第70話:何はともあれ大団円

「――っ!?」


 酷い耳鳴りと頭痛の中、海人は目を覚ます。一晩中走り続けて、猿田彦、仁王丸、清棟、そして、蒼天を相手にした少年は、未だ取れない疲労感の中おもむろに目を開いた。

 そんな彼の視界に飛び込んできたのは知らない天井で……


 ――いや、めっちゃ知ってるわ。


 バッと、飛び起きる海人。ここは雑多なボロアパートの一室だ。どこかで見た新書やら文庫本やらが並べられた本棚。薄汚れたカーペットに電気ストーブ。映らないテレビ。いつの間にかこたつも出されている。さらにはみかんの入ったかごのおまけつきだ。


 ――生活感……


 海人は微妙な表情を浮かべる。その部屋は、一言でまとめると彼の部屋そっくりの独房。廃神社の本殿の中に広がる六畳半宇宙。


「……やっと起きたわね。はぁ……」


「つ、月詠!?」


 そんな無限大の六畳半宇宙に閉じ込められた彼女ツクヨミは、整った愛らしい顔を不機嫌そうな表情に染めて頬杖をついていた。こたつに入りながら。


「はぁ……」


 狭い部屋に少女のため息が響く。海人は怪訝そうに首を傾げた。


 ――シンプルにどういう状況?


 彼には全く訳が分からない。そもそも、なんで自分がここにいるのかというところから理解が追いついていない。気付けば、いつの間にか怪我も治っている。

 まあ、恐らく彼が抱える疑問のほとんどは目の前の少女に聞けば解決するであろう。しかし、その彼女の機嫌は殊更に悪い。


 ――俺なんかしたっけ……?


 記憶を辿ってみるが特に身に覚えはない。海人は、そっぽを向いたままつーん、としている彼女に恐る恐る問いかけてみる。


「えっと、なんでそんなに怒っていらっしゃるのですか……」


「別に」


「ええ……」


 撃沈。


 月詠は海人を一瞥することすらしてくれない。彼は再度記憶を辿ってみるが、やはり身に覚えが全くなかった。そんな海人に、月詠は増々機嫌を悪くする。


 こうして二人は奇妙な膠着状態に陥り、そのまま小一時間が経過した。


 ――どういうことだってばよ……なんで怒ってるのこの子? いや、マジでそろそろホントに空気がヤバいんだけど! 誰か! ヘルプミー!!


 ……と、海人は助けを求めてみたが当然誰も来ない。彼は、冷や汗を流して引きつった笑みを浮かべるほかどうしようもなかった。

 一方の月詠はというと、真っ黒な窓の向こうを漫然と眺めている。


「……」


 その時、ふいに窓に映る彼女の眼が一瞬だけ海人の方を向いた。そして、誰にも聞こえないくらい小さな声で呟く。


「……は……のに」


「えっ? なん」


「――っ! うっさいバカっ! アホ! 鳥頭!!」


「は!? え!? ホントにどういう――」


 ただ聞き返しただけの海人に、月の女神は顔を真っ赤にして小学生レベルの罵詈雑言を並べる。彼女は勢いそのまま、六畳半の独房から彼を追放した。


 ▼△▼


「ちょっと説明をっ……って、あれ?」


 再び飛び起きる海人がいたのは、先ほどの一室でもなく、更地になった神宮境内でもなく、はたまた宿というわけでもなく、全く知らない部屋だった。見る感じ、現代の診療所にあたりそうな施設らしい。


