第12話 連環の計

 【《連環れんかんけい》。それは、有名ゆうめい赤壁せきへきの戦いにおいて、呉の周瑜しゅうゆが用いた奇策きさくである。赤壁せきへきの戦いを語る時には、諸葛亮孔明しょかつりょうこうめい東風ひがしかぜを呼んだ奇跡きせき注目ちゅうもくされがちである。しかし、魏の全水軍ぜんすいぐん壊滅かいめつさせたのは、連環れんかんけいによるところが大きい。

これ以降いこう、船に対しては火攻ひぜめが有効ゆうこうという定石じょうせきが、世に知れ渡る事となった。】


 湖碧こへき目指めざ孫皓そんこく一行いっこうは、川筋かわすじ崖上がけうえで歩みを進めていた。

 長江ちょうこう蜀領内しょくりょうないに達する手前てまえにある湖碧が視界しかいに入ると、一行いっこうは歩みを止めて前方ぜんぽうに広がる景色けしきに眼をった。

 湖碧こへき...。それは長江ちょうこうの流れが、此処ここだけは流れがよどみ、水面みなもが湖のような緑色をたたえる事から名付けられた地名ちめいだった。

 湖碧の地は、狭くすぼまった川幅かわはば両側りょうがわが、切り立った絶壁ぜっぺきはさまれていた。

「なるほど。れは魏が待ち伏せるには格好かっこう地形ちけいだな。しかし姜維殿の言う策にも、確かに格好かっこうだな。」

 そう言った孫皓は、改めて眼下がんかに見える湖碧こへき川面かわもに眼を落とした。

 眼下がんか水面みなもは、一面いちめんが濃い緑色みどりいろに沈み、崖上がけうえから見ると水の流れを全く感じさせなかった。

 これがあの広大こうだい長江ちょうこうか?….と疑う程に、湖碧こへき川幅かわはばは狭かった。

 孫皓達の立つ崖上がけうえからは、対岸たいがんせせり立つ岩壁いわかべ群生ぐんせいするつたの一本一本まで、はっきりと視界しかいとらえる事が出来た。

 確かに、この狭い両岸りょうがん崖上がけうえ投石器とうせきき設置せっちすれば、此処ここ通過つうかしようとする船は、全て射程しゃていに捉える事が出来るだろうと、孫皓は思った。


「孫皓様、あと半刻はんこくほどで我が水軍すいぐん到達とうたつします。迎え撃つ魏の兵達へいたち到着とうちゃくは、その前になると思いますが....」

 従者じゅうしゃの声に、孫皓は殊更ことさら落ち着きをよそおった声音こわねで答えた。

「分かっておる。早々そうそう川下かわしも峡谷きょうこくに人を出して、我が水軍すいぐん、そして蜀の工作隊こうさくたいとの連絡れんらくを取れ。」

 それを聞いて、孫皓に従っていた二人の従者じゅうしゃが、直ぐに駆け出した。

 向かったのは、此処ここから半里はんりほど先の湖碧への入り口。

 長江ちょうこうの流れが、そこで一時停滞いちじていたいする直前ちょくぜん場所ばしょだった。

 連絡れんらくに向かわせた従者達じゅうしゃたちが一行を離れた後、しばらく待つと川上方面かわかみほうめんから軍靴ぐんかの音が、孫皓達の耳に届いて来た。

 それを認めた孫皓達は、峡谷きょうこくの上の林に身をひそめた。

 やがて姿を現した二百名余の魏軍兵達ぎぐんへいたちは、湖碧こへき崖上がけうえ布陣ふじんし、それに遅れて何頭なんとうもの馬に引かれた荷馬車隊にばしゃたい到着とうちゃくした。

 荷馬車隊に積まれていたのは、十台ほどの巨大きょだい投石機とうせききだった。

「孫皓様。対岸たいがんにも、同じように魏軍ぎぐんがやって来ました。」

 孫皓達が林の中から見守みまもる中、湖碧こへき両岸りょうがん崖上がけうえ到着とうちゃくした魏兵達ぎへいたちは、投石機とうせきき次々つぎつぎ荷台にだいから降ろすと、それらを峡谷きょうこく崖端がけはし次々つぎつぎ設置せっちして行った。

