第69話:激戦の幕引きは夜明けとともに
突如現れた圧倒的な存在感、そして、圧迫感。彼は衝撃とともに神域へと降り立った。
「あの人は……!!」
目の前にいる彼は、かつて平安京で出会った青年。だが、あの時とは雰囲気が違う。彼が放つ圧は、清棟のそれを遥かに凌いでいる。まさに絶対的存在。
「これは借りか」
青年は能面のように冷たい表情で海人たちを一瞥し、そう呟く。彼はそのまま、表情を変えずに清棟を見下した。
「落ちぶれたな、兄上」
「経基ォォォッ!!!!」
怒りに我を忘れ、鬼のような形相で清棟は叫ぶ。彼は神気をかき集め、術式を同時展開、神裔の残滓を以って青年に手を振るう。
ただ、残滓と言っても最高神の力の片鱗。
「まだこれだけの力が……!?」
強大な神気が、空間が軋むような異様な感覚をもたらす。意表を突かれた海人たちには対処不能な高次術式だ。しかし、
「自惚れるなよ三下」
凍えるような、刺すような冷たい一言。経基は半狂乱になる清棟に、心の底から蔑むような表情を向けて剣を抜く。そして――
「契神「
「――っ!?」
青白い閃光が夜明けの境内を包む。清棟の術式のような中途半端な力ではない。純然たる神威が再び冒涜者に鉄槌を下す。
ドゴゴゴゴゴッ!! と、五感が根こそぎ奪われ、天地の別が消失するような感覚を周囲にもたらしながら、青年は三種の神器が一、天叢雲剣の力を遺憾なく発揮した。
「……な!?」
海人と仁王丸は、想像を絶する光景に開いた口が塞がらない。神子である悠天ですら驚きを隠せない。
射線上の伊勢神域林は消し飛び、地形が変わってしまっている。先ほどの一撃と合わせて、辺りは殆ど更地になってしまった。
――これは……まさか?
海人はこの威力に見覚えがある。先日平安宮を穿った一閃。それと同等の一撃が今、目の前で放たれたのだ。
なら、この青年の正体は自ずと定まる。
「蒼天の……神子!?」
「――ッ!!」
直後、悠天が動いた。一夜に渡る激戦の最終盤に現れた敵方の最高戦力。しかも、旅の目的であった八咫鏡を既に確保している相手。怯んでいる場合ではない。
彼女は倒れている清棟には目もやらず、残りの全力を掛けて目の前の脅威を排除しにかかった。
「盟神「
彼女は矛を大きく振りかぶり、賀茂社の祭神にして悠天の霊威の根源たる神の名と、かの神が振るった神剣の名を唱える。
この一撃で決める――そんな意志が見えるような気迫。空間の共鳴までを引き起こすような膨大な出力に、海人たちは息を呑んだ。
「この場より
だが、蒼天は瞬き一つしない。彼は気怠げな目をしてため息をつくと、小さく呟いた。
「契神「
「っ!?」
霧散する悠天の神気。満ち溢れる水の気脈。蒼天は一歩たりとも動かずに悠天の神威を阻む。
しかし、悠天は引かない。六神子の中でも上位の近接戦闘能力を誇る彼女は、矛を構え直して海神の領域に肉薄する。そして、ついにその刃を彼の首へと向けた。
だが――
「無駄なことを」
「な……!」
ガキンッ!! と、いとも容易く掴まれた矛。蒼天は微動だにせず、恐るべき腕力で悠天を制止する。
「消耗し切った今の貴女では私には勝てない。大人しく退いて貰おう」
「戯言を……! 我らの目的は八咫鏡、そうおめおめと奪われてなるものか!」
「そうか、残念だ」
「!?」
直後、彼女は宙を舞い、そのまま地面に叩きつけられた。
「ガッ……ァッ……!?」
全く反応できなかった。息が出来ない。身体が言うことを聞かない。悠天は困惑しつつ苦しげな声を上げた。
蒼天は単調なトーンで告げる。
「言ったはずだ。貴女では私に勝てない」
「くっ……」
悠天は地に伏し悔しげに唇を噛む。信じられない状況に海人は目を見開いた。
――そんな、馬鹿な……!
