小さく肩をすくめるのが見えた。

 僕陽興は気を取り直すと、顔を挙げて口を開いた。

「蜀にいる水軍すいぐんに何かあった場合...? それについては、孫皓そんこく様が蜀と折衝せっしょうをされましょう。蜀としても、みすみす強力きょうりょくな手札をつぶす事はありませぬ。」

 しかし、孫休の眼には、更に不安ふあんの色が増した。

「それは孫皓の存在感そんざいかん俄然がぜん強まるという事ではないか。周囲しゅういには、只でさえ厄介やっかいな奴らがいるのだぞ。宰相の孫淋そんりん、前帝の孫亮そんりょうが、常に暗躍あんやくしておる。この上、更に孫皓という面倒めんどう存在そんざいを抱え込む事になるのか。」

 そう言って、孫休は頭を抱えた。


 孫休の前から退出たいしゅつした僕陽興と張布は、王宮おうきゅうを出ると、ずっと無言むごんのまま建業けんぎょう街並まちなみを並んで歩いた。

 そしてある料理屋りょうりや辿たどり着くと、すでに僕陽興が予約よやくしていた個室こしつに入った。

 僕陽興が先に着座ちゃくざしたのを確認かくにんした張布が、卓をはさんだ向かい側に座ろうとすると、僕陽興がそれを押しとどめた。

 そして、自分の隣の席を指差ゆびさした。

「他に誰かが来るのですか?」

 怪訝けげんな顔で尋ねる張布に、僕陽興がうなづいた。

「うむ...実は…。今後の我らがどう動くべきかを相談そうだんするのに格好かっこう人物じんぶつを招いた。もうしばらくするとお見えになる筈だ。」

 それを聞いた張布は、僕陽興の隣に席を移すと、勢いよく腰を下ろした。

「悩ましい事になったな。孫皓様の此度こたびの働き、我々の期待以上きたいいじょうではあったが、ちと派手はで過ぎたと言う事になるか…..。あれほどまでにみかど警戒心けいかいしんあらわにされるとは….」

 僕陽興が嘆息たんそくすると、張布も横で疲れたように首を振った。

みかどあせっておられますな。しかしもっとみかどらしく毅然きぜんとして頂きたいものだ。お相手あいてをしていても疲れるばかりというのは困ったものだ。」


 その時、料理屋の女将おかみが、部屋へやの外から声をかけて来た。

「お連れの方がお見えです。」

 部屋へやの扉が開かれ、一人の壮年そうねん人物じんぶつが部屋の中へと入って来た。

 その人物じんぶつの顔を見た張布に、驚きの表情ひょうじょうが浮かんだ。

貴方様あなたさまは....陸遜りくそん様....。まさか貴方様におし頂けるとは....。どうぞ上座かみざにお座り下さい。」

 二人の前に姿を現したのは、元宰相もとさいしょうの陸遜だった。

 陸遜は、孫権帝末期そんけんていまっきに呉の宰相さいしょうつとめ、次期帝じきていめぐ皇室こうしつ紛争ふんそうに巻き込まれた人物じんぶつだった。

 陸遜は、皇族達こうぞくたちまわり、懸命けんめい説得せっとくり返して、紛争ふんそう収拾しゅうしゅうつとめた。

 しかし遂に果たせず、みずか宰相さいしょうの座を降りた。

 事前じぜん許可きょかなく突然辞職とつぜんじしょくした事に怒った孫権は、陸遜の財産ざいさん全てを没収ぼっしゅうした。

 陸遜はその処置しょち絶望ぜつぼうして、憤死ふんししたとされていた。

「陸遜様。いつ建業けんぎょうに戻られたのです? 貴方様あなたさま宮中きゅうちゅう自死じししたとも、山奥やまおく隠遁いんとんされたとも、様々さまざまうわさが御座いましたが..」

