第108話:黄泉軍

 止まらない血。ぴくぴくとした痙攣の収まりとともに、冷たくなっていく身体。零れ落ちていく命。応急処置でどうにかなる範疇を優に超えている。

 海人は何も出来ない。もとはと言えば、彼はただの高校生なのだ。高度な医療知識など持ち合わせていない。


 もう、頼れる力は一つしかなかった。


「……止まれ、治れッ!!!!」


 言霊の種火。口に出した事象を現象として出力する神の御業。

 しかし、この能力には重大な欠陥がある。


「なんで……なんで発動しないんだよッ!!!!」


 傷口に変化はない。当然だ。彼はこれまで、一度たりとも神気以外を発動対象にしたことがない。否、出来たことがない。

 はっきりとした形を持つ物体に、その力を以て干渉出来たことはないのだ。


 いや、一つだけ例外があった。


 八咫鏡。蒼天に奪われそうになったそれを、咄嗟に飛び出た言葉で砕いたことがあった。だが、八咫鏡は物体といっても神気の塊のような代物。同じことを人間相手に出来るかどうかは分からない。

 それに、仮に理論上は可能だったところで、今の海人の技量では無理だった。


「ああ、あああぁぁぁアアアッ!!!!」


 着実に死へと向かう細い身体。海人は半狂乱になって声を上げるが、それで状況が好転することはない。


「……ぁ、はあ……クソがァッッ!!!!」


 火の勢いは留まることを知らなかった。それと反比例するかのように、抵抗を試みる兵たちの声が次第に小さくなっていく。時を同じくして、あちらこちらから新たな悲鳴が上がり始めた。

 不気味に前進する南都軍は、逃げ遅れの掃討戦に入ったのだ。


「くっ……!」


 海人は物陰に身を隠し、身体の震えを抑えながら、我が物顔で跋扈する南都の軍勢を睨みつける。

 真樹と合流するという当初の目的は、恐らくもう果たされることはないだろう――そう思えるほどに、奴らの破壊と殺戮は徹底的だった。制圧や占拠が狙いではない。ただ、見る者、聞く者の心を折るためだけの蹂躙。地獄を造ることだけが至上命令。黄泉軍よもついくさは、焼け落ちる町を無表情で行進する。


「――ッ!!」


 その中に、見た顔がある。鼻筋を横切るような傷。気だるげな瞳。彼はかつて、宮原村を吹き飛ばした男だ。


 ――坂上……是茂っ!!


 海人は目を見開く。そして理解した。先ほど見た閃光は、奴の宝剣の力。なら、その射線上にあったものがどうなったかなど想像するまでもない。秩序を切り裂くその剣は、物体を素粒子レベルで裁断する。郡衙など、跡形も無くなっているだろう。