あの悠天が一瞬で無力化された。数時間に渡って戦い続けていたとはいえ、人間の領域を逸脱した強さを備える彼女が、だ。
血の気が引いていく感覚とともに、恐怖、動揺、怒りといった感情が海人の頭を支配する。彼の頰を冷や汗が伝った。
――一体どうすれば良い? どうすればこの状況をなんとか出来る!? 考えろ!!
そんな状況でも、海人は思考回路をフル回転させる。しかし、何も思い浮かばない。絶望的とも言える蒼天の戦闘力。満身創痍の海人に出来ることなど無いに等しい。
そんな彼より先に動いたのは――
「おのれ――っ!!」
「待て仁王丸ッ!!」
海人の制止も聞かず、彼女は蒼天に向かって跳躍する。しかし、
「君は大人しく寝ているといい」
「――っ!?」
蒼天は仁王丸の攻撃を容易くいなすと、彼女の首筋を軽く手刀で叩く。彼は気を失う仁王丸の身体を支え、静かに大地へ横たえた。
「……さて」
「く……!」
これで、残されたのは海人のみ。彼はたった一人で荒ぶる神の暴力と対峙する。高まる鼓動。荒くなる呼吸。パンクしそうになる頭をなんとか捻って、彼は打開を試みる。
――勝つのは無理だ……どうする? 最低条件はあの二人の生存、出来れば神鏡も渡したくない……何か手は……?
蒼天は、そんな彼に感心したように、
「君は思いの外冷静だな」
「!」
「臆病風に吹かれた者の目ではない。この状況で、未だ逆転の一手を探っている。だが、理解しているだろう? 君では役者不足だ」
「……っ」
海人は悔しげに奥歯を噛みしめる。蒼天の言葉に反論の余地はない。海人ごときでは、どう背伸びしようと彼には届かない。
――けど……
ついに掴みかけたハッピーエンドへの糸口。ここでむざむざと離す訳にはいかない。海人は力のこもった瞳で蒼天を睨みつける。
「……安心したまえ。今日君たちの命を奪うつもりは無い。刑部卿宮と謀叛人の神官どもを粛清し、八咫鏡を確保すれば私の仕事は終わりだ。君たちがこれ以上抵抗しないなら、私がここにいる意味はもう無い。大人しく鏡は諦めよ」
「勝手なことを言うなっ!」
海人は即座に声を上げる。最後の最後に突然割り込んできて、全てを持っていこうとする蒼天。このままでは、今回の旅の目的が果たせなくなってしまう。
焦りから勇み足になる海人。蒼天は目を細め、もう一度ため息をついた。
「君に一つ教えてやろう」
「っ!?」
彼が袖を振るのと同時に、海人の身体から力が抜ける。生物としての格の差を知らしめるような威圧感と神気の前に、彼の身体は意思に反して否応なくひれ伏したのだ。
それに、海人の疲労と負傷はもう誤魔化し切れないところまで来ている。むしろ今まで立っていられたのが不思議なくらいだった。
「くそ……」
大地に爪を立て、海人は苦しげに呟く。蒼天は憮然とした表情で、静かに目を伏せた。
「理想と現実は、永遠に釣り合わぬのだ。何かを望めば何かを取り溢す。全てを手に入れ、皆が幸せになるなど到底無理なのだ。何を選び、何を捨てるか。それを誤れば、己は何も得られず、何も守れない。これはこの世の真理だ」
「くっ……!」
蒼天はつまるところ、命は助けてやるから八咫鏡を諦めろと言っているのだ。
これだけの時間を掛け、これだけ辛い思いをして、これだけ多くの人を巻き込んでまで目指した八咫鏡の移送。あるいは、少女が一縷の望みをかけた朝廷の秘策。
それが、蒼天の理不尽な暴力の前にふいになろうとしていた。
「私の用は済んだ。失礼する」
「……っ」
