第110話:運命の足音
悪夢のような惨劇から命からがら脱出した海人。彼はしばらく仁王丸に優しく介抱されたのち、思考を整理するように呟いた。
「そういや、ここは一体……」
「
すました顔で答える仁王丸。
下総国は、現代の千葉県北部に当たる地域だ。足立郡からは、直線距離で40キロメートルほど離れている。
「結構な距離だな」
「ええ。ですが、術式陣の補助があれば無理な距離ではありません」
「てことは、転移術式で飛んだのか」
そう呟く海人に、仁王丸は目を細めて、
「あの時は戦うことより、助けることが最優先でしたから」
「そうか」
海人は立ち上がると、考え込むような様子で部屋を一周し、何気なく障子を開ける。
そこにいたのは――
「な……!」
まるで幽霊でも見たかのように目を見開く海人。視線の先にいる桃色の髪の少女は、不服そうに頬を膨らませて彼を睨みつけている。海人の混乱は留まるところを知らない。
「ち、千晴……!?」
「そうッスけど何か?」
「え……は!?」
海人は冷や汗をかきながら、視線を少し下に落とした。足はしっかり二本付いている。なるほど確かに生きた人間らしい。
彼はようやく安堵して、長い息を吐く。
「……てっきし、死んじゃったのかと」
「勝手に殺すなッス」
ご立腹の千晴。喉に巻かれた包帯が痛ましいが、それ以外はいつもの元気な千晴だ。
「あ、ああ、本当に……本当に良かった!」
そう言って、海人は千晴に手を伸ばす。
だが、
「気安く触れるなッス!!」
「ぐはっ!?」
「神子様!!」
千晴の回し蹴りが海人の太腿に直撃、そのまま吹っ飛ばされて彼は仁王丸に支えられる。しかし、そんな暴力すらも、今の海人にとっては精神安定剤だった。
穏やかな表情を浮かべる彼を気味悪そうに一瞥して、彼の隣に立つ少女に目を向ける。
「そういや姉ちゃん誰ッスか?」
「私は佐伯仁王丸。神子様の従者です」
「変な名前ッスね」
特に悪気なく放たれた言葉。
だが仁王丸はムッとしたような顔で、
「命の恩人に対して随分なもの言いですね。私の到着があと少し遅れていれば、貴女は今頃三途の川でしたよ」
苛立ちを露わにして告げる仁王丸。彼女にしては珍しく、少々感情的な反応だ。
だが、千晴はいつもの軽い調子で、
「えっ、そうなんスか? これは失礼したッス……にしても、なんでそんなに――」
「イライラしてるんスか?」と言いそうになって、彼女の中で何かが繋がった。
千晴は、ニヤリと意地の悪い笑みを浮かべて尋ねる。
「もしかして妬いてるんスか?」
「は?」
「だって、アタシと兄ちゃんはかれこれ三月の付き合い。こんな感じで殴り合う仲ッス。でも、姉ちゃんはその間放ったらかしにされてた訳ッスよね。寂しかったんッスか?」
「そんな訳ないでしょう」
「えぇ~? でも姉ちゃん、兄ちゃんにベッタリだったじゃないスかぁ~。知ってるッスよ? 兄ちゃんが目覚めるまで、半ベソかきながら傍でずっと律儀に見守ってたこと」
「なっ!?」
仁王丸の表情が分かりやすく変わる。「そうなの?」と海人は彼女の顔を見るが、仁王丸はぎこちない動きで彼から目をそらした。
だが千晴はニヤニヤしながら回り込む。
「よっぽど心配だったんスね。まあ、従者が主人を大事にするのは当然……でもあれ? さっき兄ちゃんに抱きついてたッスよね? さすがに距離感近すぎじゃないッスか?」
「そっ、それは神子様が……!」
「不思議ッスねぇ……あ、もしかして想い人か何かッスかぁ!? ヒュー、お熱いッスね~!!」
「わ、わわわっ!?」
処理しきれない感情がごちゃ混ぜになったような顔で、全身を真っ赤にしてわたわたしだす仁王丸。
いつも冷静沈着な彼女にはそうない反応だ。完全に混乱状態。慌てすぎて動きがコミカルになっている。
「仁王丸がバグった……!?」
そんな彼女を指さして、千晴は満面の笑みを浮かべる。
「兄ちゃん! この姉ちゃん面白いッス!!」
「千晴! あんまり仁王丸をいじめるな!」
「ええ~」
駄々っ子のような声を上げる千晴の頭を、海人は「てい」と軽くチョップする。
千晴はオーバーなリアクションで騒ぎ立てるが、海人は呆れたようにため息をついた。
彼らがそんなやり取りをしているうちに、状態異常から回復した仁王丸。
彼女は、耳を赤くしたままジトっとした目で海人に訴える。
「神子様。私この子が嫌いです」
「まあそう言わずに……お互い仲良くやってくれよ」
「はいッス!」
「嫌です」
同時に放たれた正反対の返事。相性が良いのか悪いのか。海人は苦笑しつつ、やれやれと首を振った。
「……」
と同時に、薄れていた感情が蘇ってくる。千晴が生きていた――それ自体は非常に喜ばしいことだ。だが、それで大団円となる程事態は軽くない。
南都の大軍勢。焼亡した足立郡衙。消息不明の真樹、将門たち。そして、妖しく笑う古都主――懸念材料はいくらでもある。
海人がこうしている間にも、刻一刻と状況は動いているのだ。悠長にしている場合ではない。今すぐにでも動かないと手遅れになる。その事実から目を背けられるほど、海人は楽天主義でも無責任でもなかった。
――次の行動を考えないと……
焦燥感が海人の心を再び覆い始めた、その時のこと。
「再臨様」
「ん?」
いつの間にか現れた一人の役人。きょとんとする海人に向かって、彼は恭しく跪く。
「お取り込み中のところ失礼。征東大将軍
「……っ!」
征東大将軍。朝廷が緊急時に任命する、律令に規定のない官職――
そして、かの大事件「
――歴史通り……これがアイツの言ってた運命線の修正力ってやつか……!
奇しくも整いつつある、将門討伐の状況。海人は険しい表情で、明るんできている東の空に目をやった。
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