 ――ホントにどういうことだよ……


 困惑を隠しきれない表情のまま、おもむろに周りを見渡す海人。


 そんな時、ふいに戸が開いた。


「あ――」


「やっと……起きたんですね……!」


「仁王丸っ!!」


「良かったっ!」


 仁王丸は安堵したような顔で足早に海人のもとに駆け寄った。寝不足なのか、彼女はどこか疲れた様子である。

 だが、命に別状は無さそうだ。仁王丸の安否を確認して、ひとまず海人は胸を撫でおろす。ただ、心配は完全には拭えない。


「け、怪我とかは大丈夫なのか……?」


「えっ!? いえ、私は大丈夫ですが……神子様こそお体の具合は?」


「俺は平気だよ。仁王丸が治してくれたのか?」


「私は応急処置だけで、ほとんど悠天様が……」


「そうか、ありがとう。悠さんにもあとでお礼言わなきゃなぁ……」


 しみじみと語る海人。と同時に、彼は悠天の健在も確認できてほっとする。


「……でもあの傷で俺より先に復帰とか……あの人やっぱり人間辞めてない?」


 海人は苦笑しつつ呟いた。何とも気楽な様子である。仁王丸は、そんな彼に憔悴し切った様子で告げた。


「……心配したんですよ?」


「悪いな。でも、昨日の俺に比べたら大したことないだろ?」


「それは…………申し訳ありません」


 海人の何気ない言葉に、仁王丸は物凄く気まずそうな表情を一瞬浮かべた後、悲しそうな目をした。


 ――しまった! どう考えても余計なこと言ったぞ俺……


 失言の気配。海人の頬を冷や汗が伝う。


「あー、いや! えっと、そういうつもりじゃなくて、その、なんか、俺こそごめん! てか、元はと言えば悪かったのは俺だし!」


「ですが、私は町の人々を巻き込んで……」


「じゃ、じゃあ! この件はこれでおあいこってことにしとこう! うん、そうしよう!」


 どんどん俯きがちになる彼女に、海人はわざとらしく明るい声でそう言ってみる。


「だからさ、気に病むことなんて何もない。お前は運が悪かっただけだ。やろうとしたこと、そして、大事にしたいことは何も間違っちゃいない。そうだろ?」


 海人は仁王丸の目を見て、確かめるように問いかける。しかし、彼女の表情は晴れない。仁王丸は暗い顔のまま、力なく呟いた。


「……なんで、貴方はそんなに私を庇うんですか?」


「え?」


「私なんて、貴方からすれば愛想の悪いただの同居人。それ以上でもそれ以下でもないはずです。なのに、なんでそんなに私の肩を持とうとするんですか……?」


「……!」


 海人は思わずたじろいだ。儚げで、今にも壊れてしまいそうな、仁王丸の本心からの言葉。目の前にいるのは、佐伯の若君としての彼女ではない。海人があの夜見た、等身大の少女としての仁王丸だ。

 生半可で薄っぺらい言葉なんかでは絶対に返してはいけない――彼は慎重に言葉を選ぶ。そんな彼が二の句を継ぐより先に、彼女は、ぽつりと、溢すように告げた。


「……私は、空っぽです」


「そんなことは!」


 咄嗟に否定しようとする海人。しかし、仁王丸は俯いたままだ。


「私には、自分が無いんです。私が、自分の意志でやろうとしたことなんて何もない。父の遺志を継ぐ、ただそれだけを念じて過ごした十年で、私は『佐伯の若君』を演じる以外の在り方が分からなくなってしまった」


 苦し気な表情で、震えそうになる声を抑えて告げる仁王丸。ふいに溢れだした彼女の不安、困惑、苦悩に、海人はただただ耳を傾けることしか出来ない。彼女はなおも続ける。


「でも私はこの旅で、悠天様や貴方のような在り方を、少し羨ましいと思ってしまった。そんな迷いの中で、私は失敗したんです……でも、『佐伯の若君』という役を失えば、私は何者でもなくなる。私は過去にしがみ付くことでしか、自分を繕うことが出来ない……でも貴方は、過去に囚われず自由に生きろと仰いましたよね」


「……」


 ゴクリ、と、海人は固唾を呑む。彼女は、縋るような目をして問いを発した。


「私は、これからどうすればいいのですか?」


「……っ」


 言葉を詰まらせる海人。難しい問いだ。これまで過去に縛られてきた人間が、いきなり自由に生きろと言われても確かに難しいだろう。彼女が不安になるのも仕方ない。


 ――どうすればいい……か。


 仁王丸の言葉を反芻し、海人は思索の海に沈んだ。


 そして、ふと思う。彼女の苦悩は、究極的には彼女だけに限ったものではない。ある意味、人類普遍の苦悩であるのかもしれないな、と。

 彼女だけではない。皆、海人ですら、いつも何かを演じている。誰かが望んだ「何者か」であろうと、あるのかないのかすら分からない「本当の自分」とやらを押し殺して、望まれた「何者か」を演じている。


