第51話:佐伯の秘儀
「陽成院の……皇子!?」
白い神官装束の男を前に、仁王丸は唖然として立ち尽くした。あり得ない、受け入れがたい、そんな現実が目の前にある。
「そんな……」
父を焼き、一族を焼き、国を焼いた憎むべき暴君――その皇子。彼女は見開いた目を閉じることが出来ない。
そんな彼女に、陽成院の皇子はゆっくりと歩み寄る。そして――
「まずは謝罪しよう。この度のこと、そして、父帝が其方らに強いた苦痛を」
「…………………………ぇ?」
跪き、頭を下げる皇子。状況が理解出来ず彼女は固まった。目の前にいるのは憎むべき一族の仇。彼女の恨みはこの程度の謝罪で晴れるほど浅いものではない。
だが、血も涙もないはずの存在からは決して出てこないと思っていた言葉。仁王丸は沸き上がった感情と現実の間で情緒をぐちゃちゃに乱される。
「これは私も負うべき業だ。その償いをするために、私はここにいる」
「……か、勝手なことをっ!!」
仁王丸は声を荒げる。
だが、清棟は彼女の瞳から目を離さない。
「勝手は承知。だが、それでも為さねばならぬことがある」
「そんな……陽成院の皇子になぜそんな義理がっ!!」
「私の母は佐伯の出だ」
仁王丸は目を見開いた。そんなことがあるはずがない、そう断じてしまいたくなる。
しかし、彼女は知っていた。陽成院派の反乱が起こる前に、陽成院の後宮に入った佐伯の人間がいることを。
だが、その子息とまさか今ここで出会うとは思ってもみなかったのだ。
「父帝は母の一族を滅ぼした。それだけではない。つい先日も平安京の無辜の民に刃を向けたのだ。これ以上の狼藉は耐えられない」
仁王丸には、彼の言うことが分からない。
いや、本当は分かっているのに、分からないふりをしている。
同族の血を引き、彼女と同じ思いを持つ陽成院の皇子が、目の前にいる。
陽成院派は全て須らく滅ぼすべき敵――そう思い続けてきた彼女の中で、何かが崩れようとしていた。
「今更、何を……」
「そう、今更だ。その謗りは甘んじて受け入れよう。私はこの十年、何も出来なかった。無力だった。何度も父を諫めようとしたが、全ては水泡に帰した。故に私は決めたのだ」
清棟は一つ息を吐くと、真剣な面持ちを浮かべて仁王丸を見た。燭台の灯が、清浄な風に揺れる。
そして――彼は彼女に手を差し伸べた。
「私は父帝を、陽成院を討つ。その為に、其方の力が必要だ」
清棟は臆することなく堂々と言い放つ。
父を討つ――それは即ち、反逆の宣言。
「『佐伯の若君』たる其方が必要なのだ」
「――っ!」
悠天に鼻で笑われ、再臨に否定された「佐伯の若君」としての自分。それを肯定する清棟の言葉は、今の彼女が一番欲している言葉でもあった。
しかし、彼女が目を見開いたのはそれだけが理由ではない。清棟の一言で、仁王丸は自分がここに連れられてきた意味をはっきりと理解したのだ。
「まさか……!」
「ああ、そうだ」
清棟は不気味な笑みを浮かべる。
「佐伯の秘儀……それを行使できるのは其方だけだ」
彼は立ち上がり、仁王丸を見つめながら自慢げに手を広げる。そして――
「私は新たな『神裔』となる!!」
「っ!!」
「神裔の力を以てして、父帝を誅する。其方の力、佐伯の秘儀があれば、私にはそれが出来る!」
佐伯の秘儀、それは、有資格者への強制的な皇位移譲である。天孫降臨、そして、三種の神器。その神話をもとに編み出され、
「馬鹿な……」
三種の神器を運んだ天忍日命。その末裔たる一門が大伴氏と佐伯氏である。
大伴が絶えた今、その秘儀を継承しているのは仁王丸ただ一人。皇位継承の保険にして最終手段、それが彼女が父から受け継いだものの正体であり、また彼女が佐伯の家を継いだ所以でもある。
「本気……なのですか?」
つまり清棟は、自身の血筋と仁王丸の術式を以て皇国の新たな帝になると言ったのだ。
だが、それはつまり――
「今の帝……平安京の朱雀帝とも戦うつもりだと……?」
「無論、そのつもりだ」
「しかし……」
陽成院のみならず、朱雀帝とも刃を交える、そう断言した清棟。仁王丸は苦し気な表情を浮かべる。
彼女は別に朱雀帝の派閥というわけでもない。彼女が属する高階は、やや朱雀帝よりの中立だ。だから、本来朱雀帝がどうなろうと特別問題はない。ないが、彼女は逡巡する。
そんな彼女に清棟は、
「其方は、何故摂政忠平が佐伯を見殺しにしたか知っているか?」
「それは……」
十年前の陽成院派の大攻勢。そして、平安京焼討ち。朝廷は、灼天の神子を抑える佐伯を見殺しにする判断を下した。