 着座ちゃくざするなり、張布からせっつくような口調くちょう質問しつもんを受けた陸遜は苦笑くしょうした。

「僕陽興殿が、隠遁いんとんしていた私の元に、先日書簡せんじつしょかん寄越よこした。また皇室内こうしつないいさかいがひどくなる危険きけんがあるので、力を貸して欲しいと...。今さら私をかつぎ出すなどよほど策にきゅうしていると感じたが、放って置く訳にもいかぬと思った。そこで山を降り、みやこに戻って来たという訳だ。」

「なるほど...左様さようで御座いましたか。」

 すると、陸遜が二人の顔を見て、直ぐに本題ほんだいに入った。

早速さっそくだが...。ずは貴方達あなたたちに言わなくてはならぬ事がある。僕陽興殿も張布殿も、次のみかどには孫皓様をしたいとお考えのようだが…..。」

「その通りです。その手順てじゅんについて陸遜様のお知恵ちえが欲しいのですが、何か?」

 怪訝けげんな顔を見せた僕陽興と張布の顔を見回みまわした陸遜は、居住いずまいを正すと、強い口調くちょうできっぱり言い放った。

「孫皓様はみかどには向かぬ。もっと言うならば、今の宮中きゅうちゅうみかどうつわるお方は誰一人だれひとりとしてらぬ。」

 突然とつぜんの陸遜の言葉ことばに、僕陽興と張布は唖然あぜんとした。

「な、何をおっしゃるのです。陸遜様は、孫皓様については良くご存じでないのでしょう? だからそうおっしゃるのかもしれません。しかし、今の皇族こうぞくみかどうつわに足るお方が誰もいないなどと...てなりませぬぞ。」

 強い口調くちょう抗議こうぎした張布に対して、陸遜はあわれむような視線しせんを向けた。

「気を悪くしたのなら申し訳ないが...。事実じじつは事実だ。貴方達あなたたちは、石ころの中から、玉石ぎょくせきを探そうとする徒労とろうをやっているのだ。」

益々ますます聞き捨てなりませぬ。そんの一族は、呉のいしずえを築いた孫堅そんけん様、孫策そんさく様、孫権そんけん様という英雄えいゆうを続けて産んだ血筋ちすじですぞ。その後継こうけいの方々を石ころなどと...。仮にも貴方あなたは、呉の宰相さいしょうまでつとめたお方なのに...」

 いきどおる張布を見た陸遜は、顔の前で片手を振った。

貴方あなたの言われるお三方さんかたを、ずっとはいして来たからこそ言っている。今の呉宮中ごきゅうちゅうに、あの方々かたがたに並び得る人物じんぶつなど、ただの一人も居らぬ。このままだと、呉は滅ぶしかあるまい。」

 更に口をはさもうと身を乗り出した張布を、陸遜は手で制した。

今上帝こんじょうていの孫休様、前帝ぜんていの孫亮様は、いずれも大局たいきょくる眼は持ち合わせてはらぬ。今の宰相さいしょうの孫淋殿も同様どうようだ。はっきり申し上げて凡庸ぼんようだ。あからさまに言うのははばかられるが、暗愚あんぐと言っても良い。この方々かたがたでは、いずれ押し寄せる魏の攻勢こうせいを押しとどめる事など無理むりでしょう。その事は貴方達あなたたちも分かっておいででしょう?」

「そ、それは...」

 言葉ことばに詰まる張布の横から、僕陽興が言葉を発した。

「だからこそ我等われらは、次の呉帝ごていとして、孫皓様に期待きたいたくしているのです。」

 陸遜の憐れむような視線しせんが、今度こんどは僕陽興をとらえた。

「それは誤りです。貴方達あなたたちは、私が孫皓様の事を知らないとおっしゃった。しかし、私が隠遁いんとんしている場所ばしょは、孫皓様があずかる所領しょりょうにあるのですよ。たみの声は、黙っていても聞こえて来ます。残念ざんねんながら、孫皓様の良きうわさを聞いた事はありませぬ。」

