結月と狂った夏の終わり

大窟凱人

結月と狂った夏の終わり

「心中しよう」


 と、父は言った。

 

「え? 何言ってんのお父さん」


 結月が笑って返すと、母の明奈と、兄の洋平も笑った。

 冗談、だよね?

 結月の父、恭太は何も言わずに微笑んでいた。



 中学三年の夏休み終盤。結月は家族四人でキャンプ場にやってきていた。朝から車を走らせ、テントを立て、川釣りを楽しみ、夜はバーベキューをし、それが終わると焼きマシュマロを食べながら、焚火を囲んで眠くなるまでみんなではしゃぐ。いつもとは違う環境での時間は新鮮で楽しい。そんな最高の夏の思い出になるはずだった矢先の、父の不穏な発言だった。

 笑い合う結月たちをよそに、微笑みながら沈黙する父の目がギョロリと見開いた。 


「……本気だよ」


 今度は、父は笑っていなかった。

 父の瞳孔が大きく広がった目、そして暗い表情は、まったくの別人を見ているかのようだった。

 ゆっくりと、薄ら寒い絶望が闇夜に紛れて結月たちを包み、母も兄も口を閉ざした。

 笑い声で包まれていた空間に、焚火がパチパチと爆ぜる音と、虫の音だけが響き渡る。

 

「実はね、お父さん、会社クビになったんだ。今年四十の働き盛りだってのに。ひどい話さ。水面下で僕を外すようにいろいろ動いていたみたいなんだ」


 初めて聞く話に、結月たちは顔を見合わせた。


「あなた……ほんとなのそれ?」

「ああ。僕はどうやら、会社にいらない人間だったみたいだ。代わりに僕の後輩が大出世さ」


 父はどこか焦点の合わない目で、空を見ながら言った。

 お父さんが、会社をクビ……確かにショックだけど……でも……。


「だ、大丈夫だよお父さん。また、新しいところで頑張ればいいじゃない」

「どうやって?」


 見開いた不気味な眼差しが結月に向けられる。

 こんな顔をする父を見るのは、生まれて初めてだった。


 怖い。


 恐怖が、彼女の心を蝕んだ。


「いいかい? 今は不景気……しかもこれからさらに悪くなるだろう。そのうえ能力主義の世の中だ。こんな落ちぶれたおじさんを雇ってくれる会社なんかないさ。あったとしても、安い仕事しかないだろう。それで、どうやってお前たちを養っていくんだ? 子供というのは、親以上に成功なんかできないもんなんだよ。そういうデータだってある。洋平、結月! お前たちは、必ず不幸になる。我が子が惨めでつらい人生を送るのを黙って見ていられないんだ。僕にはわかる。こんな出来損ないの男が、子供をつくってしまったりしてごめんな。その代わり、責任は取る。明奈。お前もだ。俺が、責任を持って、殺す。不甲斐ない旦那でごめん。ごめんよ」

 

 結月には父が何を言っているのか理解できなかった。未来のことなんてわかりっこないのに私たちの人生を勝手に決めつけて、殺す?

 

「父さん、落ち着けよ!」


 洋平が声を上げた。

 警戒心をむき出しにし、いざとなれば戦う姿勢をとった。


「落ち着いているさ。凄くね」

「はあ?」


 その時、結月の意識が遠退く。頭がぼーっとし、視界が徐々にぼやけてくる。


 なに、これ?


 バランスが取れず、結月は椅子から崩れ落ち、地面に横たわった。

 兄が結月に「大丈夫か?」と声をかける。だが、その兄もよろけたあとに地面に倒れた。母も、同じようにドサッと倒れて気を失った。 


「殺すと言っても、お前たちは俺の大切な家族だ。苦しませたくはない。練炭自殺というのを知っているか? 苦しまないように死のう。みんな一緒に」


 薄れゆく意識の中で、父のおぞましい声が聞こえた。




 

「う……」


 目を覚ますと、車の中だった。

 ぐらぐらする頭を起こす。見慣れた六人乗りのワゴン車には、助手席に母、隣に兄が座っていた。

 そうだ。私、気を失って……お父さん、飲み物に何か薬を混ぜたの? 信じられない。

 

「ゴホ!」


 車内は、煙が充満していた。後部座席を見ると、アイボリーの練炭コンロから煙がもくもくと立ち昇っていた。

 

