第109話:再来の国つ神
そこは、真っ白な、何もない部屋だった。床はあるが、天井も壁もない。どことも、そもそも本当に部屋かどうかさえ知れぬ、ただ広いだけの空間。
そんな場所で、男は椅子に腰掛け、優雅に紅茶を飲んでいた。
「久しぶりだね、海人くん。前半戦は楽しんで貰えたかな?」
古都主。顔を布で隠した、長髪の軍服姿。背丈は海人より少し高く、見た目は齢二十過ぎに思えるが、おそらく人間の尺度が適応されるような存在ではないだろう。
この世界には似つかわしくない、異様な装いと異質な雰囲気を纏った彼は、ふう、と一つ息を吐く。
「まあ、それどころじゃないか」
虚ろな目をして地に伏す学生服の少年へ、古都主は穏やかな目を向ける。彼はティーカップを静かにテーブルへ置くと、海人と目線を合わせるようにしゃがみこんだ。
海人は、古都主を憎らしげに睨みつける。
「なんで……お前が」
「なんでって……そりゃぁ、今回の件は僕も一枚噛んでるからねぇ」
「は……?」
当然のように告げる古都主に、海人の思考は混線する。
彼には、目の前の男が何者なのか分からない。国つ神を名乗る、自分をこの世界に飛ばした存在――それ以上の情報を持ち合わせていない。どんな力を持ち、何のために動いているのかなど、海人には知る由も無かった。
だが、本能的に分かる。いま、彼は嘘をついていない。足立郡衙で起きた殺戮、それに、この男は何らかの形で加担している。
これは、紛れもない事実だ。
「お前が、やったのか?」
「うん?」
「お前が、陽成院派をけしかけて、罪もない人々の命を奪ったのか聞いてんだよッッ!!!!」
古都主の胸倉を掴み、海人は声を荒げる。ひらりと垂れ布がはためくが、顔は影が掛かってよく見えない。
古都主は薄ら笑いを浮かべたまま、激昂する海人の手を払うこともせずに、
「そう怒らないでくれよ。まぁ、今のは僕の言い方に語弊があった。今宵の件、僕は直接関わってない。間接的には関わってるんだけど、それでもあの被害は予想外だったんだ」
「どういうことだ……?」
「思いのほか、陽成院はデキる奴だってことさ。僕は少々彼を侮っていたようだよ」
困ったように手を広げて、古都主はため息を吐く。そして彼は海人の手からするりと抜け出すと、気障ったくマントをひらめかせて人差し指を立てた。
「そこでだ。ついでに君にも一つアドバイスをあげようと思ってね」
「……何?」
「将門のことは諦めた方が良い」
「は?」
目を見開く海人。
意味が分からない。話の繋がりが全く見えない。だが、受け入れられない。
困惑と不条理とやり場のない怒りが出力する、思考の空白。その空白を縫うように、古都主は語り始める。
「君も薄々気付いてるとは思うけど、この世界はいわゆる過去じゃない。いや、厳密にはもう過去というには運命線の乖離が大きくなりすぎたというところか」
「……運命線、だと?」
「そ、運命線。でも、運命というのは案外しぶとくてねぇ。復元力というか、修正力というか、元の歴史に戻ろうとする力が働くんだ。昔あれだけ色々やったのに、教科書に載ってたようなことはだいたい全部起きた。大枠から変えたつもりだったのに、ガワ以外は思いのほかそのままでビックリしたよ」
古都主はクスクス笑いながら、「おっと、話が逸れたね」などと呟く。
「要するに、歴史を変えるのって結構難しいんだ。変えたければ、運命線を把握した上で根気強く歴史を踏みならさなきゃいけない。うっかり変わるなんてことはまずないのさ。過去の人間が歴史を変えるなんてこと、普通はあり得ないんだよ」
「……でも、陽成院は反乱を起こした。史実にそんな事件は無かったはずだが?」
海人は、鋭い目をして古都主を睨む。
古都主は、うんうんと幾度か頷いて、
「そうなんだよ。どういう訳か、陽成院は運命線を大きく踏み越えるような行動を取り続けている。未来人がいるわけでもないのにさぁ。まぁともかく、この状況はちょっと困るんだ。せっかく僕好みの運命線を頑張って作り上げたのに、こうなると先が読めないからねぇ。イレギュラーが頻発するようじゃ、計画にも支障をきたしかねない。何より、このままでは陽成院の思うままだ」
顎に手を当て、何もない天を仰ぐ古都主。彼は、ふいにぱちりと指を鳴らした。
「そこで、僕は発想を転換したんだ」
「……何?」
「当面の間、あえて歴史をなぞるんだよ。そうすれば、運命の修正力が陽成院の目論見を阻み、これからの世界の歴史は概ね教科書通りに進むことになるだろう。きっと、イレギュラーも格段に少なくなるはずだ」
「……」
「無理に運命を変えようとして訳分からなくなるより、そっちの方が断然マシだろう? 僕にとっても、君にとっても、ね?」
ニコリと、古都主は告げる。確かに、彼の言うことは海人にも分からなくはない。
この世界が史実通りに進むなら、海人にも状況の予測はやりやすい。現代知識を活かして有利に立ち回れる。歴史を乱し、平和を乱す陽成院の野望を挫くのには、これが最善なのかもしれない。