 その後、設置された投石機とうせききそばには油のつぼと、篝火かがりび準備じゅんびされた。

「やはり魏も、この地に眼を付けたか。姜維殿の見込み通りと言う事だな。さて此処ここからが勝負しょうぶだな。本当ほんとうに姜維殿の言う通りに上手うまく行くかどうか?...。なんと言っても常識外じょうしきがいの策だからな...」

 そうつぶやく孫皓の耳に、魏軍将校ぎぐんしょうこうが発する命令めいれいの声が聞こえた。

呉水軍ごすいぐんが、そろそろ来るぞ‼︎ 大石おおいしに油をれ。火矢ひや準備じゅんび開始かいしせよ‼︎」


 魏軍将校ぎぐんしぃうこう言葉通ことばとおり、呉水軍ごすいぐんはその時にはすで川下かわしも峡谷きょうこくを抜け、湖碧峡谷こへききょうこく手前てまえへと達していた。

 呉水軍ごすいぐん船上せんじょうでは、指揮官しきかん大史享だいしきょう見張みはりの兵からの報告ほうこくに、眼を丸くしていた。

「何だと…。次の湖碧峡谷こへききょうこくに差し掛かる前に、全ての船をくさりつなげと、孫皓大提督そんとくだいていとくが伝えて来ただと...。何かの間違まちがいではないのか?」

 大史恭の問いに、副官ふくかん戸惑とまどったように答えを返した。

「いえ、確かです。先程さきほど通り過ぎた場所で、孫皓大提督そんこくだいていとくからの使いの兵が、崖上がけうえからかがみを使って知らせて来ました。確認かくにん合言葉あいことば一致いっちしておりました。孫皓様からの指示しじ間違まちがい御座いません。」

 大史享は、かつて呉の英雄えいゆうと呼ばれた大史慈だいしじ息子むすこだった。

 父の亡き後、水軍将校すいぐんしょうこうとなり、今は参謀さんぼうにまで出世しゅっせしていた。

 そして今回こんかい遠征えんせいでは、遠征軍えんせいぐん指揮官しきかん拝命はいめいしていた。

 剛勇ごうゆうだった父とは正反対せいはんたい知性派ちせいはで、各種かくしゅ軍略ぐんりゃくにも通じていた大史享は、その命令めいれい意味いみするものを直ぐに読み取った。

れは、連環れんかんけいではないか...。かつ赤壁せきへきたたかいの折に、周瑜大提督しゅうゆだいていとくが、魏軍ぎぐん仕掛しかけた策だ。全ての船を鎖でつなぎ、一枚岩いちまいがんにするという...」

 大史恭は、腕組みをした。

赤壁せきへきの戦いの時には、連環れんかんの計にはまった魏の船団せんだんに我が軍が火計かけい仕掛しかけて、魏水軍ぎすいぐん壊滅かいめつさせている。今度こんど我々自身われわれじしんがその連環れんかんを行えと言うのか? この先の峡谷きょうこくでは、魏軍ぎぐんが待ち構えている可能性かのうせいが高い。そこで攻めて来るなら火攻ひぜめだろう。それが分かっていながら、何故なぜ連環の計などを命じて来たのだ?....」

 大史享は、船上せんじょうしばし考え込んだ。


連環れんかんけい』。それは、かつて魏が大水軍をようして呉に攻め入って来た時に、呉の宰相さいしょうだった周瑜しゅうゆもちいた奇策きさくだった。

 水上すいじょう対峙たいじした魏と呉の船団せんだんは、長期ちょうきにらみ合いに入っていた。

 この時周瑜は、水上生活すいじょうせいかつに不慣れな魏軍兵達ぎぐんへいたち船酔ふなよいに苦しんでいる事に気付いた。

 そこで、魏陣ぎじん潜入せんにゅうさせた間諜かんちょう手引てびきをさせて、全ての船をくさり渡板わたしいたつながせたのである。

 これによって、魏の船団せんだん巨大きょだいな一つの島のようになった。

 そうなる事で船の揺れは収まり、魏軍兵ぎぐんへい船酔ふなよいも収まったが、周瑜しゅうゆの狙いは別にあった。

 蜀から来ていた諸葛亮孔明しょかつりょうこうめいが、季節風きせつふうの変わり目を読みき、大河たいがに強い東風ひがしかぜが吹き始めた夜に、大量たいりょうわらを積んだ無人船団むじんせんだん仕立したてて、それに火を放って魏船団ぎせんだんへと突入とつにゅうさせたのである。