 ここからでないと。


 結月は車にドアに手をかけた。鍵が締まっていたので解除し、スライド式のドアが開く。

 倒れ込むように外に出ると、彼女は芝生の上に転がった。

 咳き込んで肺に溜まった煙を吐き出す。

 車の周りは、ランタンの光で明るかった。


 つ……次はお兄ちゃんとお母さんを助けなきゃ。


 結月は立ち上がり、煙で充満する車内の方を向く。


「いけない子だ」

「っ!?」


 心臓が跳ね上がった。

 背後から、父の声。振り向くと見開いた目の父が立っていた。


「結月は薬の効きが悪いようだな。飲んだ量が少なかったのか? ダメだぞ好き嫌いしちゃ」

「お、お父さん、助けて。お母さんとお兄ちゃんが死んじゃうよ」

「大丈夫だよ。みんなで天国に行くんだから。この残酷な世界から解放されよう」


 ダメだ。もう、こんなのお父さんじゃない。だけど、今は時間を稼がないと。

 

「お、お父さんは? なんで一緒に車に入らないの? 一緒に死ぬんじゃないの?」

「ん? それは、お前たちが本当に死んだのかどうか、きちんと見届けるためだよ。死ぬのに失敗して、置いてきぼりなんてかわいそうじゃないか。安心しなさい。僕も必ず、後を追う。さあ、車の中に戻りなさい」


 狂った父が、結月ににじり寄って来る。


 結月は、たまらず駆け出す。

 同時に父は飛び掛かってきた。だが彼女は姿勢を屈めながら掴みかかって来る父を躱し、森の暗がりへと走る。

 バスケ部である彼女にとってこの程度はわけなかった。


 森の中へと逃げ込んだ結月はまず、自分のポケットを確認した。入れていたはずのスマホは、ない。父が抜き取ったのだろう。これでは警察に電話をすることはおろか、地図アプリで現在地を確認することさえできない。


 ここ、どこ?


 結月は走りながら周囲を見渡す。キャンプ場の近くには違いなかった。しかし、夜の暗い森、そのうえパニック状態にあっては、今どこにいるのか、他の利用客がどの辺にいそうなのか、まったく見当がつかない。

 彼女はとにかく、闇雲に走った。


「結月~! 待て~!」


 父の声が後方から聞こえる。


 うう……どうしよう。


 結月は草木をかき分け、暗闇の森の中を走り続ける。

 足に草が当たり、チクチクと痛む。

 先の見えない真っ暗な森の奥へと進むにつれ、不安は増していった。

 

 ハァ……ハァ……。


 次第に息が上がってくるが、部活で鍛えている彼女にはまだ余裕がある。

 折を見て彼女は後ろを振り返った。

 後方にいる父との距離は徐々に開いている。このままいけば、逃げ切れるかもしれない。

 でも……。


 走りながらも、結月は母と兄が心配だった。

 二人は、未だにあの煙が充満している車の中にいる。


 ほっといたら、お母さんとお兄ちゃんがきっと死んじゃう。車から出た時点で生きてるかどうか確かめられなかったけど、私がまだ大丈夫だったんだから、もしかすると生きてるかも。二人を助けるには、車に戻らなきゃ。誰かに助けを求めている時間は、ない。


 結月は走るスピードを緩め、辺りをキョロキョロと見渡す。

 使えそうなものは、石、もしくは木の枝だ。重いものは持てない。彼女は、長くて丈夫そうな木の枝を探した。

 走りながらも、ちょうど良さそうな、1.5mくらいの槍のような木の枝を見つけた。結月は持ちやすい長さにするために膝で枝を折る。

 枝はバキッと折れ、ギザギザで鋭利な木の先端があらわになった。


 うわ……これ、痛そう。でも、やるしかない。


 後ろからは父の間の抜けた声が聞こえてきた。

 おびき寄せて、暗がりから突き刺して、行動不能する。

 結月はそう強く自分に言い聞かせ、深呼吸した。


「お父さん、来ないで! たすけてよ!」


 悲痛な声を装った。


「そこにいるのか?」


 目論見通り、父は結月の声のする方へと方向転換した。

 結月は、草むらから父の様子を伺いつつ、身をかがめてチャンスを狙う。

 パキッ、パキッと枝を踏み折りながら、父がこちら近づいてくる。

 枝を持つ手が震える。息が荒い。汗が滝のように滴り落ちてくる。怖い。まさか自分が人を刺す日が来るなんて、夢にも思っていなかった。

 父の足音は、そんな結月の胸中などお構いなしに、少しづつ大きくなってくる。

 射程距離まで、あと数秒だ。


「結月ー?」


 来た!

 彼女は父の姿を確認すると、脇腹めがけて飛び出した。

 

「うっ!」


 肉を抉る感触が、枝越しに伝わってきた。

 見ると、枝の先端が父の横っ腹に突き刺さっている。

 父のシャツが、じわっと赤く染まる。

 

「ぎゃ…‥‥ぎゃああああ!」


 少し遅れて、父が叫んだ。

 父はその場に崩れ落ちる。結月は枝から手を離した。父は枝が深く突き刺さった腹を抱えて悶えている。

 

 彼女は頭が真っ白になりそうだったが、ぐっとこらえた。


 車に戻る!


