第66話:佐伯仁王丸

「なぜ、わたしのなまえはこんなのなんですか?」


 ある日の昼下がり。あどけない少女は不機嫌そうに頬を膨らませつつ、隣に座る顎髭の男にそう言った。


「急にどうした?」


「みんなかわいらしいおなまえなのに、なんでわたしのなまえはこんなのなんですか?」


 少女は自分の名前が不満らしい。まあそうだろう。彼女の名前は、少女のものにしてはいささか厳めしすぎる。同年代では花の名前やらなんやら可愛げのある名前が殆どの中で、彼女の名前は少し浮いたものであった。


 しかし、相変わらず世間に疎いこの髭男がそんなこと知る由もない。


「嫌か、仁王丸?」


「いやです。なんですか、におうまるって」


「なんですかって……」


 ストレートな拒絶に男は顔をしかめる。彼女がこんな感じで不機嫌なのは、さしずめ友達に馬鹿にされたか、あるいは大人たちのひそひそ話を盗み聞いたからだろう。

 とはいえ、彼が三月ほど悩みに悩んだ末に決めた名前だ。はいそうですか、ごめんよ、とはならない。


「あのな、これでも父さんが色々考えて」


「ふつうこどものなまえはおんみょうじがうらなってつけるってかあさまが」


「ま、まあ、普通はそうかもしれねぇが」


 男は知ったかぶりをして面目を保とうとするが、聡明な彼女の前では無意味である。少女は父の無知を看破してため息をついた。


「とうさま、もうすこしべんきょうしてください」


「まさか娘に説教されるとは思わなかったぜ……まあ、頑張るわ」


 絶対しない、少女はそんな確信を抱いてため息をつく。男は苦笑しつつ、少女の頭にぽん、と手をのせた。


「ふゆっ?」


「お前は賢いなぁ。よしよし」


「からかわないでください」


 気恥ずかしそうに目を逸らす彼女を、男は撫で続ける。そして、教え諭すような声で口を開いた。


「そんな賢いお前なら、きっと父さんの期待も分かってくるはずだ」


「きたい?」


「ああ。お前には、みんなを守れるような強い人間になって欲しい。佐伯を引っ張って、仁王のようにみんなを守る存在になって欲しいんだ」


 そう語る男を見て、少女は不思議そうに首を傾げる。


「でも、わたしはおんなですよ?」


 この男中心の平安貴族社会では、家督を継ぐのは男と決まっている。だから、中流貴族の娘に強さなど求められていない。おしとやかで、しなやかなで、むしろ弱くあることが求められる。

 それは、この幼い少女にも分かっていた。良くも悪くも常識のある少女が父の言葉に違和感を持つのは当然である。


 しかし、男は何がおかしいのか微笑みながら口を開いた。


「でも、お前はお姉ちゃんだろ? それに、当主の娘。犬麻呂やみんなを導くべき立場の人間だ」


「……ちちうえはへんなことをいいますね」


「そうかもな。でも、お前なら出来る、いや、お前だから出来ると俺は思うんだ」


 相変わらず首を傾げたままの少女。そんな彼女を見て苦笑し、男は少女の頭に手を置いたまま遠い目を浮かべた。


「そうだ。多分近いうちにアイツが現れる」


「あいつ、ってだれです?」


「『再臨の神子』さ」


「さい……りん?」


「そ。学生服を着た救世主だ。きっと、お前の力になってくれる。困ったときは頼っ……いや、多分肝心なとき以外あんまり頼りにならねぇが、そん時は天野……じゃなくて師忠がいる。まあ、一人で全部抱え込まなくてもいいってことだ」


 そういうと、男は少女の目を真正面に捉え、ニカっと笑った。


「辛いときは泣いたら良い。楽しいときは笑えばいい。お前の人生はまだまだこれからなんだ。好きにやっていこうぜ」


 ぽかーんとした表情の少女。その時、向こうから男を呼ぶ声がした。彼は立ち上がり、微笑んだまま振り返りざまに口を開く。


「この先どんなことが起きても、佐伯の、みんなのことを頼んだぞ」


 灼天の神子を擁する南都軍が彼もろとも平安京を焼き払ったのは、その日の夜のことだった。


 ▼△▼


 少女はその日を境に変わってしまった。表情から笑顔が消え、口数が減った。屋敷の外へ出ることも殆どなくなった。友達と遊ぶことなど一切なくなり、代わりに独り、勉学や鍛錬に励むようになった。


