第18話 さわられたい女――3
相羽は女性に話し掛け続けた。どんな言葉遣いをすればいいのか判断しかね、内心、戸惑いながら。そして案の定、返事はすぐにはない。
やがて見ていられなくなったのか、今度はおばあさんまで名乗ることに。
「しょうがないねえ。私も名前を言うから、お嬢ちゃんも言いなさい。私は
場の空気を和らげるためにわざとなのか、面白おかしく言った。その効果は程なくして出た。
くだんの女性は両手を顔から離し、それでもうつむいたまま、答え始める。かすれ気味の声は、年齢に不釣り合いなように聞こえた。
「……
もう少し待っても、下の名前が言われることはなかった。もし、後ろめたいことがあるのなら、これが偽名である可能性は否定できない。しかし、相羽にとって、それは些細な問題に過ぎなかった。
「檜垣さんは、どこへ行くつもりで、あの電車に乗っていたんですか」
「……」
黙り込んだかと思うと、また泣き出してしまった。何かまずいことを言っただろうかと訝しみ、寄り目になる相羽。
しばらく考えて、一つ、閃いた。
「もしかして、当てもなく乗っていた?」
「……はい……」
返事をしてくれて、ほっとする。これで少しは進めやすくなるのではないか。
「つまり、電車に乗ること自体が、目的だったんでしょうか?」
「それは……あ、あの」
今度は、顔を上げてくれた。化粧気は乏しいとは言え、泣いて、かなりひどい状態になっている。だが、檜垣の表情には、これまでになく、強い意志が感じられた。
「さ、最初に、とにかくっ、謝らせてくださいっ。ごめんなさいっ」
椅子からずり落ちるんじゃないかと思えるほど、深く深くこうべを垂れる。これに対して相羽から声の反応がなかったせいか、檜垣は椅子を離れると、今度は床に正座して、土下座まで始めようとする。
相羽は急いで立つと、檜垣の手を取った。
「あの――分かりましたから、いいです。座ってください」
「で、ですけど」
「謝ってもらえて、だいぶすっきりしました。あとは、事情を聞かせてください。気になって仕方がない」
檜垣を立たせ、元の椅子に座らせる。
相羽は疲れた息を吐き、自分の椅子に戻る。その際、座って傍観しているおばあさんと目が合う。呆れ顔を向けられていた。
「わ、私……電車に乗ったのは……」
相羽が座ると、檜垣は小さな声で、ぽつり、ぽつりと雨垂れのような調子で語り出す。
「観光みたいなものです。お金の掛からない……」
「お嬢ちゃん、どこから出て来たの?」
背景の掴みにくい話しにしびれを切らしたか、おばあさんが口を挟む。やけに優しい話しぶりになっている。
「……九州の方、です」
詳しくは言いたくないのか、こう答えるのみの檜垣。折角起こしていた顔が、またも下を向いてしまった。
「それで……事故のせいで、電車が混んできたのを見てる内に、急に思い付いたんです」
依然として、話のよく見えない喋り方だったが、相羽は辛抱強く聞いた。
「被害者になれば、新聞に載れる。女の私にとって、一番簡単なのは、ち、痴漢にあったことにすればいい、って」
「満員電車からの連想ですか」
深い息をまたつく相羽。檜垣は無言でうなずいた。
「そ、それで……辺り、見回したら、恐そうな人ばっかりで、嘘の痴漢騒ぎなんか、起こせないなあと思ってたら」
区切り、相羽を一瞥する檜垣。
「優しそうで、だいぶ若い人が乗ってきたから……この人になら、嘘とばれても、許してもらえるかも、って思ってしまったんです。本当にすみません……何てお詫びすれば、許してもらえるか分かりませんが……」
「そうだねえ、許してもらえないわよ、普通は」
おばあさんが口を挟む、と言うよりも、茶々を入れる。それから相羽の方を見て、何か言ってやりなさいとばかりに、顎を振る。
「いいんですよ。許す許さないの話なら、もう結論は出しました。警察沙汰になっていたなら、僕もこんなのんびり構えていませんけどね。そうなる前に言ってくれたのだから……。あとは、さっきも言ったように、どうしてこんなことしたのか、教えてください」
相羽は微笑みながら、檜垣を促した。
対する檜垣は、目元を手でごしごしこする。またしばらく時間を置いて、やっと決心が固まった風に、まず唇を結んだ。
「ニュースになって、新聞に載りたかったんです」
「はあ?」
頓狂な声を上げたのは、おばあさんの方。腰を浮かして、張りのある口調で檜垣へと歩み寄る。
「それって、お嬢ちゃん、有名になりたいってことかい?」
「ち、違いますっ、そうじゃないんです!」
慌てて首を水平方向に振る檜垣。勢いがつき過ぎて、丸椅子の脚が床を叩き、かたかたと乾いた音がした。おばあさんが鼻で息を吸い、
「じゃあ、何なんだろうね」
と詰問調で言った。苛立つのも分からなくはない。ただ、これまでに見て取れた檜垣の性格や今置かれている立場を推し量るに、追い詰めるのもよくない。
相羽は、おばあさんに目でお願いをした。もうしばらく我慢してください、と。そしてそれは伝わったらしく、おばあさんは肩を大きくすくめ、椅子に戻った。
「私……」
相羽が言葉で促す前に、檜垣が口を開いた。よい兆候だ。
「姉に会うために、出て来たんです。でも会えなくて」
「会ってもらえなかった?」
「いいえ。そうじゃなく……」
「まさか、住所が分からないまま、出たとこ勝負だったとか」
事情があって、姉は妹を始めとする家族に住まいを告げずに、出て行く……ありそうな状況に思えた。
だが、檜垣は否定した。
「それも違うんです。住所は分かってましたが、行ってみたら、すでに引っ越したあとでした……」
状況としては、大差あるまい。
(仮に、この人の姉が犯罪に巻き込まれているのなら、一大事だけど)
檜垣の様子を観察する相羽。どうやら、そこまで悲観的な事態ではないと見えた。
「それで、調べようにも、手がかりも伝もまるでなく……途方に暮れてしまって。考える内に、私がこっちに出て来てるって、知らせられたら、きっと連絡くれるに違いないと思いました」
なるほど。理にかなっている。
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