 ――自分がない……か。


 そもそも、「これが本当の自分だ」と自信を持って言える人なんてそうはいない。普通の殆どのか弱い人間は、常に他人の目が気になって仕方ないのだ。気になって仕方ないし、知らず知らずのうちに影響を受けて、その気は無くても「自分」を周りに合わせてしまう。演じるまでもなく、気付けば「自分」は他人の望んだものになっていく。


「……」


 そう考えると「自分」なんて、所詮は他者との関係性の中で決定される浮動的で相対的なものなのだろうか。「本当の自分」なんてものも、幻想の産物なのかもしれないとすら思えてくる。

 特に、仁王丸は父という身近な他者の望みを強く意識して生きてきた。「本当の自分」が分からなくなるなんて当然のことだろう。そんな彼女が自分を空っぽだと卑下するのも仕方がないことかもしれない。


 ――でも、本当にそうか? 本当に彼女は空っぽなのか?


 海人には、そうは思えない。だから、彼は飾らずに、思いのままに言葉を紡ぐ。


「お前は、空っぽなんかじゃない」


「え……」


「こうして思い悩める、そんな人間らしい人間が、空っぽなはずがないだろ? 生真面目で、ちょっとSっ気があって、でも世話焼きで根は優しい。そのくせ意外と頑固で困ったちゃん……お前はきっちり個性的で、自分の考え、そして、価値観を持ってるじゃないか。仮に仁王丸が『佐伯の若君』でなかったとしても、お前がお前でなくなるなんてあり得ない。お前が何者であろうと、仁王丸は仁王丸だ」


「……っ」


 海人は「何を偉そうに、って思うだろうけどさ」と、自嘲する。だが、それは紛うことなき彼の本心だ。彼女は空っぽじゃない。しっかり「自分」がある――少なくとも海人にはそう思える。


「……そう、なのでしょうか」


「そうさ。そんなに気負わなくたって良い。どうしたらいい、って、別にどうもしなくたって良いんだよ。無理に何者かになろうとする必要なんてない。そんなことしなくたって、生きたいように生きて良いんだ。みんなそうだし、俺だってそう。お前もそれで良いんだよ」


 不安そうな彼女にそう告げると、海人はわざとらしく笑みを浮かべてみる。


 しかし、まだ仁王丸の表情は晴れない。


「ですが……何者でもない私なんて、きっと誰も必要としてはくれない。父上の願いを叶えられない私に意味なんて……」


 うなだれたまま、力なく呟く彼女。

 そして、海人は一つ腑に落ちる。


 ――悠さんが言った仁王丸の弱さってこれのことか……


 彼女は、望まれた「何者か」になろうとし過ぎたあまり、己の存在意義を自分で見出すことが出来なくなってしまっていた。だからこそ、過去に固執する。純粋な復讐心や使命感以上に、そうあることで得られる他者からの承認でしか自分を維持できない、そう思い込んでしまっている。これは、ある種の呪いのようなものなのだ。


 ――でも、この呪いは解かなくちゃならない。これを解かない限り、仁王丸は新たな一歩を踏み出せない。


 だから海人は何度でも繰り返し口を開く。


「そんなに卑屈にならなくていい。お前でそれなら、俺なんてミジンコレベルの存在意義しかなくなっちゃうぜ?」


「でも、貴方は再臨の神子で……」


「そんなの名ばかりだ。周りが勝手に言ってるだけで、俺はどこまでいってもただの高校生。別に大したヤツじゃない」


「……」


「まあ、結局自分の存在意義なんて自分で適当に決めて納得するしかないんだよ。他人がどうとか、そんなの知ったことじゃない。自分の歩く道は、自分で決めていく。そういうもん」