 全ての船が繋がれた魏船団ぎせんだんでは、その火が次々つぎつぎ引火いんかし、船団はあっという間に巨大きょだいな火の島へと転じた。

 その結果けっか、魏軍は大敗北だいはいぼくきっしたのである。

 この時、魏船団ぎせんだん停泊ていはくしていた峡谷きょうこく岩壁がんぺきは、さかる多くの船の火災かさいによって赤く染まり、それゆえにこの地は、その後『赤壁せきへき』と呼ばれるようになった。


「あの連環れんかんを、今度こんどは我が軍がみずから行え...と言うのか...」

 考え込む大史享だいしきょうを見て、しびれを切らした副将ふくしょうが言葉を発した。

将軍しょうぐん何時迄いつまで考え込んでいても、らちがあきませんぞ...」

 その言葉ことばに、大史享はようやく意を決して顔を挙げた。

「孫皓様がえて命じて来たとあれば、何か深慮しんりょがあろう。よし全艦ぜんかんを鎖でつなげ。船同士ふねどうし接触せっしょくを防ぐ為に、鉄棒てつぼう一緒いっしょに渡すのだ。」

 こうして、呉の船団せんだんは、鎖と鉄棒てつぼうで繋がれた一つの巨大船きょだいせんへと変貌へんぼうし、川上かわかみに向かって進み始めた。

 湖碧こへき崖上がけうえで待ち構える魏の兵達へいたちの眼に、呉の船団えんだんの姿が見え始めた。

 すると呉船団ごせんだん様子ようすを見た魏の指揮官しきかんが首をひねった。

何故なぜ船同士ふねどうしが繋がれているのだ? これは何の意味いみだ?」

 その指揮官しきかんの声を耳にした副将ふくしょうがすぐさま応えた。

好都合こうつごうですぞ。あの船団せんだんの真ん中に、油にれた大石おおいしに火を付けて撃ち込めば、呉の船団せんだんまたた火達磨ひだるまとなりましょう。迷う事は有りませぬ。直ぐに攻撃こうげき仕掛しかけましょう。」

 副官ふくかんの声を聞いて、指揮官しきかんも直ぐに決断けつだんした。

「うむ...。この峡谷きょうこくを越えれば、蜀領しょくりょう間近まぢか..。此処ここを越える所作しょさを見せれば、直ぐに攻撃こうげきせよと言うのが、上からの指示しじだ。よし....攻撃体勢こうげきたいせいに入れ‼︎」


