第39話:もののふの矢橋の船は速けれど
数時間後、海人たちは波に揺られていた。
琵琶湖の夕暮れ。遮る物のない舟の上に西日が差してくる。風も冷たい。旧暦の神無月は新暦なら十一月頃にあたる。そろそろ上着が欲しくなる季節だ。
――それにしても疲れたな……
海人は足をさすりながら気だるそうにため息をつくと、対岸の町を見やった。
平安京から東に向かい、
だが、現代っ子が歩く距離ではない。海人がダウンするのも当然だろう。
まあ、彼が疲れている理由はそれだけではないのだが。
――黙ってれば美人なんだけどなぁ……
風になびく綺麗な緑髪に目を移すと、海人は再びため息をついた。
口数は多い。目を離すといない。自由人にも程がある悠天の振舞いに、海人たちは一日目にして振り回されまくっていた。
舟を使うことにしたのも彼女の強い要望によるものだが、実は陸路で行った方が早い。にもかかわらず舟を使ったのは、ただ彼女が舟に乗りたかったからというのに尽きる。
「はぁ……で、結局俺たちはなんで伊勢まで行くんですか?」
「ああ、そうじゃった、それは――むぐぅ」
悠天の口を仁王丸がすかさず塞ぐ。不思議そうな顔をする船頭と他の乗客に、彼女は愛想笑いで誤魔化した。そして小声で、
「ここで言う人がありますか!? 何のためにここまでコソコソ動いているのか……貴方も状況を考えてください!」
しっかり怒られた悠天と海人は、揃ってしゅん、とうなだれる。海人はともかく悠天も意外と素直だ。そんな時、
「そこのお嬢さんらは伊勢まで行かはるの? ええ!」
頬かむりをした猿顔の老人が、少し驚いたような顔で話しかけてきた。荷物や雰囲気を見るに地元民だろう。
「ええ。少し用がありまして」
「でも、なにもこんな
「急ぎの用ですので」
「なるほど、そりゃ難儀やなぁ」
老人は憐れむような目で海人たちを見る。確かに命令でもなければ、この時期に徒歩での旅行なんて誰も企画したくはないだろう。
海人は内心で老人の言葉に同意していたが、老人は突然表情を少し険しくして、
「でも、どうしてもやないんやったら止めといた方がええかも知れへんで」
「え、なんで?」
不穏な言葉に思わず聞き返す海人。
そんな彼に老人はひそひそ声で、
「ここだけの話な、どうも上皇さんが近々でかい戦を仕掛けはるらしいねん」
「……………………………………なんて?」
「戦や。南都の上皇さんが東で戦をやらはるらしいんよ」
「はぁっ!?」
思わず声を上げる海人。仁王丸も声こそ上げないが目を見開いて驚きを露にする。
突然飛び込んできた衝撃の情報。悠天はあまり興味が無さそうだが、紛れもなく非常事態だ。驚愕する海人に構わず老人は続ける。
「まあ、知り合いの知り合いからの又聞きやねんけどな。ともかく、そんで今伊賀の辺りに兵がぎょうさん集まっとるらしいんよ。やからな、あっちの方を抜けて行くんは大変やで? 多分こっちからやと
「マジか……」
鈴鹿関は近江国と伊勢国、すなわち今の滋賀県と三重県の境にある関所だ。事前に決めていたルートではそこを経由することになっている。これでは計画の変更が必要だ。
「仁王丸、どうする?」
「……鈴鹿の関一帯が通れないなら、一度
険しい表情を浮かべる仁王丸。無論、海人もどうしたら良いのか分からない。
二人は困り果てて黙り込んだ。そんな時、
「ぷはっ! いつまで押さえておるのじゃ! 殺す気か!」
仁王丸の手を跳ね除け、悠天が青ざめた顔でそう叫ぶ。客の皆がこちらを向いた。仁王丸はそんな彼女を睨みつける。
少々理不尽な対応ではあるが、悠天は気にも留めない。そして一つため息をついた。
「まったく、黙って聞いておれば何を困っておる。正面突破で良いじゃろう」
「流石に厳しくないですか?」
「馬鹿なんですか?」
「おい女、いささか我に対して当たりが強くないか!?」
どうやら仁王丸は一方的に悠天を嫌っているらしい。それはともかく、彼女の提案が無茶に思えるのも事実だ。
