第9話 呉より、使者来たる

 夏侯覇かこうはひきいる本隊ほんたいが、蜀軍しょくぐんと接する前線ぜんせん到着とうちゃくしてから二十日はつか余りが過ぎた。

 しかし、いまだに本国ほんごくからの攻撃指令こうげきしれいは無かった。

 の都である長安ちょうあんでは、司馬懿しばい司馬昭しばしょうが、前線ぜんせん状況じょうきょうについて話し合っていた。

「どうだ?夏侯覇の様子ようすは...? そろそろしびれを切らしておる頃ではないか?」

 司馬懿の問いに、司馬昭は含み笑いを返した。

「そうですな。夏侯覇の軍に帯同たいどうさせた司馬炎しばえんからの報告ほうこくでは、我々に対する不満ふまんを、あからさまに周囲しゅういにぶつけてるそうです。」

癇癪かんしゃくはじけるのも間近まぢかのようだな。蜀の方も、糧食りょうしょく心細こころぼそいのであせりがあるであろう。近々ちかぢか蜀側から動きがあるやもしれぬ。その時は、夏侯覇には軍を下げろと伝えよ。此方側こちらがわに蜀軍を引き込むのだ。糧食りょうしょくが少ない蜀は、前線ぜんせんを上げても何日なんにち此方こちらとどまる事は出来ぬ。そこで夏侯覇が、命令にそむいて何かしでかせば、それはそれで思うつぼだ。」

 その言葉ことばうなづいた司馬昭が、やや居住いずまいを正した。

「ところで、呉で気になる動きがあります。」

「何だ? 我国わがくにとの国境くにざかいに軍でも派遣はけんして来たか? 呉蜀ごしょくは、表向おもてむきは同盟どうめいを結んでおるからな。動きがあっても不思議ふしぎではない。」

「いえ..。呉から国境くにざかいへの進軍しんぐんは今のところは有りません。ただし、皇族こうぞくの一人である孫皓そんこくが蜀に向かったそうです。形だけの使者ししゃではなく、わざわざ皇族こうぞくの孫皓を派遣はけんした所に引っかかりを感じます。」

 司馬懿は、何かを思い出そうとするように視線しせんを泳がせた。

「孫皓….? あぁ、今の呉の皇族こうぞくの中では、珍しくきもわった男だったな。」

「そうです。今の呉は、皇族同士こうぞくどうし権力争けんりょくあらそいで弱体化じゃくたいかしつつあります。今のみかども、宰相さいしょうも、孫氏そんし一族いちぞくですが、うつわは大した事はありませぬ。しかし孫皓は別です。豪放磊落ごうほうらいらく性格せいかくで、周囲しゅうい期待きたいも高いと聞いております。父が廃嫡はいちゃくされた太子たいしなので、それが帝位ていいへの障害しょうがいになってはおりますが...」

 司馬昭の説明せつめいに、司馬懿は今度こんどは直ぐにうなづいた。

「うむ...。お前の言う通り、れは何かありそうだ。お前の見立みたては?」

 司馬懿にうながされて、司馬昭が口を開いた。

ず一つは、今の呉の皇族同士こうぞくどうし紛争ふんそう渦中かちゅうから、孫皓を切り離す事。魏蜀ぎしょく戦端せんたんを開けば、呉にも動揺どうようが走ります。孫皓は呉の中では主戦派しゅせんはですから、静観せいかんを決め込みたい宰相さいしょうの孫淋にとっては面倒めんどうな男です。そうなると孫皓の周辺しゅうへんには、危険きけん渦巻うずまきます。ずその危険を避ける為の側近そっきん画策かくさくと考える事ができます。もう一つは、孫皓の派遣はけんによって、呉蜀ごしょく同盟どうめいの在り方を変えようとしているのではありますまいか?」

 司馬昭の分析ぶんせきに、司馬懿は満足まんぞくそうにうなずいた。

「大いにあり得る話だな。今の呉の力では、我が国と正面しょうめんから戦うのは避けたいはず。しかししたまま蜀がほろびれば、我々われわれが次に呉を目指す事もよく分かっておろう。それゆえの動きである事は間違まちがいない。」