 やがて呉船団ごせんだん湖碧峡谷こへききょうこくに差し掛かった。

 その直前ちょくぜん湖碧こへき手前てまえにある川下かわしも峡谷きょうこくでは、蜀の工作隊こうさくたい崖上がけうえから呉船団ごせんだんの動きを見守っていた。

「呉船団、もう少しで湖碧峡谷こへききょうこく入口いりぐちに達するとの事です。」

 偵察兵ていさつへいよりの連絡れんらくを受けた工作隊こうさくたい指揮官しきかんは、そこで合図あいずの手を挙げた。

「よし。一斉いっせいつつみを切れ‼︎」

 号令ごうれいと共に、峡谷一帯きょうこくいったいおのを打ち付ける大音響だいおんきょうひびき渡った。

 その直後ちょくごに、峡谷きょうこく崖上がけうえのあちこちから、巨大な水柱みずばしらが立ち登り、すさまじい勢いで崖下の川面かわもへと雪崩なだれ落ちていった。

 その轟音ごうおんを、呉船団ごせんだんの皆は、すぐそば湖碧入口こへきいりぐちで耳にした。

「な、何だ、あの音は....?」

 その時、一番後方いちばんこうほうの船から見張兵みはりへい悲鳴ひめいが伝わって来た。

「お、大波おおなみだ...!! 後ろから大波が来る!!」

馬鹿ばかを言え‼︎ 後方こうほう川下かわしもではないか...何故なぜ川下から大波おおなみが来るのだ..?」

 船上せんじょう全員ぜんいん驚愕きょうがくと混乱に包まれた。

 その直後ちょくご船団せんだん後方こうほうから白い波頭なみがしらを立てた大波おおなみが迫って来るのが,、兵達へいたちの眼に映った。

 いきなり川下かわしもから襲って来た大波大波を見てきもつぶしたのは、峡谷きょうこくの上にいた魏軍ぎぐん兵達へいたち同様どうようだった。

「な、何だ、れは!! 何が起こったんだ!! 」

 いきなり襲って来た大波おおなみ呆然ぼうぜん見守みまもる魏軍兵の眼下がんかに、その大波にまれながら、湖碧こへきに向かって突っ込んで来る呉船団ごせんだんの姿があった。

 船団を波頭なみがしらせた大波おおなみは、狭い湖碧こへき峡谷きょうこくに達すると、激流げきりゅうへと変貌へんぼうした。

 その激流げきりゅうに乗って、船団せんだん急速きゅうそくにその船足ふなあしを増した。

 それを見て、崖上がけうえにいた魏軍兵達ぎぐんへいたちあわてた。

「な、何をしている!! 直ぐに攻撃こうげきだ‼︎ 投石機とうせききを撃て‼︎ 火を撃つのだ!!」

 崖上がけうえで叫ぶ魏軍指揮官ぎぐんしきかんの声を嘲笑あざわらうように、激流げきりゅうに乗った呉の船団せんだんは、さらにその速度そくどを早めた。

 そして、魏軍ぎぐんが上に立つ峡谷きょうこくをあっという間にすり抜けていった。

 大急流だいきゅうりゅうに乗って、湖碧峡谷こへききょうこくを抜けた呉船団ごせんだんは、やがて水の流れが落ち着いた水上すいじょうで緩やかな船足ふなあしへと戻った。

 そしてその船上せんじょうでは、大史享だいしきょう副将ふくしょうが、まだ信じられない表情ひょうじょうで顔を見合わせていた。

れが孫皓様の策か...。しかし幾らなんでも、このような....」


 呉の船団せんだん湖碧こへきを抜けて蜀領しょくりょうに達したとの知らせは、夏侯覇かこうはを失なって士気しきが下がった魏軍に追撃ついげきを仕掛けていた姜維きょうい達の元へと届けられた。

華真かしん殿、お見事みごとです。まんまと策が的中てきちゅうしましたな!!」

 姜維の歓声かんせいに、華真はいつも通り静かに笑って応えた。

「あの場所ばしょは、川の流れがよどんで、流れが逆流ぎゃくりゅうする事が起こりやすい所なのです。崖上がけうえにあった雪解ゆきどけ水で出来た自然湖しぜんこから即席そくせき水路すいろを通して、一気いっき放水ほうすいする事でそれを増幅ぞうふくさせたのですが……。満点まんてん出来できでしたね。」

「様子をていた者からの知らせでは、津波つなみのような大波おおなみであったとか...。船同士をつないでおかねば、転覆てんぷくした船も多く出たでしょう。待ち構えていた魏軍ぎぐんは、予想外よそうがい事態じたいに、攻撃こうげきらしい攻撃をするいとますら無かったそうです。いやはや、見事みごとな策としか言いようが有りません。」

 姜維からの賛辞さんじ冷静れいせい表情ひょうじょうで受けとめた華真は、その後に気の毒そうな視線しせんを姜維に返した。

 その視線を感じた姜維は、不思議ふしぎそうに華真を見た。

 すると、華真が、姜維に向かって言った。

「姜維殿。喜んでばかりはいられませんよ。これから先、孫皓殿がすさまじい勢いで要求ようきゅうかさねて来るでしょう。それにどう対応たいおうするか、よく考えをまとめておいて下さい。大変たいへんとは思いますが、これも宰相殿さいしょうどの御役目おやくめです。」

 それを聞いた姜維は、笑顔えがおから一変いっぺんして、げんなりとした顔になった。




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