「そう……なのですか?」


「ああ。少なくとも、俺はそう思うよ」


 自信なさげに聞き返す仁王丸を見て、海人は軽く目を閉じ答える。


「だから、そうだな……まずは、もっと自分勝手になろう。『誰かのため』だけじゃなくて、『自分のため』も大事なんだ。もっと気楽で自由に生きて良いんだよ」


「気楽で、自由……?」


「そ。俺が言いたかったのはそういうこと」


 海人は彼女の言葉を首肯し、少し笑みを浮かべてみる。うつむいた彼女の目が、僅かに前を向いた。


「……ですが、私には『自分のため』が分かりません」


「分からないって言っても、好き嫌い、楽しい楽しくないくらいはあるだろ?」


 はっとしたような表情を浮かべる仁王丸。きっと、これまでそんな考え方をしたことがなかったのだろう。

 海人は笑みを浮かべたまま、


「仁王丸は良くも悪くも生真面目すぎるんだ。生き方なんて、案外雑でもなんとかなるんだよ」


「でも、そんな私じゃ誰も」


「俺はお前を必要としてるぜ」


「っ!」


 考えるより先に言葉が口をついて出た。虚を突かれ、顔を上げる仁王丸。海人は彼女を真っ直ぐ見据え、自分を指さしてみた。


「一人はいるんだよ。別に過去に囚われずとも、お前にいて欲しいと思う奴が。それに、家に帰ればさらに二人いるんだ。何者でもない無印の仁王丸だって、大事な存在だよ」


「……私が……本当に?」


「ああ。嘘なんてつくもんか。怖がることなんてない。それに、さっきも言っただろ? 他人がどう思っていようと、お前は行きたい道を行ったらいい。お前の人生の主役はお前なんだから」


「……主役?」


「そうさ!」


 海人は手を広げて、全身で彼女の言葉を肯定した。仁王丸は震える口を真一文字に結んで、必死に感情を抑えている。海人は、慈しむような穏やかな視線を向けた。

 今の彼に出来るのは、これくらいしかない。彼女の背負った宿命を代わりに背負ってやることなんて、彼には出来やしない。


 ――でも、一緒に歩くことくらいは出来る。そんな中で俺は、仁王丸の笑う姿がもっと見たい。彼女に心置きなく笑ってほしい。


 そんな願いを込めて、海人は拙い言葉を紡ぐ。仁王丸を縛る枷が、一つでも多く外れるように言葉を絞り出す。


「辛いときは泣いたら良い。楽しいときは笑えばいい。お前の人生はまだまだこれからなんだ。好きにやっていこうぜ」


「――っ!!」


 その言葉は、奇しくも『彼』の言葉と重なった。目を見開く仁王丸。その目の端から、ふと一筋の光がこぼれた。その時初めて、彼女は自分が涙を流していることに気付く。


「あ……あれ?」


 人前で感情を露にすることを避けてきた彼女は困惑し、必死に涙をこらえるがそれはとどまることを知らず流れ続ける。掌で顔を覆い、嗚咽を抑えようとしても、その隙間からこぼれていく。


「……っ……す、すみません……こっ、こんな……」


「いいさ。ここでくらい、自分を抑えなくたって。そういう積み重ねが、きっと『自分』を作っていくんだよ」


「……でも………い、今さら……こんな私でも、良いのでしょうか……」


「ああ。いつからだって良い。そんなお前だからこそ良いんだ。だから、ゆっくりでいい。もっと自分に素直になろうぜ」


「……でも……め、迷惑じゃ……」


「別に構わないさ。お前の10年分のワガママで、いくらでも振り回してくれよ。そんくらいお安い御用さ」


 そう言って海人は気障ったく手を広げて見せる。

 

「暗い過去より、明るい未来を考えよう。どうせ、俺たちは前に進むしかないんだから。だからさ、精一杯好きに生きようぜ、仁王丸!」


「……っ」


 親指を立てて笑ってみせる海人。仁王丸は、涙を拭って幾度も頷いた。彼はそんな彼女の頭にそっと手を置く。すると、濃紺の瞳が再び潤み、一筋の涙が彼女の頬を伝った。でも、今度は抑えようとしない。ただ、流れるままに涙は止めどなく頬を濡らす。


 町の喧騒が遠くで響く中、海人は仁王丸が泣き止むまで彼女の頭を撫で続けていた。


 ▼△▼


 神域都市の境界、豊宮川に架かる橋。

 神官たちの工作で落とされたその橋は、早くも応急処置が為されて一応の機能を取り戻していた。


 緑髪の巫女は、そんな橋の上で潮風に吹かれながら頬杖をついている。

 彼女の表情はすぐれない。それもそうだろう。目標であった八咫鏡を喪失したのだ。陽成院派側に回収されるという最悪の事態は回避出来たが、これでは作戦成功とは言えまい。いくら悠天といえど思うところがあって当然だ。