 もはや二人しかいない佐伯の一族。朝廷から除名されて貴族の身分を失い、高階の家人に甘んじることとなっても、彼女は一族の長としての役目を果たそうと努めた。


 父の仇を討ち、一族を再興する――それが全てを失った少女の生きる理由。しかし非情にも、現実はそれを簡単には許さなかった。

 一族内の対立と慣例のせいで、動くに動けない高階。なぜか南都征討に消極的な帝と摂政。そして、一向に現れる気配のない救世主『再臨の神子』。


 ――私は何一つとして、父の言葉を守れていない……


 そんな彼女を尻目に平安京の復興は進み、徐々に活気を取り戻していく。少女の心には、焦りが芽生え始めた。

 しかし、彼女が焦ったところで事態は何も変わらない。そんな鬱屈とした日々が続いた中、ふと少女の心に虚無感が生まれた。


 ――なんで私がこんな目に……


 同年代の子たちは、もはやかつてと変わらない日常を取り戻している。気弱だった弟も、あの日のことが嘘だったかのように元気に過ごしている。喜ばしいことのはずなのに、少女は胸が締め付けられた。


 そして不意に、思ってしまった。


 ――本当なら自分もそうなれたはずだ。なのに、何故、何故私だけが、孤独に戦い続けなくてはならないのか? 父上は、なんで私にこんなことを押し付けたのか?


 無意識のうちに溢れる父への悪感情。その半ば八つ当たりめいた感情は、彼女を自責の念へと駆りたてる。

 しかし、一度湧き出した感情は止まらない。そして、止まらないものを止めるため、次第に彼女は自分を演じるようになっていった。父の言葉を体現し、それ以外の全てを削ぎ落した純粋な存在を、彼女なりに演じようとした。


 そして、ありとあらゆる方法を尽くした。己の研鑽はもちろん、他者の力を借りることも厭わなかった。朝廷の有力者には、時に人に言えぬような手段を用いてでも近づこうとした。

 しかし、駄目だった。悠天には本心を看破されて嘲られ、また朝廷の重すぎる腰を上げさせることは出来ず、そして単身で敵を相手に出来るほどの力も得られなかった。


 結局、彼女の頼みの綱は父の言い残した『再臨の神子』のみとなった。

 古文書にもほとんど記述がない、実在するかどうかも分からない不明の存在。しかし、彼女には彼を待つほかなくなってしまった。


 そんな中現れたのは、見るからにひ弱な少年。他の神子、いや、並みの武官と比べても見劣りする能力に、少女は例えようのない落胆を覚えた。そしてその失望は、次第に明確な絶望へと変わっていったのである。


 そして、彼女は失敗した。焦りと絶望、不意に垂らされた蜘蛛の糸。重責と絶望の狭間で揺れ動いてしまった。

 

 いや、あるいは無自覚のうちにこうなることを分かっていたのかもしれない。本当はもう全て終わりにしたかったのかもしれない。早く責任から逃れて、自由になりたかったのかもしれない。


 いずれにせよ、彼女は自ら破滅の道を進んだ。


 そんな彼女を、彼は見放さなかった。再臨の神子。学生服を着た救世主。彼女が思い描くそれとは随分趣が違ったが、彼は確かに救世主だった。少なくとも、今の彼女に彼はそう見えた。


「もう、そんなに思いつめなくていい。俺が、俺たちが力になる」


 少年は少女を抱きしめる。労うようで、慈しむような、優しい声色。少女は、何も言わず、ただ彼の胸の中で肩を震わせた。


「ごめんよ。今まで独りでよく頑張ったな」


 ▼△▼


 泣きじゃくる少女を抱きしめながら、海人は紅く染まる夜空を睨みつける。彼の眼には紅く怪しく輝く夜空、そして、恐ろしく複雑な点と線の集合体がはっきりと映っていた。


 佐伯の術式は解かれた。だが、清棟の術式は死んでいない。恐らくまだ何か仕掛けがあるのだろう、海人はそう即座に判断する。


 戦いはまだ終わっていない。手元の時計は五時九分。夜明けまでもう時間がない。

 海人は視線を皇大神宮の神域林に向けた。


 響く轟音。上がる土煙。悠天はまだ戦っている。領域内の魂と術式を介して接続され、神宮の神気すら掌握した主宰神の代理人相手に、天神の導きのみで渡り合っている。

 だが、彼女が勝つためには清棟の術式をどうにかしなければ――


「待てよ」


 その時、海人の頭にある一つの仮説が、いや、仮説というにはあまりにもお粗末な思いつきが浮かんだ。


 ――八咫烏……そして、俺の権限の範囲は……いけるか?


 点と点が脳内で繋がる。起死回生の一手。その糸口を、海人は掴もうとしている。


 ――俺の力は言霊の種火……つまり、言葉の通りに現実を改変する力。これに月詠の左目があれば可能性はゼロじゃない! それに、八咫烏は異伝ではあの神の子。なら――


 そして、彼は真剣な面持ちで口を開いた。


「仁王丸、一つ頼みがある」


「……え?」


「悠さんとここから話がしたい。一つ考えがあるんだ。上手くいけばお前の失敗もチャラにできる。まだ何もかも間に合うかもしれないんだ。そう、ハッピーエンドへの道はまだ閉ざされてない」


 彼は戦いの中で得た一つの「思いつき」を胸に、一つ大きく息を吸う。そして、ニカっと笑みを浮かべた。


「さあ、こっから逆転だ! 全部取り返しにいくぞ!!」

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