第86話:坂東の虎
「へーぇ。そう、君が」
「――っ!!」
面倒そうに目を細める是茂とは対照的に、海人は目を見開いて驚きを露にする。
――まさか、こんなところで……
平将門。名前だけなら聞いたことのある人も多いだろう。
彼は十世紀中頃、民衆の支持を得て関東一帯を制圧し、『
いや、衝撃と言う言葉では生ぬるい。ある種のトラウマと言った方が良いだろう。
飢饉、疫病、反乱――朝廷はことあるごとに将門の亡霊を幻視する。その度に彼らは将門を殺した一族を重用し、何とかその心の安静を保ち続けてきた。
莫大な富と武力で東北一帯を支配した奥州藤原氏。あの平清盛を輩出した伊勢平氏。そして、源頼朝を輩出した清和源氏もみな将門討伐の功臣の末裔である。
正義の英雄か、乱心の反逆者か――将門の評価は、海人が元いた現代日本においても二分されている。
それだけ、彼が歴史に、そして人々の心に与えた影響は大きい。
その将門がいきなり現れて、見ず知らずの自分を助けようと刀を振るい、少女を背負って逃げろと告げたのだ。
海人には思考を整理する時間も、余裕もあるはずなどない。
――今は、千晴を……!!
言うことを聞かない身体に鞭を打ち、一目散にボロボロの少女のもとへ駆け寄る。
将門はその様子を満足そうに見届けて、不敵な笑みを浮かべた。
「良いねえ。アイツ結構根性あるじゃねえか。なあ、西のお偉いさんよ」
「同意しかねるなぁ。僕、根性って言葉嫌いなんだよね」
「そうかよ」
けっ、と不服そうに唇を尖らせる将門。彼は再び刀を構え、是茂を見据える。
「で、やんのか」
ゾッ、とするような剣気。将門の短い言葉は、形容しがたい圧を放った。歴戦の猛者だけが持つ覇気といった類の風格が、相対する者に彼を強者と知らしめる。
だが、是茂は気怠そうな目をしたまま、はぁ、と一つ息を吐いた。
「やめとくよ。面倒臭いし」
「あ?」
「だって、君一人ならともかくお仲間も一緒じゃ、ねぇ?」
是茂はふいに将門の後ろに目をやる。そこにいるのは騎馬兵が百余り。それも、精強と名高い坂東武者ばかりだ。
将門は煽るような笑みを浮かべて、
「逃げるのかよ」
「勘違いしないで欲しいなあ。君たち如きに僕が負けるとでも?」
是茂は鬱陶しそうに言い放つと、おもむろに剣を納める。
「ただ、僕の目的は殺戮じゃない。坂東の統治、そして回天の討伐だ。無闇に領主格を殺めたところで何にも嬉しくないんだよ」
「はぁ? 何勝手なことを抜か……」
「じゃあね。また会うことがあれば宜しく」
将門の言葉を途中で遮り、是茂は馬に乗る。彼は部下に目配せすると、そのまま集落を後にした。
緊張が解け、将門は一つ長い息を吐く。
そんな彼の横に、一騎の騎馬が歩み寄ってきた。馬上の男は将門に向かって、
「小次郎、また面倒なのに目を付けられちまったな」
「そうか?」
「そうか? じゃねぇよバカ!」
「ハハハ!」
能天気に豪快な笑みを飛ばす将門に、男は呆れたようにため息をつく。
「で、アイツらどうすんだよ」
「ん?」
男が指し示した先には、少女と見慣れない装いの少年が気を失って倒れている。是茂と睨み合っている間に気を失ったのだろう。
将門はあっけらかんとした口調で、
「あれま、やっぱり駄目だったか」
「いや、死んではねぇよ」
男は早合点する将門にツッコミを入れた。その時、彼は何かに気付いたように「ん?」と目を凝らす。
「……てか、アイツ
「うぉ、ホントだ! 千晴じゃねーか!!」
驚いた顔で声を上げる将門。どうやら知り合いだったようだ。そのまま慌てて彼女のもとに駆け寄り、「おい! しっかりしろ!」と叫びながらぶんぶん肩を揺するが反応がない。彼は半分涙目になりながら、
「べ、別当殿、俺はどうすりゃ!」
「はぁ……まずは落ち着け。取りあえず武芝殿の館に運ぶぞ。あそこなら医者もいるし薬もある。手当は出来るはずだ」
「そ、そうだな! そうしよう! あとは怪我した村の衆も一緒に連れてかねぇとな!」
「このお人好しが……」
男は再びため息をつき、馬から飛び降りる。彼は後頭部を掻きながら将門の横に並ぶと、千晴の下敷きになってのびている少年を指差した。
「コイツは?」
「もちろん連れてくぜ。放っといたら死にそうだし」
将門はニコリと笑みを浮かべた。男はうげぇ、とあからさまに嫌そうな顔をするが、すぐに諦めた目をして再々度のため息をつく。
そして、足元に転がる少年を値踏みするような目で一瞥して口を開いた。
「…………勝手にしろ」
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