 一刻の猶予もない。結月は走った。

 



 元来た道を走りながら戻っていると、ランタンの灯りが見えた。

 

 あれだ。


 結月は速度を上げ、車に辿り着く。そして、ドアを開けた。幸運なことに、鍵は閉めていなかったようだ。

 助手席のドアも開けると、まずは母を車から降ろした。次いで兄を引っ張って降ろし、地面に寝かせる。


「お母さん、お兄ちゃん、しっかりして!」


 返事はない。

 結月は、二人の鼻に指を当てたり、心臓の音を確かめたりして彼らの生存を確認した。


 よかった……生きてる。


 練炭の煙は、まだ母と兄の命を奪っていなかった。今は父が飲み物に混ぜた薬が効いて眠っているだけだった。

 しかし、安心している暇はない。結月はスマホを探した。

 車のボンネットの上に置いてあるランタンを手に取り、車の荷台や周囲を探し回る。ところが、いくら探しても見当たらない。


 結月はスマホのことはいったん諦め、母と兄のそばに座り、とりあえず兄の体をゆすったり頬を叩いた。


「ねえ! 起きて! ここから逃げるの!」

「どこへ逃げるんだ?」


「っ!」


 背後から父の声。

 振り返ると、脇腹に手を当てて立っている父がいた。余裕だった表情は消え去り、狩りをする獣のようだった。


「逃げ場なんかないぞ。町へ帰れば、地獄が待っているんだ。お前も嫌だろう? あんな場所に戻るのは」

「来ないで!」

「ダ、ダメだよ。いい子にしないと」


 父は結月に素早く近づくと、首に掴みかかった。座ったままの体制だった結月は躱すのが遅れ、首を掴まれてしまう。

 結月は抵抗したが、大人の男に力にはまったく敵わない。

 爪を立てれば立てる程、首の骨が折れるんじゃないかと思うくらい強く締められた。

 視界が、ゆっくりとぼやけていく。


「く……あ……あ……」

「お前は悪い子だから、お父さんが直々に殺してやる。さあ、楽になろう」


 その時、父の背後に、誰かが現われた。

 彼は父の首にさっと腕を巻き、まるで蛇のように締め付ける。


「ぐあ!」


 腕から筋肉が隆起し、ギギギ……と強く力が込められていく。

 いわゆる、チョークスリーパー。それを父にかけたのは、兄だった。

 もの凄い力だったのだろう、父の手は結月の首から離れた。


「ゴホッ、ケホケホ!」


 その場に崩れ落ちながら、結月は咳き込んだ。

 そして見上げると、兄は依然として父の首を絞めつけ続けていた。父の顔は圧迫され、ゆでだこのように赤くなっている。父がどれだけ引き離そうとしても、兄は決して腕を放さなかった。


「う……ぐあ……」


 やがて、父の抵抗は弱くなっていき、腕がだらんと落ちた。

 兄は気を失った父を解放すると、その場に座り込んだ。


「はぁ……はぁっ……」

「お兄ちゃん……」

「スマホを探そう。助けを呼ぶぞ」

「うん」


 

 

 父のポケットからスマホを見つけ、警察を呼ぶと、三十分後にはパトカーが数台キャンプ場に駆けつけた。辺りは複数の赤いランプの明かりで騒然となった。


 この三十分間、父がまた目を覚まさないか気が気じゃなかったので、結月と兄の洋平は結束バンドで彼の手足を拘束して待ち続けた。結局、父は起きなかった。

 母は気を失ったまま救急車に運ばれ、結月たちも一緒に乗った。

 父はそのままパトカーに乗せられるらしい。


 救急車の扉が閉まり、ゆっくりと走り出す。結月は、後ろの窓から父の様子をみた。

 父は警察官たちの肩を借りながら運ばれていた。警察に起こされ目を覚ましていたが、その横顔からは生気がまるで感じられず、目は虚ろだった。


 夜の公道を走る救急車の中で、結月は今日の出来事を反芻していた。

 優しかった父がまさかこうなってしまうなんて。

 背筋に、ぶるっと悪寒が走った。


 あの恐ろしい見開いた目と、豹変した父の言葉が頭をよぎる。

 

 逃げ場なんかないぞ。町へ帰れば、地獄が待ってるんだ。

 

 まだ十五歳の少女には、何が父をここまで追いつめたのか分からなかった。

 ただ、どこまでも続く真っ暗な闇が彼女の目の前に広がっていた。

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