 そこにいた役人たちや、真樹だって、もう消し炭すら残っていないのかもしれない。

 仮に逃げ出すことが出来ていたとしても、この戦力差なら武芝と同じ運命を――


「馬鹿ぬかせ……!!」


 海人は首を振った。悪い予感ばかりが先行して、残された僅かな希望までうち捨ててしまってどうする。

 千晴は、前だけを見ろと言ったのだ。


――せめて、真樹さんの安否だけでも……


 彼女を背負って、立ち上がろうとした時。


「討ち漏らした鼠が一匹。いや二匹いるね」


「なッ!?」


 是茂がおもむろに宝剣を振るう。真なる力のほんの片鱗。だが、崩れかけの家屋を抉るには十分すぎる出力。

 ゴウッッ!!!! と。炎すら切り裂く閃撃に煽られ、海人たちは地獄絵図の中央に放り出される。

 是茂はいつも通りの無気力な表情で、煤と血に汚れた彼らを見下した。


「あれ、再臨じゃん。ああ、そうか。飛ばし損ねたのは君だったんだね」


「くッ……!」


「で、その小娘もあの時の……また瀕死じゃん。ウケる」


 そう言いつつも、是茂の表情は変わらない。怒るでも、憐れむでも、ましてや嘲笑することもなく、全てがどうでも良いとでも言いたげな表情。

 ピクリとも動かない千晴を抱えて、海人は是茂を睨んだ。


「お前がッ……!!」


「えらく反抗的だなあ。君、自分の状況分かってる?」


 是茂は言い放つ。業火の中にありながら、まるで日光浴でもしているかのように鷹揚な口調で。怒りをあらわにする海人とは対照的に、是茂は無気力な表情を崩さない。

 彼はふと視線を外して、


「まあいいや。今は思いのほか気分が良い。だから」


「――ッ!?」


 ノーモーションで振るわれた宝剣。その剣筋は、正確に海人の喉を裂いた。サッと、悪寒が走るとともに、訪れる熱。それは次第に鋭い痛みへと変わっていく。


「か……は……ぁ!?」


「ちょっとお喋りさせてよ」


 喉を押さえ、脳天を付くような激痛に目を明滅させる海人。息は出来る。血もほとんど出ていない。どうやら頸動脈には傷一つ付いていないようだ。

 だが、声が出ない。


「君の権限は知ってる。言霊でしょ?」


「……ぁ」


「君弱いけど、万が一ってやつがあるからね。念のため手札は潰しておく。僕は慎重なんだ」


 そう言って、是茂は剣についた血を振り払った。


「この前満仲から聞いたよ。君、伊勢で第六皇子を出し抜いたんだって? すごいね。アイツ油断も隙も無いのに。あと足立郡でも結構色々やったみたいじゃん。全部浄御原帝の焼き直しみたいなヤツばっかだけど、野蛮人相手に上手く立ち回ってさあ」


「……ぉ」


「たまにいるんだよね。君みたいに、どう考えても実力以上の成果を上げる奴。不思議だよね。なんていうんだろ。持ってるっていうのかな」


 その時、初めて是茂は感情を表す。

 

「僕そういう奴嫌いなんだよね」


「――っ!!」


 不快感。ただ、それだけを乗せた瞳で、彼はギロリと海人を睨んだ。ゾッとするような冷たい目。海人は思わず身体を震わせる。『蒼天』や『影』とは違うベクトルで、まったく底が知れない。そういった恐怖を、目の前の男は抱かせる。


「……まあいいや。君なんていつでも殺せる。今宵の仕事はもう済んだ。僕はここらでお暇するよ」


 是茂は、一つため息をついた。

 彼はおもむろに宝剣を納める。まるで、完全に戦意を喪失したかのように。

 だが、数歩歩いて、彼は何を思ったのかふいに立ち止まる。そして、宝剣の柄に手を触れた。


 彼は、おもむろに振り返る。


「やっぱり今殺しとくか」


 肌を刺す神気、空間の歪曲、そして、濃密な死の気配。理不尽に理不尽を重ね、理不尽を強いられてきた海人に襲い掛かる最期の理不尽。

 解放された弑殺の宝剣の魔力が、海人を避けられない終わりへと誘おうとしたその時。

 

 彼は、艷やかな黒髪が舞うのを見た。


「契神「大神実命オオカムヅミノミコト」御業『破邪桃果はじゃのとうか』」


 響いたのは、鈴の音のように可憐な声。立っているのは新たな人影。

 直後、極光のように眩い光が放たれる。全てを覆うように広がったそれは、宝剣の霊威を霧散させる力を帯びている。かつて祖神を救った桃の実が、南都の手から神子を救う。

 是茂は軽く目を見開くと、一つ頷いた。


「なるほど? 黄泉軍を祓う神の果実……僕は人ならざる幽鬼扱いか」


「否定の余地があるとでも?」


「酷いなあ……まあでも、神話と状況を同期させ、効果増強を図るのは術者の基本らしいね。今のもお手本通りの選択。だけど、深い契神術への理解、とりわけ、高度な結界術の腕がないとこんな上手くはいかない」


 目の前に立つ少女に向かって、是茂は無気力な視線を向ける。


「君、高階の人間でしょ」


「……勘が良いな、南都の将。確かに私は高階の家人。でも、今はあえて――」


 少女は、目を伏せ、すう、と軽く呼吸を整える。そして、ニヤリと口を歪めた。


「『再臨』海人様の従者、佐伯仁王丸!」


 業火に照らされる薄色の平安装束、美しい黒髪、濃紺の双眸。理不尽を切り裂いた彼女は、絶望に沈む少年に微笑みかける。


「遅くなって申し訳ありません。お迎えに参りました」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る