蒼天は海人を一瞥すると、ため息をついて翻った。地に伏したまま、海人は悔しげに蒼天を睨みつける。
――ふざけるな……
絶対的強者が嘯いたこの世の真理――それは、海人の在り方とは真っ向から対立するものだ。誰もが納得するハッピーエンドを届けてみせる、そう海人は仁王丸に語ったのだ。
ここで引き下がれば、海人は蒼天の言葉に屈服し、仁王丸を裏切ることになる。そんなこと、彼には到底受け入れられなかった。
故に――
「……待てよ、蒼天」
「?」
絞り出すような声。蒼天の鋭い眼光が海人を刺した。だが、海人の心は怯まない。たとえ身体が言うことを聞かなくても、彼は蒼天に負けを認めたりはしない。
海人は蒼天を睨み返して言い放つ。
「勝手に悟って勝手に諦めて、勝手に他人の可能性を決めつけてんじゃねぇよ!!」
「……馬鹿なことを」
「馬鹿はお前だ! 皆が幸せになれる未来はきっとある。悩んで、歯を食いしばって、追い求めたその先に答えは必ずあるはずだ!! 何を選ぶ? 何を捨てる? ふざけるな! 全部拾い上げてやる! 俺はそのためにここに来たんだ!!」
息を切らして、海人は声を振り絞る。自分の語った理想論すら貫けずに、何が救国の神子だ――彼は己にそう言い聞かせ、目の前の絶対者に食らい付く。
蒼天は、そんな海人を小馬鹿にするように息を吐いた。
「……口では幾らでも言える。だが、現実の前に理想は無力だ」
諦めのこもったような声色で、蒼天は海人の言葉を一蹴する。異論は認めない、そうとでも言いたげな表情で彼は海人を見下した。
しかし、海人は引き下がらない。
「……なら、俺がその理想を現実にしてやる。お前の思い通りになんてさせない! お前が決めつけた下らない真理なんて――」
そこで、海人は一つ呼吸を整える。この状況で導かれる最善手。それを実行に移すため、彼は再び口を開いた。
「『粉々に砕いてやる』!!」
「――ッ!?」
海人が手を伸ばした刹那、八咫鏡にヒビが入り、無数の破片となってはじけ飛ぶ。目を見開く蒼天。苦しげにニヤリと笑みを浮かべる海人。
彼は残り僅かの力を振り絞り、言霊の力を鏡に向けたのだ。
「お前たちにそれは渡さない。伊勢の人々を危険に晒し、平安京を焼いて仁王丸たちの家族を殺したお前らに渡すくらいなら、俺がここで壊した方がマシだ」
「……!」
追い詰められた中で、海人が辿り着いた苦し紛れの勝負手――それは、八咫鏡の霊威を欲する陽成院派にとっても痛い一手だった。
「……成る程」
無力で口だけは大きい少年、その思いがけない抵抗。海人は不完全で不格好ながら、自らの言葉を実行し、一矢を報いてみせた。その事実に、蒼天は再び目を伏せる。
そして、静かに問うた。
「……君の名はなんという」
「俺は海人。高階の居候にして再臨の神子、海人だ!」
「……私は陽成院第六皇子、三条宮経基王。今代の『蒼天』だ」
「……!」
「また会おう」
蒼天は軽くなった左手を下ろして袖を振り、再び翻った。東の山の端が明るんできて、ついに長かった夜が明ける。
そんな眩い朝日に吸い込まれるように、彼は姿を消した。
更地となった境内を清浄な風が通り抜ける。ふいに切れた緊張。アドレナリンの過剰分泌で辛うじて保たれていた海人の意識は、ふっと遠のいていく。
――悠さんは……仁王丸は……
霞んでいく視界と耳鳴りが、ノイズのように彼の感覚を曖昧にして、ぐちゃぐちゃにして、そして――
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