第29話:最速最短の王手飛車
朝霧の中、
国府軍三千に対し、南都軍は四千。その上奇襲である。小競り合いこそあれ、まともな戦乱から十年離れていた朝廷軍は完全に油断していた。
最初の攻勢で兵は大崩れ。士気の高い南都軍に押しやられて統率もままならない。形勢は火を見るより明らかだった。
まともに戦っては全滅は必至。
早々に不利を悟った山城守
そして、男山八幡宮付近での朝廷軍との挟撃を狙って、木津川沿いに北方への退却を画策した。
これに対し南都軍は迷わず追撃を決定。同じく木津川を遡上し国府軍殲滅の動きを見せる。
想定を上回る南都軍の進軍速度に、国府軍は朝廷が設置した転移術式をやむなく使用。命からがら男山まで辿り着いた。
しかし南都軍は突如進路を変え、国府軍の追撃を中断。宇治を経由して入京する構えを見せる。
挟撃に失敗した山城守は、時間を稼ぐために南都軍との戦闘を決断、東へ進軍。かくして両軍は山城国南部、巨椋池の畔で再び相対した。
ここまでが、仁王丸が師忠から伝えられた戦闘の経過である。
「え……これ普通にヤバくね?」
「ああ、かなりヤベェ……」
犬麻呂は奥歯を噛みしめ冷や汗を流した。
「平安京の軍がいくら精強でも、ここまで突然じゃァ対処が間に合わねェぞ」
仁王丸も彼の言葉を首肯し、険しい目つきで南東の方角を向く。
「本来なら国府で対処し、その隙に兵を動員する……それが皇都防衛のあらましだった。初手で国府軍が全滅に近い打撃を受けた今、平安京がとれる手は殆どありません」
平和な暮らしを送っていた海人には、到底想像もつかないような事態。彼は目を見開いたまま動揺を隠し切れない。だが、仁王丸は追い打ちをかけるように、
「懸念はまだあります」
「え」
「恐らく、『影』はまだ平安京に潜んでいる。それに、『蒼天』までいる可能性があるそうです」
「蒼天だとッ!?」
慄然とする犬麻呂。一方、海人は首を傾げる。
――蒼天……どこかで聞いたような……
怪訝な顔の彼に仁王丸は目を伏せて、
「……蒼天は水の気脈を司り、
「一万を一人でっ!?」
おぼろげに伺い知っていたとはいえ、想像を遥かに上回る規格外さに海人は驚愕する。人の域を超えた化け物がこの平安京にいるかもしれない――そんな危機的状況に、彼の背筋は凍り付いた。
「もしホントに蒼天がいて、今動こうッてんならかなりマズい。悪手を打てば平安京が終わるぜ」
「対処できそうな方は数人思い付きますが、状況が状況です。いま何人が動けるか……」
「そんな……」
想像以上に深刻な事態に、海人は青ざめた顔で唖然とする。南都軍四千、『影』、そして『蒼天』。上皇が朝廷に突きつけた三つの刃は、いずれも平安京を死に追いやりかねない。
あっさり朝廷を出し抜き、最速最短で王手飛車をかけた南都の上皇。その実力の一端に触れて、海人はただただ戦慄した。
▼△▼
平安京、藤原時忠邸。
「アイツは俺に戦場へ出ろって言うのか?」
跪いて文を差し出す
「何が吉例だっ! 体のいい貧乏くじの押し付けじゃねェか!!」
時忠は蔵人を蹴飛ばすと、額に血管を浮かべて怒鳴り散らす。彼はひときわ大きなため息をつくと、蹲る使者を睨みつけ、恨めしそうに呟いた。
「実頼の野郎……」
「……ぅ」
「そもそも、なんで俺がアイツらの命令を聞かなくちゃなんねぇんだ? あぁ!?」
忌々しそうな目で時忠は声を荒げる。というのも、彼は反実頼・師輔派筆頭の公卿。あの兄弟のことを蛇蝎のごとく嫌っているのだ。
とはいえ、蔵人所からの下文は帝の命令に等しい。時忠といえども無視するわけにはいかなかった。彼は面倒くさそうに文を開いて一瞥するが、
「はぁ!? 今から半刻以内に出陣だと? ふざけてんのかッ!!」
時忠は文を床に叩きつける。使者は肩をわなわなと震わせ、部屋の隅で小さくなっていた。しかし彼は務めを果たすべく、恐れを抑えて口を開く。
「くっ、蔵人頭殿の手配で兵の編成は済んでおります! 時忠卿には速やかに出陣して頂きたいのですが……」
そんな言葉に、時忠は一層不機嫌そうにため息を吐く。しかし、苛立ちの中に諦めが混ざったような声で、
「どうせ摂政や帝にも上奏済みなんだろ! なら、今更どうにもならねぇじゃねぇかっ!!」
「……」
使者は静かに頷く。
「チッ……」
時忠はわざとらしくドン、と音を立てて踏み込むと、苛立たしそうな表情で自邸を後にした。
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