――いや、悠さんはコレでも一応神子……あの『彩天』や『蒼天』と同格の存在だ。最悪、上皇軍を全滅されればモーマンタイくらいに思ってるのかも……
海人はそんなことを考えていたが、
「そこの翁よ。上皇の兵は伊賀に集まっておると申したな。その数は如何ほどじゃ?」
「えぇ? うーん、数は分からへんなあ……けど、周りの国中から伊賀に集めてはるって話やから、相当な数には違いないね。万はいくやろなぁ」
「なら、
「へ?」
老人は少し不思議そうに首を傾げた。だが、答えは持っているようで、
「あー……甲賀は知らへんけど、安濃津は今全然人おらへんらしいのよ。上皇さんの家人は皆伊賀か大和まで引き上げてしもたらしくて、そんで商人連中も近江の方か、もしくは山田の……お伊勢さんの方に動いたらしいよ? あの辺に住んでる親戚がゆうてたわ」
老人は事細かに語る。それを聞いて悠天はしばし空を仰いだ後、ふむ、と頷いた。
「なるほど、やはりな」
「?」
何か気付いたふうの悠天とは対照的に、海人は首を傾げる。そんな彼に、悠天は教え諭すように人差し指を立てて、
「良いか? 奴らはおそらく東海道沿いに東国へと兵を出すつもりじゃ。なら、逆に伊勢の方はその分手薄になる」
「それが、なにか?」
「つまりじゃ。関さえ越えられれば、むしろこのままの道の方が安全という訳よ」
筋は通っている。通ってはいるのだが、
「どうやってその関を越えるんですか」
海人より先に、仁王丸が呆れたような声で尋ねた。そう、問題はそこだ。それがどうしようもないから困っているのだ。
だが、悠天は「は?」などと間の抜けた声を上げる。
「飛べば良いだけじゃろ」
「飛ぶ?」
「関所など、転移で飛んでしまえばなんてことはない」
彼女は当然のように言い放つ。
――そうか、転移術式!
海人は先日の一件を思い出す。師忠が彼を御所に呼び寄せた術式がそれだ。確かに、あの術式があれば上皇軍と会わずに済む。
「仁王丸は転移術式使えるの?」
「……短距離なら。ですが、私の神気では自分が移動するのでやっとです。悠天様はともかく、神子様が……」
「案ずるな。我が持って行ってやる」
「おおー!」
何とも頼もしい一言、流石は神子である。同じ神子でも海人とはえらい違いだ。
ともあれ、これにてルートの問題は一応の解決をみた。
▼△▼
三刻後、舟は岸に着いた。
琵琶湖東岸、
海人の自動巻きの腕時計は17時22分を指している。もうすっかり黄昏時だ。
ちなみに時計の時刻は、海人が体内時計と太陽の位置から勘でこの世界基準に合わせた。滅茶苦茶に適当な合わせ方ではあるが、大体の時間感覚はこれで掴めているらしい。
「……にしても、意外と栄えてない?」
「ああ、ここは近江国府のお膝元。藤原の奴等、特に実頼が力を入れて開発しとるらしい。都を除けば畿内でも一、二を争う賑やかな町じゃな」
「はえー」
「其方本当に何も知らんのじゃのう。面白き面白き」
海人が転移してきたことを知っている様子の悠天は、どこか楽しげな様子である。
「とりあえず、駅家を使えない以上宿を探さなくてはなりませんね……」
▼△▼
――近江国、勢多橋、日暮れ前。
海人たちと同乗していたあの老人は、夜の帳が落ち行く中、一人寒風の吹く瀬田川を眺めていた。
(――ええ。はい。手筈通り)
提灯を持って足早に家路を急ぐ人々は、無言の老人など一顧だにしない。それが、彼にとってはむしろ好都合であった。
(――すべて仰せの通りに。……はい。『悠天』も『再臨』も、そして『佐伯の若君』も。……ええ。南都の軍なんかに見つかったら元も子もない……はい、それでは)
老人はふう、と息をつく。そしてふらふらと歩き始めた。
「まったく、あのお方は先でも見えてはるんか? おお、怖い怖い」
一人そう呟くと、彼は宵闇に消え行った。彼の行方は誰も知らない。
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