第9話 『誤解の勘定』――4
遊興室からホールに出たところで、「たとえばの話さ」と吉見は薄く笑い、続けた。
「上の階にいるのは刈沖だけだよな。直行してみるか」
「早弥子さん達に聞かなくていいか?」
私が心配するまでもなく、厨房の方から女性が一人ふらふらと歩み出て来て、見上げているのが分かった。秀美さんだ。
「さっきの音は?」
互いに同じ質問をぶつけ合い、ともに原因を把握していないと知る。
「早弥子は、『本棚の上から分厚い本を取ろうとして、椅子を蹴飛ばしてしまったんでしょう』って、くすって笑うだけで」
「ははあ。よくあることなのかな」
私と吉見は首を傾げた。物音が大きすぎたような感じがしてならない。
「大したことじゃないでしょうが、僕らで見てきます。刈沖の書斎が何階にあるか、ご存知ですか?」
「あっ、四階よ。縁起の悪い数字にかけたって、早弥子を通じて聞かされましたからね」
なるほど、いかにもホラー作家らしい。十三階まであればそちらを選んだだろうか? 変に感心しつつ、階段へと走った。
手すりに手を軽く添えながら、ステップを駆け上がる。日頃の不摂生が原因か、じきに息が乱れ始めたが、先を行く吉見に「早く、早くっ」と呼ばれて精神的に引っ張られた。嫌な予感が強まりつつあるのは、鼓動が早くなった、ただそれだけのせいだと思いたい。
猶予ならない気持ちが身体の内を支配し、四階分の階段を一気に走りきった。
原稿を仕上げると言っていた刈沖は書斎にいるはず。肩で息をしながら探す。
「ここのようだ」
私より先に落ち着けたのか、吉見は冷静な口調で言った。細身の割に、持久力はあるようだ。階段を上ってすぐ右手にある部屋のドアを、平然と指差している。
ドアには部屋番号はないが、おどろおどろしく溶けかかった字体で「ほらあ いず ぼおん いん ひあ」と書かれたプレートが掛かっていた。間違いない。
息がなかなか整わないが、とにかく扉に張り付く。ノックするのはやはり吉見。
「刈沖。どうかしたか? 今の音は何だ?」
最初は穏やかな調子だった。しかし、部屋の中から反応はない。
吉見は扉を激しく叩き、声を張り上げた。
「刈沖! 寝てるのか?」
私もどうにか平常に戻り、ノックしたり呼び掛けたりに加わる。
そして反応を見るためにしばらく静かにしてみた。喉仏が動くほど唾を飲み込み、室内からのサインを逃すまいと神経を研ぎ澄ます。
だが、声を二人分にした努力も空しく、無反応が続く。
「あれ? おかしいな、全く。――どうなってんだ、くそっ」
つぶやきのあと、大きく叫んだ吉見がノブを回すが、施錠されていた。いくら揺さぶっても、耳障りな音がするだけ。私もやってみたが、ドアが開かれることはない。
「刈沖、鍵開けて! 開けろ!」
息を飲んで待つが、またも返事はしなくなった。急病で倒れた? 嫌な想像ばかり生まれてくる。
吉見が何も言わずに、ドアから離れた。
「どいてくれ」
「破るのか? 手伝う」
「いや、二人いっぺんにぶつかるのは無理だ。君は鍵をもらってきてくれ。それに、早弥子さんを呼んだ方がいいかもしれない」
早速ぶつかり、押し込もうとする吉見だが、ドアはびくともしない。まるで壁だ。元々は旅館なのだから、普通以上に頑丈かつ近代的に作られているのかもしれない。
「畜生、ドラマみたいにはいかないぜ。鍵、頼むぞ」
吉見は吐き捨てると、私に重ねて頼んできた。下りなら先ほどよりはいくらか楽だろう。深呼吸をしてから階段へ向かった。
風に翻弄される草玉みたいに一階へたどり着き、早弥子さんのいる厨房へ一直線に向かう。状況を伝えると、彼女は目をいっぱいに開き、しばし呆然としたように見受けられた。
「早弥子さん? あなたも行く?」
「――はい」
はっとした態度で遅れて答える早弥子さん。肩を小刻みに震わせるのが見て取れた。
「合鍵はありますか」
「そ、そうですね。今すぐ」
言い置くや、駆け出す早弥子さん。記帳のためのカウンターの向こうへ消える。引き出しを乱暴にかき回す音が聞こえたかと思うと、組み合わせた手を胸の前でしっかり握り、今度は階段の方へ。私も追いかけた。
こんなとき、エレベーターが使えたらと後悔しても始まらない。全力を尽くして上に向かう。
四階に到着するや、早弥子さんは「ほらあ いず ぼおん いん ひあ」のプレートがあるドアに縋り付き、鍵を差し込もうとする。が、手が震えるのか、金属音が響くだけでなかなかうまく行かない。
代わろうと思った矢先、私はおかしな点に気付いた。
吉見の姿がない。
廊下を奥まで見通したが、いない。どこか空いている部屋に入ったのだろうか。だとしても何のために? 刈沖は書斎にいるのではないのか?
腑に落ちないでいるところへ、さらに言葉の一撃を食らった。
「あら? 鍵、かかってませんが?」
早弥子さんの裏返った声に、私はドアの前へ跳躍の要領で移動した。
「まさか?」
「い、いえ、本当です。鍵穴に入れようとしてたら、ドアが勝手に開いて」
言葉を途切れさせ、中腰の姿勢の早弥子さんはできた隙間から中を覗き込む。
「あなた……?」
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