第10話 夏侯覇、動く

それからニ十日はつか後、に潜入していた偵察兵ていさつへいが、知らせをたずさえて長安ちょうあんに戻って来た。

父上ちちうえ。呉の水軍すいぐんが動きましたぞ。すで船隊せんたいととのえて、長江ちょうこう遡上そじょうしております。船隊せんたい兵数へいすうは約一万。蜀領内しょくりょうないに向かっております。」

司馬昭しばしょうからの報告ほうこくに、司馬懿しばい苦虫にがむしんだような表情ひょうじょうを見せた。

「本当に水軍を動かしたのか‼︎ 小癪こしゃく真似まねを。今の長江ちょうこうの流れは、いまゆるやかだが、雪解ゆきどけ時期ともなれば増水ぞうすいして急流きゅうりゅうとなるので遡上そじょう支障ししょうが出る。今しかないという事だな。」

怒りを含んだ司馬懿の声に対して、司馬昭が予想外よそうがいだったという顔で発言はつげんした。

「それにしても、呉は早く決断けつだんしましたな。このような速断そくだん、今の呉の者共ものどもには無理むりと思っておりましたが...」

 司馬昭の言葉ことばに、司馬懿も思いを外された表情ひょうじょうを見せた。

孫皓そんこくという男、意外いがいにやるではないか。今の今、どのようにして水軍すいぐんを動かしたかも含めて、今後こんごの呉をる時、この者には注意ちゅういせねばならぬな。ともあれ、直ぐに長江沿ちょうこうぞいで、呉戦隊かんかい襲撃しゅうげき出来る地点ちてんの洗い出しにかかれ。」

「もうやっております。蜀と荊州けいしゅう国境くにざかいに近い場所ばしょに、湖碧こへきという狭い渓谷きょうこくを見つけてあります。」

司馬昭は、湖碧峡谷こへききょうこくについての報告ほうこくを始めた。

湖碧こへきは、両岸りょうがんから川に向かって岩壁がんぺきり出しており、崖上がけうえから戦隊せんたい攻撃こうげきするには格好かっこう場所ばしょです。弩弓どきゅうならば甲板かんぱんはちに出来ますし、投石機とうせきき射程内しゃていないです。」

 それを聞いた司馬懿が、直ぐに指示しじを出した。

「よし。蜀に派遣はけんしている軍の一部いちぶき、湖碧こへき派遣はけんせよ。呉戦隊ごせんたいが我が軍を見ても引き返さぬようなら、攻撃こうげき命令めいれいを出せ。」

承知しょうちしました。蜀の国境くにざかい後詰ごづめの軍の一部いちぶ湖碧こへきへと向かわせて、待ち伏せさせるようにします。」


魏軍の動きは、直ぐにしょく前線本部ぜんせんほんぶにも、偵察兵ていさつへいによって知らされて来た。

宰相さいしょう。魏が動きましたぞ。後詰ごづめの兵のうち、四個小隊よんこしょうたい南下なんかして長江ちょうこうに向かいました。」

王平(おうへい)からの報告ほうこくに、姜維きょうい予測通よそくどおりという表情ひょうじょううなづいた。

「よし。我が軍の工兵隊こうさくたいは、すで移動いどう開始かいししておろうな? 南下なんかしてくる魏軍ぎぐん工兵隊こうさくたいの動きを察知さっちされぬように、十分じゅうぶん注意ちゅういを払えと伝えよ。」

姜維の横にいた王平が、力強くおのれの胸をたたいた。

呉水軍ごすいぐん到達とうたつまで五日。いよいよ勝負しょうぶの時が、やってきましたね。」


そして五日後。

魏の前線ぜんせんにいる夏侯覇かこうはの元に、斥候兵せっこうへいからの報告ほうこくが入った。

「何? 南の荊州けいしゅう街道かいどうを、大規模だいきぼ荷馬車隊にばしゃたい行進こうしんして、蜀に向かって来ているだと....。其奴そやつらが何者なにものかは、分かっておるのか?」

総大将そうだいしょうからの直々じきじきの問いに、斥候兵せっこうへい緊張きんちょうした声音こわねで答えた。

「判りません...。しかし馬車ばしゃの荷は、干米ほしごめのようです。軍糧ぐんろうと思われます。恐らく食糧しょくりょう不足ふそくしている蜀軍しょくぐん補給ほきゅうに来たのではないでしょうか….。」

それを聞いた夏侯覇の眼が光った。

「そうか...。呉は、水軍すいぐんを送っただけでなく、同時どうじ糧食りょうしょくも運んで来たのだな。このままでは、兵糧ひょうろうが蜀の手元てもとに入ってしまう。直ぐに出陣しゅつじんだ。その荷馬車隊にばしゃたいを襲い、荷を奪うのだ。」

いさんで立ち上がった夏侯覇の前に、司馬炎しばえんが立ちはだかった。

「お待ち下さい。総大将そうだいしょうがそちらに向かえば、前線ぜんせん指揮しきるものがいなくなりますぞ。」

そう言った司馬炎に向かって、夏侯覇が吠(ほ)えた。

「あの荷が蜀の手に入らぬ限り、蜀軍しょくぐん今後こんごの動きは封じられる。ならば、荷馬車隊にばしゃたいを止めに我々われわれが向かったと知れば、蜀軍はそれを止めに追撃ついげきしてくる。だからこそ、此処ここは俺でなくては駄目だめなのだ。前に言っただろう。いくさには臨機応変りんきおうへん必要ひつようだと。此処ここで俺が、みすみす兵糧ひょうろうが蜀に届くのを、指をくわえて見ていると思うのか!!」

そう言うと、夏侯覇は立ち上がって出陣しゅつじんを命じた。

 足早あしばやに場を立ち去る夏侯覇の後を、あわてて司馬炎が追った。

「お待ち下さい、将軍しょうぐん!! 状況把握じょうきょうはあくいま不十分ふじゅうぶんです。敵の罠があるやもしれません!!」

夏侯覇は司馬炎を振り返ると、せせら笑うように吐き捨てた。

「言ったはずだ。動くべき時を見つけたら、俺は躊躇ちゅうちょなく動くと….。優柔不断ゆうじゅうふだんなお前は、後ろで見物けんぶつを決め込んでいると良かろう。それが、お前には似合にあっている!!」

 夏侯覇は数百騎すうひゃっき騎馬隊きばたいを直ぐにととのえると、みずか先頭せんとうに立って馬を走らせ始めた。

夏侯覇の騎馬隊は、馬をって走りに走り、やがて街道かいどうを下にのぞ丘陵きゅうりょうの上に達した。眼下がんかには、長い隊列たいれつを組んで進んでくる荷馬車にばしゃの群れが見えた。

 それを見た夏侯覇が、直ぐに命令めいれいを発した。

「よし、逆落さかおとしの攻撃こうげきで、一気いっき蹴散けちらすぞ!!」

その時、横に立つ副将ふくしょうが叫んだ。

将軍しょうぐん、お待ちください。あれは...」

副将ふくしょう指差ゆびさす先に眼をやった夏侯覇が見たのは、丘陵きゅうりょうふもとにある灌木かんぼくしげみからき立つように現れた数百の軍勢ぐんぜいだった。

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