 陸遜の指摘してきに、僕陽興と張布は顔を見合わせた。

 そんな二人を見る陸遜の眼が鋭くなった。

「お二人は、孫皓様が、所領しょりょうまつりごとに対して意見いけん上申じょうしんした豪族達ごうぞくたちに対して、何をしたかご存知ぞんじですか?豪族達の棟梁とうりょう全てを捕縛ほばくし、処刑しょけいしたのですよ。」

「し、しかし..孫皓様に預けられた地は、昔から山賊共さんぞくども跋扈ばっこして来た事で有名ゆうめいな地。其れをたいらげる為には、多少たしょう荒療治あらりょうじもやむを得ないのでは...」

 僕陽興の弁明べんめいに、陸遜はふんと鼻を鳴らした。

「そうでしょうか? では孫皓様が、豪族のかしら達だけでなく、その一族いちぞくことごとくを女子供おんなこどもに至るまで皆殺みなごろしにした事もやむを得ないと...? れは、単なる恐怖政治きょうふせいじではありませんか?」

 答えに詰まる僕陽興に対して、陸遜はなお糾弾きゅうだんを続けた。

「それだけではない。孫皓様は狩猟しゅりょう趣味しゅみとされているが、あの方が狙う獲物えものは、山のけものや鳥だけではない。山林さんりん部落ぶらくから、れはと思った女を全て連れ去っては、自分じぶん屋敷やしき監禁かんきんしてもてあそんでいるのですぞ。恐怖政治きょうふせいじに加えて、度を過ぎた漁色りょうしょくれは暴君ぼうくんあかし以外いがい何者なにものでもない。貴方達あなたたちは、見た目の豪胆ごうたんさに眼を奪われて、その裏側うらがわにある孫皓様の恐ろしさから眼をそむけている。」

 容赦ようしゃなく孫皓を弾劾だんがいする陸遜を前に、僕陽興と張布は沈黙ちんもくした。

貴方達あなたたちは、誰の為のまつりごと目指めざしているのです? 孫家そんけ存続そんぞくさえあれば、それで良いのですか?本来、政治せいじというものは、たみ安定あんていした暮らしを与え、平和へいわ保持ほじする為に行われるべきもの。それなのに、貴方達は真逆まぎゃく選択せんたくをしようとしている。」

 にらみつけるような陸遜の視線しせんを受けて、僕陽興と張布は眼を伏せた。

 やがて張布が顔を挙げると、声をしぼり出した。

「では、どうしろとおっしゃるのです?」

「孫皓様では駄目だめ。孫休様も、孫亮様も、宰相の孫淋殿も...。貴方あなたは、全ての方々かたがた否定ひていされた。そして宮中きゅうちゅうには、みかどうつわに見合う人物じんぶつはいないとまで断言だんげんされた。孫家以外そんけいがい帝位ていい禅譲ぜんじょうせよとおっしゃりたいのですか? それでは人心じんしんたばねる事は不可能ふかのうです。」

 すがるような張布の問いを受けて、陸遜は二人を見据みすえた。

「確かに私は、今の宮中にはみかどの座に相応ふさわしい方はいない...と言った。しかし....」

 一旦言葉いったんことばを切った陸遜の視線しせんが更に強くなり、僕陽興と張布は息を呑んだ。

孫家そんけ血筋ちすじに、みかど相応ふさわしい方が誰も居ない...とは言っておりませぬ。その方は、今の宮中きゅうちゅうにはいらっしゃらないだけです。」

 その言葉ことばに、僕陽興と張布は、思わず腰を浮かした。

「な、なんと...。今なんとおっしゃった? 隠れた孫家そんけ血筋ちすじが、宮中以外きゅうちゅういがいにおられると言うのですか?しかも陸遜殿は、その方がみかど相応ふさわしいと....。その方は誰方どなたで、何処どこにいらっしゃるのです?」

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