第62話:猿田彦の罠

 走り続けてどれほど経っただろうか。

 依然として仁王丸の居場所は分からない。宇治周辺の神社は周れるだけ周った。山田の方も鈴鹿たちが見て回ってくれている。

 しかし、全く状況は良くならない。


 ――ホントに見つかんのかよ……


 そんな不安に駆られるが、今の海人は月詠の言葉を信じるほかない。彼はただ、ひたすらに足を進める。


 そうしてしばらく走り続けていたとき、突如妙な違和感が海人の心を支配した。

 弾かれたようにバッ、と周りを見渡すと、彼は苦し気に奥歯を噛みしめる。


 ――やっぱり、さっきと同じだ……


 同じような店、同じような道、そして、同じような景色。彼は同じところをぐるぐる回っている。

 月詠と出会う前にもあった現象。彼はいつの間にか不可視の迷路に迷いこんでいた。


「……またか」


 ただ、海人の表情はそれほど険しくない。

 確かに、先ほどまでは完全に理解不能で対処不能の事態だった。しかし、今は違う。なにせ、この世界でこれまで彼が出会った怪現象のほとんどは術式絡み。なら――


「さっそく借りるぜ、お前の目!」


 彼は右目を閉じる。左目に宿るのは、神気を可視化し、術式を見破る月神の霊威だ。そして視界に映る幾何学模様。海人は一つ息を吐いて、ニヤリと笑って見せる。


 ――ビンゴだな。


 予想通り存在した規則的な神気の流れ――術式だ。専門知識が無い彼には詳細など全く分からない。

 だが、それでも一つ分かったことがある。


 ――この術式陣、町中で渦巻いてる神気を、ある一点に集めるよう調整してるぞ……


 今度は左目を閉じる海人。右目に宿るのは、月明かりが照らす範囲を遍く見渡す月神の目。左目で看破した淡い光の線は、一体どこへ向かって伸びているのか――彼は天を仰いで目を細める。

 そして、見つけた。


「猿田彦神社!」


 間違いない。神域都市の神気は、猿田彦神社を中心にして渦巻き状に展開している。ちょうど、彼が迷い込んだ迷路がその線上に来るように。

 また、海人は思い出す。仁王丸が消えたのは、まさにその猿田彦神社だということを。


 ――そこにいるのか!?


 思えば、数時間前に彼はその場所に立っていた。しかし、気付かなかった。なにせ、月詠の言葉を信じるなら仁王丸は隔離空間にいる。絡繰りが分からなければ見つけられるはずがない。


 ――とりあえず、行ってみればどうとでもなるはずだ!


 海人は左目を閉じたまま駆け出す。淡い線の上をなぞるように、彼は借り物の視界を頼りに進んでいく。そして、彼は息も絶え絶えに辿り着いた。


「……ぁ、はぁ……」


 静寂が支配する深夜の猿田彦神社。不思議なほどに人がいない。すごそこに宇治の町が広がっているというのに、誰もここには迷い込んでは来ていない。異様としか形容出来ない状況。海人の頰を冷や汗が伝う。