 司馬懿からの同意どういを得た司馬昭は、更に言葉ことばを続けた。

「孫皓は、今は水軍すいぐん大提督だいていとく地位ちいにあります。混乱こんらん最中さなかとはいえ、呉の水軍すいぐんの力はあなどれませぬ。あの赤壁せきへきの戦い以降、魏は呉との水軍決戦すいぐんけっせん回避かいひして来ました。無理むり呉水軍ごすいぐんとぶつからずとも、呉の弱体化じゃくたいか可能かのうでしたから…。しかし此度こたびは、水軍すいぐんを使って蜀と何らかの取引とりひき画策かくさくするやもしれませぬな。」

 それを聞いた司馬懿は、意を決したように顔を挙げた。

上手うまくその事が運べば、呉内部ごないぶでの孫皓の評判ひょうばんは大きく上がるであろうな。蜀で人質ひとじちになる危険きけんおかしてでも、けるだけの価値かちはあるという事だな。よし、我国わがくにと呉との国境くにざかいに軍を差し向けて牽制けんせいにかかれ。妙な真似まねをすれば、ただでは済まさぬという意思表示いしひょうじをするのだ。」

 司馬懿から指示しじを受けた司馬昭は、ややしぶ表情ひょうじょうを作った。

魏軍ぎぐん主力しゅりょくは、現在は蜀に派遣はけんしております。この段階だんかいで呉にも派兵はへいとなれば、戦線せんせんを二つ作る事になってしまいますが...」

 すると、司馬懿は直ぐに手を振った。

「呉との国境くにざかい派遣はけんする軍は、あくまでも牽制けんせいだけのものだ。相手あいてから仕掛しかけて来る事は、間違まちがってもあり得ぬ。しかし威嚇いかくには数は必要ひつようだな。調練中くんれんちゅう新兵達しんぺいたち遠征えんせいさせて形をととのえよ。呉の水軍すいぐんの動きにも注意ちゅういを配っておけ。何かあれば長江ちょうこうさかのぼるだろう。」

 それを聞いた司馬昭が、司馬懿に頭を下げた。

承知しょうちしました。しかし呉が直ぐに水軍すいぐんを動かせるかどうか...。雪解ゆきど時期じきになれば、流れが急になり、遡上そじょう難作業なんさぎょうとなりますから...」


 司馬懿と司馬昭が話題わだいに上げた孫皓は、その時にはすでに蜀に到着とうちゃくし、姜維きょういの元をおとずれていた。

長旅ながたびで、さぞお疲れでしょう。しかし成都せいとではなく、直接ちょくせつ前線ぜんせんたずねて来られるとは思いませんでした。」

 姜維きょういは、そう言って孫皓を迎えた。

成都せいとうかがっても、我らの同盟どうめいの話を真剣しんけんわせる相手あいてはおられぬと思いましてね。失礼しつれいながら、蜀帝しょくてい周辺しゅうへん方々かたがたは、本当ほんとうに魏に対峙たいじする気概きがいをお持ちなのですかな? 此処ここにははなは疑問ぎもんを感じております。」

 そう言いながらさかんに右肘みぎひじを回す孫皓の姿に、姜維は思わず苦笑くしょうした。

れは....随分ずいぶんとはっきりとした物言ものいいをされますね。孫皓様は豪放ごうほうなお方と聞いておりましたが、うわさ通りですね。しかし余りにけな発言はつげんばかりをされていると、呉の内部ないぶでは、反発はんぱつをする者も多いのでは有りませんか?」

 すると孫皓は、にやりと笑って姜維の顔を見据みすえた。

「はっきりと物を言われるのは、姜維殿も同じではありませんか。やはり此方こちらたずねて正解だったようだ。このような緊迫きんぱくした時に、腹のさぐり合いは無駄むだですからな。」