そう彼女は思っていた。
無論、怒りはある。だが、それならまだ筋は通っていた。それに、神子一人を足止めするだけの力は持っている、そう信じられていたことの証左でもある。
なら、それは名誉なことだ。
「……」
しかし、そうではないことに仁王丸は薄々勘づいていた。でなければ、佐伯の遺児である彼女たちがこれほどまでに虐げられ、官位も与えられずに家人の身まで落ちぶれることなどあるはずがない。
「……っ」
屈辱の日々を思い出し、仁王丸は唇を噛みしめる。清棟は目を伏せ頷いた。
「奴らにとって佐伯は邪魔だったのだ」
仁王丸は何も言わない。いや、何も言えない。清棟は痛ましい表情をして続ける。
「自らが立てた帝が一介の臣下に否定される、それを恐れたのが平安京の連中よ。つまりは、その程度の思惑で代々己らに尽くしてきた一族を見捨てるような連中だったのだ」
「そんな……はずは……」
「朱雀帝も陽成院も根は同じだ」
清棟は仁王丸の現実逃避を一蹴する。とうの昔に気付いていたはずの事実、それを今、彼女ははっきりと突きつけられた。
――我にとっては帝が勝とうが上皇が勝とうが興味はない。どうせ同じ穴の貉よ。
清棟の言葉が悠天の言葉と重なる。避けようのない残酷な事実に、仁王丸は力なく膝をついた。そんな彼女に、清棟は歩み寄る。
彼は片膝を付き、仁王丸の手を取った。
「其方は佐伯の若君だ。なら、若君としての務めを果たせ」
「……!!」
仁王丸の脳裏に亡き父の顔が浮かぶ。佐伯の未来を託し、幼い姉弟を残して死んでいった父の、あの日の言葉が蘇る。
「其方の父の仇を、私とともに討とう。そして、佐伯を再興する。さすれば、それが亡父への供養となろう」
はっと目を見開く仁王丸。
「そして、我らがこの国を作り直す!! 我らが新たな時代の為政者となるのだ!!」
再び、熱のこもった声で清棟は言い放った。仁王丸の心は揺れる。
この皇子に与すれば、あるいは一族の復興を成し遂げられるかもしれない。一族を滅ぼした仇を討つことが出来るかもしれない――そんな希望が見え隠れする。
だが、相手は仮にも上皇の皇子。信じて良い相手なのか彼女には分からない。
だから、最後に問いかけた。
「……貴方は、帝も上皇も誅すると言いましたね」
「ああ」
「なら、高階はどうするおつもりです」
「ふむ?」
「仮に朱雀帝と戦うなら、高階は間違いなく平安京側に付きます。その時、貴方はどうするおつもりですか」
朱雀帝や平安京陣営が滅ぼされようが、彼女にとっては別に構わない。
だが、高階に刃が向くというのなら話は別だ。高階は仁王丸にとって家族同然の一族。守りたい、失いたくないものの一つである。
「どうなんです!」
「……」
声を荒げる仁王丸を冷たい目で見つめて、清棟は少し黙り込む。
場に緊張が走った。彼の次の言葉で全てが決まる――そんな雰囲気の中で、清棟は凶悪な笑みを浮かべた。
「無論、敵となるなら滅ぼすまで。その家人まで、一人残らずな」
「なら話は終わりです」
仁王丸は清棟の手をはねのけた。
交渉は決裂。清棟はやれやれ、と首を振ると、大きなため息を一つつく。
「残念だよ。佐伯の若君」
直後、空気が揺れる。原因は考えるまでもない。清棟が放つ神気――神裔の一族が生まれ持って備える、並外れた量の神気だ。
――腐っても親王というわけか……
仁王丸の頬を冷や汗が伝う。だが、戦意は失わない。たとえ神気の量が違えど、それを補う戦い方はいくらでも――
しかし、彼女は今更気付いた。
――刀が、それに霊符も無い!?
愕然とする仁王丸。
「どうした?」
「くっ……」
刀と霊符。それらはいずれも、術式の効果を増幅するいわば触媒のような働きを持つ代物だ。無くても術式の発動自体は出来るが、効果は大きく下がってしまう。その両方を、彼女は宿に置いてきてしまった。
「こんな時に……!」
「最悪其方の身体さえ手に入ればそれで良かったのだ。潔く諦めた方が身のためぞ」
「馬鹿なことを!」
仁王丸は霊符も無しに術式を行使する。鈴鹿如きが相手ならそれで十分だったが、今の相手は親王。勝ち目は万に一つもない。
しかし、
「ただで負けてやるつもりは無い! 武門の跡取を見くびるな!!」
「哀れな娘よ」
ため息をつく清棟。仁王丸の覚悟は、圧倒的な実力差の前に露と消えた。
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