だが――
「そのために、将門さんを見捨てろと?」
「うん。だって、平将門は天慶二年に反乱を起こし、同三年に一族郎党皆討たれて、京で晒し首になる。それが歴史だ。ちょっと時期がズレたけど、まだまだ誤差の範囲。ここからでも、全然史実に持ってい」
「そういうことを聞いてんじゃねぇよッッ!!!!」
古都主の言葉を遮って、海人は悲痛な叫び声を上げた。
全てを救い、最善の未来を掴み取る――それが、海人のやり方だ。
大多数を助けるために、誰かを犠牲にするなんて到底受け入れられない。たとえそれで坂東に平和がもたらされ、上皇の一派を鎮圧できたとしても、そんなのは彼にとって意味がないのだ。
何より――
「俺は……もう何も失いたくないんだよ……」
古都主は、海人を興味深そうに見つめて、
「なるほど。でも、もう遅いね。布石は全部打っちゃったから。彼の反乱はもうほぼ確定してる」
「ッ!!」
「あは、怒った怒った!」
煽るように、ケタケタと肩を震わせる古都主。直後、前と同じように空間が不安定化して、地面と天井が曖昧になっていく。
遠ざかっていく古都主の背中に海人は手を伸ばすが、その隔絶は埋まりようがない。
絶望したように目を見開く海人に、古都主はひらひらと手を振った。
「じゃあね、海人くん。まぁ、足掻くだけ足掻いてみたら? 無駄だと思うけど。君から僕にとってのイレギュラーが生まれることはまずない。君の可能性は、僕が一番よく知ってるからねぇ」
ふわりと、海人に襲い来る浮遊感。理解できない力が、彼がここに留まることを許さない。理不尽は、海人から何もかもを奪おうとする。
彼は、深淵へ逆落としに吸い寄せられた。
「なんで、なんでだよ……!」
彼の吐いた恨み言も、反響しながら小さくなっていく。憎らしげな古都主が視界の隅に映った。だが、どうすることも出来ない。
海人はそのまま、底のない闇に落ちて、陥ちて、堕ちて――
▼△▼
「……っ」
意識の覚醒。世界の輪郭が、徐々にはっきりしてくる。虫の音。香の薫り。蠟燭の灯。知らない天井。体の調子は悪くない。喉の傷もいつの間にか治っている。恐らく時間はそれほど経っていないはずだ。おそらく治癒術式だろう。
その時、見慣れた少女の顔が目に映った。
「お目覚めになりましたか?」
ざらついた心を優しく撫でるような、穏やかな声。目を腫らした少女は、ほっとしたような表情で海人に微笑みかけた。
「仁王丸……」
思えば、この世界に来て最初に出会ったのは彼女だった。
満仲の凶刃から海人を守り、嫌々ながらもこの世界のことを色々教えてくれた。そして昨夜も、彼女がいなければきっと……
――結局今日の今日まで、俺は仁王丸に助けられっぱなしだな。
海人は身体を起こすと、一つ息を吐いて、安堵したように目を細める。
「随分、久しぶりな気がするよ」
「ええ。二月と廿六日……この日を、私は待ち望んでおりました。よくぞご無事で」
「……無事、ね」
何気ない仁王丸の一言に、海人は表情を曇らせた。
「俺が無事でも……仕方ないんだ」
「え……」
目を見開く仁王丸に、海人は力ない笑みを向ける。
「村も、真樹さんも、武芝さんも、千晴も、みんな何もかも、俺には守れなかった。何とかして残ったものだけでも救いたかったけど、どうにもならなかった。その上、俺が知らないところで事態はどんどん悪くなっていってる……正直もう、どうしたらいいのか分からない」
「神子様……」
「仁王丸、俺は――」
その時。ふいに、柔らかく、暖かな感覚が海人を包む。「は……?」と、軽く声を漏らす海人。ほんの数秒の後、彼は状況を理解する。なんてことはない。仁王丸が海人を抱きしめたのだ。おそらくは半ば無意識。だが、思いもよらない彼女の行動に、海人は少し困惑する。
その様子を察した仁王丸は、彼女らしくもなく大慌てで、
「えっ、あっ! もっ、申し訳ありませんっ!!……不敬でしたね! つっ、辛いことがあった時、母様はいつもこうして下さいましたので……!」
あたふたしながら、彼女は顔を真っ赤にして釈明する。
だが、海人はそんな彼女にへなりともたれ掛かった。
「みっ、神子様……!?」
「悪い……ちょっと、このままでもいいか……いま、一杯いっぱいなんだ」
憔悴しきった様子で告げる海人。仁王丸は頬を染めたまま軽く頷くと、彼の背中に恐る恐る手を回す。海人は申し訳なさそうに、消え入りそうな声で言った。
「……ありがとう。少し、落ち着いた」
▼△▼
そんな様子を、障子の向こうから気まずそうに眺める少女が一人。彼女は、髪の毛をわしゃわしゃかき上げながら声にならない声を上げる。
――入り辛えッッ!!!! てかアタシまだ死んでないッスよ!?
不満そうな視線を送るのは、死の淵から間一髪で舞い戻った千晴だ。
彼女は、知り合いの少年と全く知らない少女がいちゃつく現場を前に、どうしようもなく立ち往生した。
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