「ふむ。それで今言われた同盟どうめいの話とは...?何か新しいご提案ていあんをお持ちなのですか?」

 姜維の問いに対して、孫皓は両手のこぶしおのれの胸の前で打ち合わせた。

「それです‼︎。今迄いままで呉蜀ごしょく同盟どうめいというのは、手をたずさえて、南と西から各々おのおのが魏にいどむというものでした。しかし実際じっさいの所、魏の戦力せんりょくは我ら二国の倍以上ばいいじょうは有ります。それに分散ぶんさんして立ち向かっても勝機しょうき見出みいだせない。呉蜀ごしょく戦力せんりょくを合わせる新たなやり方をさぐるべきです。」

 一方的いっぽうてき宣言せんげんするような孫皓の態度たいど不快ふかいを覚えながらも、姜維は同意どうい意思いしを示した。

「ごもっともな指摘してきです。そのような事が出来れば、状況じょうきょう一変いっぺんしますな。そうなると、孫皓様のご提案ていあんかなめとなるのは、陸上りくじょういくさだけではないのですね。呉が誇る水軍すいぐん出動しゅつどうさせようと言うことですか?」

 姜維の言葉ことばを聞いて、孫皓の顔に興奮こうふんが浮かんだ。

「さすがに姜維殿だ。さっしが早い。その通りです。陸戦りくせんに頼るだけでは、魏の底力そこぢからはばまれて、我ら二国の優位ゆういは作りがたい。しかし水軍すいぐんを使うとなれば話は別です。長大ちょうだい長江ちょうこう利用りようすれば、二国の戦力せんりょく連携れんけいは可能です。今の蜀にも、それが必要ひつようなのでは有りませんか?」

 興奮こうふんしてともすれば早口はやくちになる孫皓をなだめるように、姜維はゆっくり言葉ことばを返した。

「孫皓殿は、呉水軍ごすいぐん大総督だいていとく地位ちいにおられますから、それゆえ御意見ごいけんとお見受みうけします。しかし失礼しつれいながら、今の呉の政局せいきょくの中、魏とやいばまじえる事に、王宮おうきゅう皆様みなさま一致いっち賛同さんどうされるかははなは疑問ぎもんです。」

 それを聞いた孫皓の眼に、獲物えものとらえた狩人かりうどのようなぎらつきが光った。

「痛い所を突いて来られますな。残念ざんねんながらその通りです。今の呉を、いきなり魏と本格的ほんかくてきな戦いをかまえる空気くうきに持って行く事はできません。しかし牽制けんせいだけなら話は別です。」

 此処ここからが本題ほんだいだとばかりに、孫皓はひざを乗り出した。

「呉も、今回のいくさで蜀が大敗たいはいして衰退すいたいしてしまうと困るのです。次は我が身になりますからな。しかし今迄いままでのように陸戦りくせんで魏の国境くにざかいおびやかすだけでは、魏にとっては本当の脅威きょういにはなりますまい。だから見直みなおしが必要ひつようなのです。」

 姜維は、孫皓の意図いと見通みとおした表情ひょうじょううなづいた。

「それでとら水軍すいぐんを使おうと言うのですね。呉としては本格的ほんかくてきな戦は望まぬが、水軍すいぐんを使った新たな局面きょくめんを示せれば、魏は兵を引かざるを得なくなる。そう言う事ですね。」

 孫皓は、その姜維の言葉ことばを捉えて、自分が望む話題わだいへと誘導ゆうどうした。

「そうです。しかしそれは一過性いっかせいのもので終わらせてはなりません。その後の蜀も呉も、魏に対して本格的ほんかくてき攻勢こうせいを行えるように、互いの体制たいせいを作り直さねばなりません。」

 姜維は、孫皓が望むものを、既にさっした顔になっていた。

「つまり、呉でそれが出来るように、我らが孫皓様に手を貸せ...とおっしゃりたいのですね。」

 孫皓の顔が、これで獲物えもの仕留しとめたという表情ひょうじょうになった。

「そこまでさっしておられるのなら話は早い。私が呉で実権じっけんを持てるように、蜀の支援しえんを頂きたい。そうすれば私も、今の成都せいと蜀帝しょくていまわりに蔓延はびこあし側近達そっきんたち一掃いっそうに力を貸しましょう。姜維殿の悩みの種なのでしょう?」

