第63話:幽世、少女が独り
「……ぁ、はぁ……ぐ……」
どことも知れぬ闇夜の神社。その本殿の柱に、少女は縛り付けられていた。
彼女に外の状況は分からない。
だが、推測は出来た。
人を口先で騙し、その誇りを蹂躙するような男が絶対的な力を手にしたら何が起こるか。そんなことは、考えるまでもなかった。
佐伯の術式、それだけが清棟の狙いだった。まんまと嵌められたと気付いた時には、全て手遅れだった。
「……ざまあないな」
少女は自嘲し、乾いた笑みを浮かべる。
しかし、その声は誰にも届かない。
導きの神の力が生み出した永遠の袋小路。その最奥部に辿り着ける者など誰もいない。
彼女は孤独に、ただ己の未熟さを、軽率さを、愚かさを呪った。
――私は師忠様の期待を裏切った……
彼は、仁王丸に海人の護衛を任せると言った。にもかかわらず、彼女は海人のもとを離れ、あろうことか陽成院の皇子に利用されてしまった。
一時の気の迷いが、と言ってしまうには大きすぎる失態。彼女は、取り返しのつかない過ちを犯した。
波を打つように繰り返し迫る自責の念。
うつろな目をしてうなだれる少女。
そんな少女の脳裏にふと、かの少年の顔が浮かんだ。思えば、彼女は別に海人を憎んでいるわけではない。ただ、不甲斐ない彼に失望し、見放そうとしただけで。
――いや、それだけじゃない……
苦しげな表情を浮かべて少女は首を振る。
――私はただ、あの人が嫌いなだけだった。気に入らなかった。
何のしがらみもなく、気丈にふるまう少年。いきなり慣れない土地での生活を強いられても、そして自分が弱い存在だと自覚していてもなお、他者に手を差し伸べようとするお人よし。
――違うか。私は、あの人がうらやましかったのか。
過去に囚われ、自由に生きることを許せなかった彼女にとって、彼はある意味自分が望む生き方をしていたのだ。
同時に、彼のようになれないもどかしさ、そして、彼に対する嫉妬にも近い感情が彼女を支配していった。それが無意識のうちに蓄積した結果が、今の状況と言うわけである。あるいは、ある種の八つ当たりであったのかも知れない。
「……情けない」
結局、もとを糺せば彼女のエゴがこの事態を招いたとも言える。自業自得では済まされない――彼女は必要以上の後悔に苛まれる。
しかし、どうすることも出来ない。
そんな時だった。
『結局、あなたはどうなりたかったのよ?』
突如仁王丸の頭に響いた少女の声。
「……誰!?」
気付くと、仁王丸は見知らぬ部屋の中にいた。夜なのに妙に明るい。知らない道具がそこらに置かれている。そんな中に、宵闇のような目をした見慣れない装いの少女が一人、足を組んで椅子に腰掛けている。
「カイトや天野の期待を裏切ってまで、あなたがしたかったことは何?」
「……っ!」
決して、責めるような強い口調ではない。淡々と、静かに問いただすような口調。それが却って、仁王丸の罪悪感を刺激した。
「それは……」
仁王丸は、沈痛な面持ちを浮かべて黙りこむ。答えが無いわけではない。しかし、その答えを口に出すことは出来なかった。
「……やっぱり、アイツの娘ね」
少女は、仁王丸の心を見透かしたように、面倒くさそうなため息をついた。
「結局、あなたは自分が思うより自分勝手で年齢相応に幼いのよ。そして、それを認められずにいる。いや、そうあることが許されない呪いに掛かっている、と言ったほうがいいのかな?」
「私が……自分勝手で幼い?」
「そう。そのくせして生真面目すぎるから、現実と理想とのギャップに押しつぶされた。そんなところでカイトが余計な事したから、あなたはいっぱいいっぱいになっちゃったのね。で、シクッた」
「……」
かなり遠回しではあるが、自分の中の答えの核心を的確についた少女の言葉。しかし同時に、仁王丸には受け入れがたい答え。彼女は再び黙り込む。
宵闇の目の少女は目を伏せると、何かを言いかけるが――
「……あたしの仕事はここまでみたいね」
ぱちりと指が鳴らされる。歪む視界、差し込む光。仁王丸は放り出される。
『あなたがどうしたいか。どうするべきか。それは、あなたが決めること。あたしもカイトも、言いたいのはそれだけよ』
憐れむような少女の声が、仁王丸の頭の中で反響して――
▼△▼
そこは、元の神社だった。だが、先ほどの閉鎖空間ではない。間違いなく、神域都市に現実として存在する一つの座標の上にある空間。異様な神気に満ち、紅く染まった空の下に広がる町の一角。
仁王丸はようやく事態を把握する。
いくつもの神気が消えていく様子が彼女には感じ取られた。今こうしている瞬間にも、無辜の民の命が失われている。
「私のせいで……!」
自らの未熟さ故、無関係の人間を死に追いやった。そして、自分が守りたかった一族の誇り、父との約束も滅茶苦茶にしてしまった。彼女は再び、自責の念に襲われる。
「……止めなくちゃ」
清棟の術式――神裔の術式の複製版は、神裔の保証人たる存在がいなければ顕現出来ない。その保証人たることが出来るのが佐伯の氏長であり、すなわち仁王丸だ。
逆に言えば、彼女の存在が清棟の術式の核となる。なら、術式解除のもっとも確実で迅速な方法は――
「…………ぁ」
気付けば、仁王丸の手足を縛っていた縄は無くなっていた。代わりに、粉々に割れた神鏡が散らばっている。
――『君がどうしたいか、どうするべきか。それは、君が決めるべきことだ』――
彼女は見知らぬ少女の言葉を思い出す。どうすべきかは、分かり切っていた。この事態を収束させ、失態の責任を取らなくてはいけない彼女が出来ることなど、一つしか残されていない。
仁王丸は震える手で神鏡の欠片を拾った。
――……自分勝手で幼い。確かに、その通りだ。結局これまでの私の行動は、全部ただの意地……でも、そうでもしないと、私は自分の存在を肯定できなかった。父の言葉を守る、その意地だけが、生きる理由をなくした私を無理やり生かしていた。思えば父の言葉すら、自分の存在を肯定するための口実でしかなかったのかもしれない。その口実すら守れなかったのなら、もう私に生きている価値はない……そんな自分の最期としては、相応しいものなのかもしれない――
仁王丸は天を仰いで深く息を吐く。
そして、静かに欠片を首筋へと当てた。
手を引けば、全てが終わる。
白い肌を薄く裂いた欠片に血が伝った。
仁王丸は身体の震えを抑え、目を伏せる。
「父上、申し訳ありません……」
そう小さく呟くと、彼女は細い腕に力を込めて――
それは、突然の出来事だった。
バンッ! という音とともに、扉が蹴破られる。彼女の手から欠片が滑り落ちた。その視線の先に、見慣れた顔が一つ。
「なん……で?」
「やっと……見つけたぞ……」
息も絶え絶えに告げるボロボロの少年。導きの神の秘術を破って見せた『再臨』は、安堵したような顔でそこに立っていた。
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