 そこに現れたのは――


「よう、兄ちゃん。もうかりまっか?」


「そんな気はしてたよ」


 かっかと笑みを浮かべる猿顔の小柄な老人に、海人は冷たい視線を向ける。老人はキョトンとした表情を浮かべて首を傾げた。


「あれ? おっかしいな……なんで勘付かれてるん?」


「……お前は何者だ」


「猿田彦。お嬢さんにはそう名乗ったわ」


「どうせ偽名だろうが」


「さあ、どうやろね?」


 怪老はケタケタと笑い声を上げる。海人は険しい表情で彼を睨みつけた。


 ――多分コイツは陽成院の手先。出来ればあんまり会いたくなかった人物だが……


 そう思いつつも、海人は確信していた。間違いなく、この男は仁王丸捜索のキーになる。だから、彼は一歩前に踏み出した。


「お前は仁王丸がどこにいるか知ってるのか?」


「仁王丸?……ああ、佐伯のお嬢さんのことやね」


「知っているんだな!!」


「ほう?」


 海人は猿田彦に飛び掛かる。ようやく掴んだ彼女の手掛かり。それを決して離すまいと、彼の身体は考える間もなく動き出した。だが――


「いきなり手ぇ出すんは感心せんなぁ」


「は……?」


 猿田彦の衣に触れた瞬間、伸ばした手がすり抜ける。妖しげに笑う怪老。海人には何が起こったのか全く分からない。


 実体がなかったわけではない。

 確かに一度は触れたのだ。


 そして、躱されたわけでもない。彼は、一度たりともそんな動きを見せていない。


「契神術……いや」


 違う。


 契神術は基本的に無詠唱はあり得ない。神の名を唱え、言霊の力を以て術式を構築する以上、詠唱は発動の絶対条件だ。


 無論、例外はある。


 前もって術式を記述した霊符や刀などを使えば、術式行使の際に詠唱を省略できる――そんなことを師忠が言っていたのを海人は思い出した。しかし、猿田彦がこれらを使った気配は全くない。となると、


 ――まさか……権限!?


 消去法的に最悪の可能性に行きつく海人。詠唱なしで行使できる異能を、彼はそれくらいしか知らない。

 その仮説が正しければ、目の前の男が神子であるという結論が導かれてしまう。


 ――冗談じゃねぇぞ……


 今のところ、神子は平安京に三人、平城京に二人、残り一人が消息不明。つまり、可能性として一番高いのは平城京の『蒼天』、もしくは『灼天』。


 蒼天の戦闘能力は言うまでもない。灼天に関して海人はほとんど知らないが、十年前に平安京を焼き払い、佐伯を事実上の滅亡まで追い込んだ張本人と聞いている。いずれも海人如きに太刀打ち出来るはずがない相手だ。


「くっ……」


 そんな時、猿田彦はおもむろに口を開く。


「あ、ゆうとくけどぼくは神子なんかとちゃうから。ただの干からびたおっさんやで」


「ふざけるなっ!!」


 そんなはずはない。ただの術師に、こんな芸当出来るはずが――


「兄ちゃんの知らんことがいっぱいあるんよ。この世界には、な」


 猿田彦は怪しい笑みを浮かべたまま嘯く。


「ただ、最初の問いには答えてあげよ。うん、ぼくはお嬢ちゃんの居場所を知ってる。てか、そこや」


「なっ!?」


 ふっ、と彼は本殿を指差す。目を剥き固まる海人を興味深そうに見つめたまま、猿田彦は手を広げる。


「お察しの通り、あの子がおるんはこの位相やない。けど、おるんはそこや。やから、ぼくはここに来たんよ。そう簡単に通すわけにはいかんからなぁ」


「くっ……!!」


 猿田彦の気配が変わる。いや、纏う神気が変わった。全身の毛が逆立つような感覚に、海人は身を震わせる。しかし、猿田彦からは目を離さない。彼は感心したように一つ息をつくと、ニヤリと笑みを浮かべた。


「まあ、流石に全力で足止めするんは可哀そうやから、一つ勝負をするっていうのはどうや?」


「勝負だと?」


「そ、勝負。ちゅうても簡単や。一回、そう、一回でええ。たった一回、ぼくを捕まえることができたら兄ちゃんの勝ちや。もし勝てたら、これ以上邪魔はせえへん」


 猿田彦が柏手を打つ。

 境内に乾いた音が響く。


 恐らく、それをトリガーにして何かの術式が発動した。立ち込める嫌な空気に海人は冷や汗を流す。


 目の前の老人は、間違いなく常識の範疇を逸脱した存在。それは世情に疎い海人にも分かる。そして、猿田彦との勝負に勝たなければ永遠に仁王丸を見つけられないことも、彼は本能的に理解していた。


「くっ!!」


 彼に選択肢など残されていなかった。

 なら、海人の返答はただ一つ。


「分かった、その勝負受けてやるっ!!」


 思わぬ妨害。

 進まぬ捜索。


 日の出まであと一時間。


「手短に終わらせてやる。覚悟しろよ、おっさん」


「やれるもんならやってみぃ」

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