 これでどうだと言わんばかりの孫皓の声音こわねに、姜維は内心で舌打ちをしながらも笑みを取りつくろった。

「分かりました。利害りがい一致いっちという事ですね。しかし、今回こんかい呉水軍ごすいぐんの使い方については、私から提案ていあんがあります。魏と直接ちょくせつにはやいばまじえず、それでいて呉水軍ごすいぐん脅威きょういを、まざまざと魏に知らしめる方法を..」

 そう言うと、姜維はある戦術せんじゅつを孫皓に向かって語り始めた。

 それを聞く孫皓に、最初さいしょは驚きの表情が浮かび、やがてそれは感嘆かんたんへと変わった。

「さすがに姜維殿だ。しかし、これほどとは....」


 孫皓との会談かいだんを終えると、姜維は早々そうそう華真かしん自分じぶんの元に呼んだ。

「華真殿。貴方あなたが言われていた通りの展開てんかいになった。呉は水軍すいぐんによる牽制けんせい提案ていあんして来ました。但し、此度こたび本格的ほんかくてきな戦さは望まぬと...。そして見返みかえりとして、孫皓殿がみかどの座にけるように手を貸せ...という申し出も、貴方あなたおっしゃっていた通りでした。」

 興奮こうふんおさえきれない姜維の様子ようすに、華真は穏やかな笑みを返した。

「それで….。水軍すいぐんを使った策について、こちらからの提案ていあんに対する反応はんのうは?」

全面的ぜんめんてきに受け入れると。直ぐ建業けんぎょう使者ししゃが立ちました。従者じゅうしゃの中でも一番足いちばんあしの早い者を立てるというので、途中迄とちゅうまでは、こちらで早馬はやうま提供ていきょうするようにしました。」

 それを聞いた華真は、今度こんどこそは満足気まんぞくげうなづいた。

建業けんぎょうでは、直ぐに水軍すいぐん出動許可しゅつどうきょかが出るでしょう。孫休帝そんきゅうてい宰相さいしょう孫淋そんりんも、結局けっきょくのところ考えは同じ筈。魏と蜀のどちらにも勝って欲しくないと思っているに違いありません。牽制けんせいだけなら大歓迎だいかんげいでしょう。」

 それにうなずいた姜維が、華真に対して畏敬いけいの眼を向けた。

「しかし、今回こんかいの策について、孫皓殿が詳細しょうさい建業けんぎょうに知らせぬ事をどうして見通みとおせたのです。」

 姜維の問いに、華真は穏やかな声音こわねで答えた。

「孫皓殿も、野心やしんを抱いて蜀までやって来ていますからね。ご自分じぶんにとって大事だいじ手札てふだは、簡単かんたんにはさらさないでしょう。ただし、水軍すいぐん出動しゅつどうするだけでも、呉の王宮おうきゅう一部いちぶは動くでしょうね。今後こんごの孫皓殿が力を増さぬように、直ぐに裏工作うらこうさくを始めるでしょう。」 

 華真の言葉に、姜維は成程なるほど納得なっとくした。

「そうなると、こちらでも早速さっそくにも準備じゅんびに取り掛からなくてはなりません。水軍すいぐんというのは、何と言っても機動力きどうりょく最大さいだい武器ぶきですからね。それを見せつけねば魏も脅威きょういは覚えますまい。それが出来るように、蜀からも工作隊こうさくたい派遣はけんせねばなりませんね。」

 華真の提案ていあんうなづいた姜維は、すぐに別の事に思い当たった。

「そう言えば…..。華真殿の書状しょじょうたずさえた使者達ししゃたちはどうなりました? 何らかの報告ほうこくはありましたか..?」

「二つ共に上手うまく運んでいます。さて...いよいよ本番ほんばんですね。」

「しかし...孔明先生と一体いったいとは言いながらも、今回こんかいの策の数々かずかず...。感嘆かんたんえません。」

 姜維は、改めて尊敬そんけいこもった眼差まなざしを華真に向けた。




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