第39話「藤棚」

 起き抜けで目を開ければ、傍にあったはずのぬくもりはなくなっていた。大きなふわふわの布団の上には、私だけ。


「……なゆた?」


 起き抜けの声は自分でもびっくりするくらいに、出なかった。


「ここに居る」


 すかさず彼の声が聞こえた方向を見れば、軽く一枚だけ羽織っただけの那由多が窓際に座っていた。


 青い空に映える、しどけない色男。彼は熟睡してしまった私と違ってあまり寝ていないのか、少しだけぼうっとした表情になっていた。


「……窓際に座るの、好きなの?」


 那由多がそうして窓際に座っている姿を、今までに何度か見たことがあった。


 横になったままの私は、微笑んで彼にそう聞いた。那由多は、柵に手を掛けたまま目を細めて頷いた。


「うん。なんか心地良い風を受けているのが、好きなんだ。空を飛んでる時も良いけど……だから、風邪を引いた時に、聖良の部屋の外に居た時に怒られたけど。俺はあれは、好きでしていたから」


「ああ……なんか、そういえば……そんなこともあったねえ」


 川に落ちて風邪を引いてしまった時の出来事は、ほんの少し前だったというのに、それから色々なことがあり過ぎて記憶が遠い。


 毎日仕事会社に通いで変わり映えのしない毎日を同じようなことを繰り返してた時とは、全然違う時間。濃密とも言える時間だった。


「聖良……気分は、どう? 今日は、連れて行きたいことがあるんだけど」


 那由多は大幅に寝坊をしたらしい私を、気遣うようにしてそう聞いた。


「連れて行きたいところ……?」


 那由多と結婚することになって、私たち二人はずっと祝言に向けての準備に追われていた。やっとこれからは、ゆっくりと過ごすことが出来ると思っていたところだった。


「そう。約束をしていたから……綺麗な場所だよ。俺もあんなにまで見事な藤棚は、あの場所しか知らない」


 那由多はその場所に思いを馳せるように、遠くを見た。窓の外は明るい。どこかで、鳥が鳴いている声もする。


 青空の中でこぼれるような薄紫の藤の花は、さぞ美しいだろう。那由多は五十年もの長い間、ずっとこの約束を果たしたかったのかもしれない。果たせない約束のままに、諦められずに。


「うん。私も、行きたいな……ありがとう。約束を、忘れないでいてくれて」



◇◆◇



「うわぁっ……」


 上空から薄紫色の雲が広がるような光景を見て、思わず言葉をなくしてしまった。


 なんとも美しくて幻想的で……本当に例えようもないくらいに美しかったから。広い範囲四方に広がる藤の花は、どこまでも続いているような……そんな気にもなってしまった。


「本当に綺麗だろ? これを、見せてあげたかったんだ」


 そうしみじみとして言った那由多の言葉に、込められた想い。それを、泣きたいくらいに感じてしまうのだ。五十年間も、どんな思いで彼は乗り越えて来たのかと。


「……ねえ。ここに連れて来てくれて、ありがとう。本当に綺麗……こんな、まるで夢の中みたいな場所があるんだね」


 那由多はそのまま地面にまで降り立って、何も言わずに上を指差した。


 紫色のシャワーが降り注ぐような……本当にこうして存在しているのが信じられないくらいに、綺麗な景色。


 そして、私はなんとなく那由多の前で、あの時と同じように踊った。


 彼がきっと、亡くなってしまったせりに少し似ていると気が付いて、私が気になるようになった、あの時と同じように。


 視界の中は現世のものとは思えぬ程の、薄紫な空間。


「那由多……ずっと……忘れないでいてくれて、ありがとう」


 踊り終えて彼の方を見れば、那由多は静かに涙を流していた。これを見ることを、彼は夢見て来たのかもしれない。


 そして、それは今。ようやく、叶った。


 私は歩み寄って、那由多の涙で濡れた頬に手を当てた。濡れた漆黒の瞳の奥に私が映ったと思うと同時に、強く抱きしめられた。


「一度も、忘れたことなんてない。忘れられなかった」


Fin

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神隠し、約束を舞った、恋探り。~二枚目天狗たちの花嫁争奪戦~ 待鳥園子 @machidori

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