「……」


 とは言ったが、実のところ彼女はそんなことを気にしてはいない。ただ、少し昔のことを思い返して感傷的な気分になっていただけである。


「……くどいぞ、大徳」


 揺れる水面、渦に引き込まれて揉まれる木の葉。悠天は、ぼんやりとした目でぽつりと呟いた。


 そんな時のこと、


「よう、姉ちゃん。何しんみりした顔してんだい」


 派手な装いの立て烏帽子の女、鈴鹿が珍しいものでも見るような表情でそこに立っている。悠天は面倒くさそうに鈴鹿を一瞥した。


「女よ……今回、其方は何か仕事を果たしたのか?」


「ほえぇっ!?」


 鈴鹿は意表を突かれて頓狂な声を上げる。確かに今回、彼女は何も出来ていない。海人に向かって大口を叩いたのはいいが、結局のところ猿田彦の術に見事にはまって道に迷っていただけだ。


「って、ちょっと待て! 俺は別にお前らの従者じゃねえし、そんな義理ねぇだろ!」


「知らん。神羅万象は全て我の為にあるのだ。我に利を為さぬものに価値は無い」


「メチャクチャじゃねぇか……てか、それならその辺の通行人とかはどうなんだよ!?」


 顔を真っ赤にして言い返す鈴鹿。悠天は頬杖をついたまま、ぼんやりと空を眺めた。


「…………それっぽい雰囲気役?」


「なんだよそれ!」


 アホみたいな悠天の返答に鈴鹿は声を上げる。悠天は呆れのこもった表情でため息をついた。


「喚くな。耳障りであるぞ」


「釈然としねぇ……」


「そんなもんさ、人生なんて」


「っ!?」


 突然の声に鈴鹿は勢いよく振り返る。

 そこには、知ったような薄っぺらいセリフを吐きつつ、ひらひらと手を振る海人が立っていた。悠天は琥珀の双眸で彼を見据えると、小馬鹿にするような口調で、


「ほう、ようやく起きたか寝坊助。三日ぶりの外の空気はどうじゃ」


「三日ぁっ!? またこのパターンっ!?」


「フッ、相変わらず騒がしいのう」


 悠天は海人を軽く鼻で笑うと、今度は彼の後ろに控えている少女を見やった。


「で、其方は随分しおらしくなったな? 気味が悪い」


「し、辛辣ですね……」


 いきなりの暴言に苦笑を浮かべる仁王丸。しかし、すぐさま気を取り直して表情を整える。怪訝な表情を浮かべる悠天に、仁王丸はニコリと笑みを向けた。


「ですが、何か問題でも?」


「いや、構わぬ」


 そう言うと悠天は再び水面に目を向ける。彼女は薄く笑みを浮かべて口を開いた。


「それで良いのだ」


 ▼△▼


 清棟との激闘から早五日。海人が寝ている間に伊勢の町は賑やかさを取り戻していた。あの地獄絵図が嘘のようである。


 さて、町人の間ではあの夜のこと、そして、吹き飛んだ皇大神宮の話題で持ち切りだった。ただ、町の衆は陽成院の皇子のことなど何も知らない。故に、自然災害だの、神の祟りだの、豊受神宮と皇大神宮の内輪揉めだの様々な憶測が流れている。


 そんな中、近いうちに南都の使節が視察に来るという噂が聞こえ始めた。海人たちは疲れが癒えるまで伊勢に滞在する気でいたが、どうもそうはいかないらしい。

 というわけで、彼らは足早に伊勢を去ることにしたのである。


「にしても濃い旅だったな」


「ああ、退屈せんで済んだ」


「え……?」


 あれだけのことがあってなおこの感想。そして、満足そうな顔。悠天の余裕ぶりは健在だ。残りの皆は若干引きつつため息をつく。「このじゃじゃ馬姫は……」という言葉を心中で噛み殺しながら、海人は口を開いた。


「まあ、何はともあれこれで大団円。みんな無事で良かった」


 周りを見渡し、しみじみと言葉を放つ海人。彼は一つ手を叩いた。


「さあ、帰ろうか。みんな待ってるぜ」


 京から伊勢まで、歩きっぱなしの強行日程。そして神器を巡った皇子との死闘。出会いと別れ、そして、成長と進化。悲喜こもごもの思いを交えた長い長い旅を終え、海人たち一行は帰路に就いた。

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