第16話 さわられたい女――1

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 相羽信一あいばしんいちは頭を振って、軽い不安を取り除いた。吊革に片手で掴まった姿勢で、人の波に身を任せていた彼は、ふと、おしくらまんじゅうを想起した。

(密閉空間だからこそ、こんなに暑くなるんだよな。小さいとき、外でやったおしくらまんじゅうは、なかなか暖まらなかった)

 人身事故の発生により、列車の運行に遅れが生じ、車輌内は大混雑を来している。駅に着いても、ほとんど人を乗せられずに、ドアが閉まり、また出て行く。あと十五分もすれば、退勤や下校時刻のラッシュに重なるため、今以上に混み合うに違いない。

(まだ、間に合うはず)

 涼原純子すずはらじゅんこの姿が、再び脳裏に浮かぶ。電車に乗る前に、彼女の携帯端末に、念のため一報を入れておこうとしたのだが、つながらなかった。普段から余裕を見て動いているので、約束の時間に遅れはしないと思うのだが、どうしても気になる。

 相羽は、電車が速度を落としたのを機に、吊革を持つ手を交代した。ついでにズボンのポケットに右手をやり、懐中時計を引っ張り出す。

(待ち合わせの時刻まで、あと三十五分ぐらいか)

 いつまでに運転再開になればいいか、頭の中でおおよその時刻を算出しようとした、その矢先――。

「ど、どこさわって、たんですか」

 女性の声がした。細く、なまりが濃く残る声。どもっているので分かりにくいが、九州の方だろうか。

「あ、あなた、つ、次の駅で、降りてください」

 このときになって、相羽は初めて、女性の言葉が自分に向けられているのだと理解した。

 相羽はいつものぼんやり眼を解き、相手をまじまじと見返す。

 女性は小柄で、最初の声でイメージしたよりも、ずっと若かった。二十歳そこそこといったところだろうか。狭苦しい車内で見えづらいが、黒っぽい地味な衣服は、左胸にある蝶の刺繍が唯一のお洒落という感じだ。

「ち、痴漢したでしょ、あなた」

「そんなことしていません」

 相羽は静かに答えた。

「何かの勘違いです」

 答えながら、もしかして時計を出し入れする動作が、誤解を招いたかなという考えが脳裏をかすめた。

 しかし、それは女性の次の発言で打ち消される。

「い、言い訳するの? ずっとさわってたくせに」

 ずっととなると、先ほどの懐中時計の件は、全く無関係だ。相羽は困惑した。本物の痴漢がいて、そいつと自分は間違われたらしい……。

 周囲の目が集まっていた。乗客は男性が多いが、女性もちらほらいて、何やら囁き合っている二人組さえいる。

 ここで抗弁すべきかどうかを逡巡する間に、電車がプラットフォームに滑り込んだ。

「さあ、降りてくださいっ」

 決死の覚悟のような調子で叫び、女性が相羽の手を掴み、押す。相羽の方が開いたドアに近いのだ。

 相羽は極力ゆっくりした足取りで、プラットフォームに降り立った。逃げるつもりは毛頭ないという意思表示のためだ。ただ、面倒に巻き込まれたなという疲労感が、急速に身体の中を満たしていく。そしてこのあともっとまずい成り行きになる恐れがあることも、ひしひしと感じていた。

 相羽の手首を掴んだまま、相変わらず必死の形相でいる女性も下車した。他にも数名、降りた模様だ。そして、中の乗客達数名が好奇の目を外に向けたまま、電車は何事もなかったかのように、多分定刻通りに発車した。

 相羽は、即座に警官の詰め所に連れて行かれるのかと思っていたが、女性は困惑した風に立ちつくし、やがて左手の親指を口にやって、爪を噛む。

(二人だけになって、恐怖感を覚えたのかな? でも、それを僕が慰めたり、気を回したりするのも妙だし)

 手持ちぶさたになり、駅の時計に視線を向ける。

(長引くんだろうな。遅れてしまう。連絡取らせてもらえるだろうか。とにかく、早くすませたいんだが)

 首を巡らせ、鉄道警察隊の詰め所を探す。幸か不幸か、今いる位置からは、見当たらない。

 相羽はやむを得ず、駅員が通り掛かるのを待って、呼び止めた。詰め所のある方角を尋ねると、答えてくれるのではなく、「どうかなさいましたか」と聞き返してくる。

 当然、女性が主導権を握って喋り出すだろう、反論はそのあとだと腹を据えていた相羽は、黙って顎を振った。

 ところが、駅員が顔を向けても、女性は話し始めようとしない。頬を強ばらせ、何かを迷っている態度が垣間見られる。

「どうされました?」

 駅員が改めて聞く。しばらくしてやっと面を起こした女性は、相羽を横目でほんの数瞬見やると、すぐまた顔を背け、まなじりを決して口を開いた。

「こ、この人が、私の身体を、さわってたんです。で電車の中で」

「――こちらの方の話は、本当ですか」

 目つきを厳しくし、相羽に向ける駅員。

 相羽はきっぱり、「違います」と答えた。ほんの三秒ほど、にらみ合いのようになる。駅員は目から力を抜いて、逸らすと、ため息混じりに聞いた。

「お二人は、知り合いではないですよね?」

「はい」

 駅員は一つうなずき、今度は女性に何か話し掛けた。

(昔、テレビ番組で、痴漢の疑いを掛けられた男が詰め所に連行されるシーンを流していたのを見た憶えがあるけれど、それとはちょっと違うな。駅員も慎重な感じだ)

 これがたとえば、小説を書くための取材ならどんなにいいことか。そんな考えが、ふと浮かぶ。

「間違いじゃありませんね?」

「ま、間違いじゃないわ。信じられないのですか、わ、私の言うことが?」

「それについて、私が判定を下す立場にありませんので、ご了承願います。とりあえず、駅の警察の方に行っていただくことに――」

「ちょいと、お嬢ちゃん」

 駅員が皆まで言わぬ内だった。新たな人物が割って入ってきた。声のした方を向くと、小柄な初老の女性が立っていた。おばあさんと呼んでも差し支えはないと思われる。少しばかり腰が曲がっているが、それ以外は健康そうで、血色もいい。頭髪はすっかり白くなっているが、上品な身だしなみをしている。

 相羽だけでなく、女性も駅員も、呆気に取られた風に黙したままでいると、そのおばあさんは、歩み寄ってきた。足の運びは、かくしゃくとしたものである。

 そして突然、大声を張り上げる。

「聞こえなかったのですかっ?」

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